第2話 凪いだ夜に残るもの
休憩室での会話が、私の頭の中で何度も反芻されていた。「もし私が、あなたを特別に思っているなら……それは、あなたにとって特別になる資格が、私にあるということですか?」あの問いかけが、果たして和田さんにどう響いたのか、私にはわからなかった。ただ、目の前の彼は、驚いたように目を見開いたまま、何も言わなかった。沈黙が重く、呼吸すら許されないような時間が流れた後、唐突に彼は口を開いた。
「……じゃあ、行くか。次のコマ」
いつも通りに落ち着いた声。その「いつも通り」が、ひどく私の胸を締め付けた。何も解決しないまま、何かが終わってしまったかのような感覚。私は黙って頷き、彼の後ろについて歩き出した。話は終わらないまま、次の授業が始まった。
でも、私は授業にはいつも全力だ。どんなに心がぐちゃぐちゃでも、生徒の前では絶対にそれを見せない。目の前の生徒たちは、人生をかけてこの教室に来ている。私は、その子たちの「未来」に触れる仕事をしている。だから、絶対に中途半端なことはできない。感情も動揺も全部、授業のドアの外に置いていく。それが、講師としての私に課せられた、当然の覚悟だと思っている。
今日も、それは変わらなかった。黒板に文字を書く手に迷いはなく、問いかける声もテンポも緩まない。生徒の小さな表情の変化を見逃さず間を調整し、時折冗談を交えながら、彼らを未知の知識へと導いていく。そうして授業は、完璧に、滞りなく終わった。
だが、授業が終わった瞬間、あの言葉がまた脳裏に蘇る。
──「誰の特別にもなれないって、言っただろ?」
静かな声。どこか諦めを含んだ、遠くを見るような瞳。そのすべてが、何度も何度も頭の中を往復する。授業の間だけ必死に追い払っていたはずの記憶が、今はもう容赦なく押し寄せてきて、私の心をかき乱した。
私は急いで教室を出て、ロッカールームに戻った。リュックに荷物を詰め込みながらも、心は落ち着かないままだった。和田さんはもう帰ってしまったかもしれない。もしかしたら、気まずいと思われてしまったかもしれない。あんな感情的な言葉をぶつけた私を、彼はどう思っているのだろうか──ぐるぐると、思考の渦が巡る。それでも、私の足は、意識とは無関係に動いていた。
ロッカーを閉めて何度も深呼吸する。胸いっぱいに吸い込んだ空気は、なぜかちっとも冷たくならなかった。階段を下り、エントランスのドアを開ける。日が暮れかけていて、校舎の外にはすこし肌寒い風が吹いていた。頬を撫でる風が、私の熱くなった体を少しだけ冷やしてくれる。
建物のそばのベンチに、和田さんは一人で座っていた。スマホを見ているふりをしているが、その目は画面の文字を追っているようには見えなかった。俯きがちに沈んだ横顔に、胸がきゅっと痛くなった。思わず足が止まる。
どうしよう。呼びかけるべきだろうか。でももし、私と話すことが迷惑だったら?彼に、これ以上変なことを言われたくないと思われたら?いや、でも──私はもう一度、自分自身に問いかけた。このまま、何事もなかったかのように帰って、後悔しないだろうか?あの人が自分を「特別じゃない」と決めつけたままで、私が平気なはずがない。そんなの、嫌だ。
そう思うと、迷いは消え失せ、私は真っ直ぐに歩き出していた。躊躇いをほんの少しだけ足跡に残しながらも、ちゃんと前を向いて。
「和田さん!」
名前を呼ぶと、彼はびくりと肩を震わせて顔を上げた。驚いた顔だったが、すぐにそれはいつもの穏やかな表情に戻る。
「すみません……少しだけ、いいですか。今日のこと、ちゃんと話したいんです。このあと、時間、ありますか?」
声が少し震えていたのは自覚している。でも、この場から逃げずに、自分の言葉で言えた。それだけで今はいい。
和田さんは私の言葉に、何かを測るように少し目を伏せて考えるような素振りを見せた。沈黙が数秒続いたが、それはもう私を不安にはさせなかった。そして、彼は静かに頷いた。
「……ああ。空いてるよ」
その返事に、心の中で張り詰めていた何かが、ふっとほどけた。張り詰めていたのは、きっと私だけじゃなかったのだ。今日、こうしてちゃんと話すための時間が必要だったのは、私だけじゃなかった。そう思ったら、頬を撫でていた風が、すこしだけ優しくなった気がした。
「どこかで飲みながら話さないか」
そう誘ってくれた和田さんに頷いて、すっかり暗くなった夜の街を、横に並んで歩いた。お互いの肩が時折触れるほどの距離で、私たちは黙って歩き続けた。街の喧騒が遠く、二人の間だけが、特別な静寂に包まれているようだった。
居酒屋の柔らかな明かりが二人を包む。賑やかな店内のざわめきがどこか遠く、テーブルに運ばれてきたグラスの琥珀色の液体が、向かい合う和田さんの頬を微かに照らしていた。私は少し緊張しながら口を開く。
「さっきの話なんですけど……」
言葉を続けようとした瞬間、和田さんが静かに私を遮った。彼の視線は、私の目ではなく、グラスの縁を彷徨っていた。
「………俺は、本当は天野みたいな子にそんなふうに言ってもらえるような、すごい存在じゃないんだ」
その声はいつもよりもずっと弱く、どこか痛みを含んでいた。彼の声音から、長年抱えてきたであろう、深い孤独の影が見えた気がした。
「誰の特別にもなれないって言っただろ?昔からそうだ。俺は普通に接してるつもりで、そのつもりしかないのに。仲いい奴は?って聞かれても、友達の誰一人として俺を最初には上げてくれない。その程度の関係しか築けない」
言葉の一つ一つが、彼の胸の内から絞り出されるように聞こえた。それは、彼が人との深い繋がりを渇望しながらも、それが叶わない苦しみを抱えてきたのだと、痛いほど伝わってきた。
私は息を呑み、まだ何も言わずに、彼の目をじっと見つめていた。彼の弱さと、そこから滲み出る孤独が、目の前に横たわっている。
「就活でも、全然うまくいかなかったよ。俺は本気で志望してるつもりだったし、やりたいこともできることもあった。それを伝えてきた。でも、どこも俺を欲しいとは言ってくれなかった。きっと俺の薄っぺらな人間性に、みんな気づいてたんだと思う。だから逃げるように、そのままここに就職した」
彼の言葉は、けれどもどこか投げやりではなく、諦めと、それでもどこかで理解を求めているような寂しさが滲んでいた。
そんなふうに、自分を“逃げた”って言わないでください。そう言いたくなったけれど、私はまだ黙っていた。
「……天野は俺を慕ってくれてるけど、それだってきっと、お前がバイトで入ってきた時に、俺が新卒で社員になったばかりだったからなだけだろ?」
けれどその言葉にはさすがに黙ったままではいられなくて、私は小さく息をついて、静かに答えた。声には怒りにも似た感情が込められていた。
「違います。私の気持ちを、勝手に知った気にならないでください」
私の目は真っ直ぐに和田さんを捉えていた。その視線は、彼の心の奥底まで見透かすかのように、揺るがなかった。
「私はたくさんの講師の人を見てきました。その上で、和田さんを一番に慕っているんです」
そう言い切ると、和田さんは驚いたように目を見開いた。何か言いたげな表情だったが、言葉が出てこないようだった。私は続ける。
「…あの時、私が入ってすぐの大学一年の時、初めて会った和田さんは新卒とは思えないほど落ち着いていて、生徒の心に寄り添う授業の仕方、論理的で的確な指導、そのすべてが、私には眩しかった。誰よりも、和田さんの授業は生徒の心を掴んでいた。だから、私は和田さんみたいになりたいって、ずっと追いかけてきたんです」
少し間を置いて、私はさらに言葉を重ねた。
「……これまではきっと、ただの尊敬という意味でしかなかったかもしれません。………でも。私にとって、和田さんは、ずっとずっと特別でした。誰が何と言おうと、私にとっては」
言葉に押されたのか、和田はしばらく黙り込んだ。視線を逸らしながら、ゆっくりと息を吐く。その横顔に、居酒屋の柔らかな照明が落ちて、彼の頬がほんのり赤く染まっているように見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます