第27話 語られなかった雪女

 その場所には、音がなかった。風も、雪も、足音さえも。ただ一面の白が支配していた。どこまでも静かで、どこまでも遠い。ユキは雪の原をひとり歩いていた。


 夢だとわかっていても、身体が凍えるような感覚は本物だった。そのとき、前方に小さな影を見つけた。誰かが、座っている。膝を抱え、長い黒髪を垂らし、白い着物に包まれた影。


「あなたは……?」


 近づこうとしても、影は微動だにしない。名前も顔も、どこかで見たことがあるようで、でも思い出せない。語られたことがない存在は、記憶に輪郭を残さないのだろうか。


「あなたも……。雪女、なの?」


 答えは返ってこなかった。それでもユキはしゃがみこみ、隣に座った。遠くで雪が降っているのが見えるのに、この場所には降らない。まるで時間が止まっているようだった。


「もしかして、怖いの?」


 ユキの問いに、かすかに顔が傾いた。それは頷きにも見えたし、ただ風に揺れただけにも見えた。


「もしかして、語られる事が怖かったの?」


 ふと、自分の名前が思い出せなくなった。火野翔真。そうだ。火野くん。彼のことは、忘れちゃいけない。


「ねぇ……。火野くん……」


 口にした瞬間、その名前が少し遠くなった。まるで、思い出すことを禁止されているように。誰かを思い出してはいけない雪に包まれていくような感覚だった。


 すると、朝。目覚めたユキはすぐにノートを開いた。


《火野くんの字って、やたら丸い》

《私が書いたアイス日記、ちゃんと笑ってた》

《川口くんが水分の取りすぎで低ナトリウムになりかけてた》


 何気ない記録が、今は命綱のようだった。ひとつでも抜け落ちたら、どこかに消えてしまいそうだった。


「私、ちゃんと語られてる。でも、それだけじゃ足りない。わたし自身が、わたしを語らなきゃいけないのかも」


 その時、玄関がノックされた。


「水が大事! 水が正義! 水こそ正義ッッ!」


「うるさい川口くんが来た」


 ドアを開けると、ペットボトル6本を抱えた川口くんが立っていた。顔は真剣なのに、手にはタピオカミルクティー。なんか、ギャップ萌えって感じだ。


「それ、ただの嗜好品じゃない?」


「違う! 水分補給だ。あっ、でも、ユキちゃんってさ、最近顔色悪いよね? 語り過多じゃないかな?」


「どういう体調チェックなのよ、それ」


 ユキは笑った。それだけで、少し記憶が戻った気がした。語りは、記憶を形にする。思い出すことで、存在を保てる。ならば、自分の手で自分の事をもっと語っていくとユキは悟った。そして、あの語られなかった雪女の事も。


「あなたを、忘れないように。あなたに、名前をつけてあげたい」


 そして、夜。ユキは再び雪の夢に入った。前と同じ場所。沈黙の雪原に、名もない雪女がぽつんと座っていた。時間の止まったような世界で、ユキはゆっくりと近づいた。


「来たよ。今日も、話しに」


 雪女はやはり返事をしない。けれど、その瞳の奥に、わずかな光が宿っていた。


「あなたに、名前をつけたい。それが、あなたを忘れないってことになるから」


ユキは、自分の中に浮かんだ言葉を口にした。


「『綾雪』ってのはどう? 優しくて、儚くて、でも芯がある名前」


 その瞬間、静かな雪原に風が吹いた。彼女の黒髪がふわりと揺れ、はじめて、唇が動いたように見えた。


「ありがとう」


 聞こえたのは、ほんの一言。けれどそれは、確かな語り返しだった。そして、目覚めたユキはぼんやりと天井を見つめていた。


「綾雪……。あの人も、雪女だった。私の前に語られなかった存在」


 名前を与えたことで、彼女は記憶として、語りとして、世界に繋ぎとめられた。それと引き換えに、ユキの中の冷気が……。ほんのわずかに、戻ってきていた。火野の声が背後から聞こえる。


「ユキ、起きた? なんか……。部屋、ちょっと寒くない?」


「うん。ようやく、私らしくなってきた」


 火野は驚いた顔でユキを見たあと、すぐにふわっと笑った。


「そっか。おかえり」


「ただいま」


 短い言葉のやり取りに、たくさんの意味が詰まっていた。火野はノートを開き、何かを書き始めた。


「何書いてるの?」


「今の君。語られたくない?」


 ユキは少しだけ考えて、首を横に振った。


「大丈夫。今なら……。語られても、ちゃんと私が私ってわかる」


 その言葉に、火野が安心したように頷いた。それが、これまでとこれからの違いだった。語られるだけでなく、自分でも語れるという自信が、ユキに宿っていた。その時、空間に再び冷たい風が吹き、白銀が現れる。


「語りを与えるとは、存在に形を与えるということ」


「綾雪は、名もなく消えるはずだった雪女だ。君がその名を与えたことで、彼女は再び雪の記憶となった。それは、危険でもある。他者に語りを与えすぎれば、自分の語りが揺らぐ」


 白銀の言葉に、ユキはまっすぐ目を向けた。


「でも、私は……。語らなきゃいけなかった。忘れてしまいたくなかったの。あの人も、私自身も」


「ならば進め。語り返す雪女として、君はもう語られるだけの存在ではない」


 白銀はしばし沈黙し、そしてほんのわずかに笑った。何か安心したかのように。そして、白銀がふわりと消えた。その後、ユキは火野のそばに腰を下ろした。


「次のページは、私が書いていい?」


 火野はにやりと笑って、ノートを渡した。そして、ユキの手が動く。ペン先から、自分の物語が溢れ出す。誰かが語るユキではなく、ユキが語る私がそこにあった。


「何を書くつもり?」


「雪女は辛いよって感じるエピソードを書く」


「何じゃそりゃ」


 そして、語りの風が吹き抜け、ユキの中に冷気がしっかりと戻ってくる。語られなかった雪女、綾雪の記憶とともに。そして、白銀が二度と姿を現さなくなると察しながら二人は今日も生きて行くのだった。

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