第20話 語り継ぐもの
「じゃあ……。始めようか」
火野は一冊のノートを開いた。黒いインクのペンが、小さく音を立ててページをなぞる。隣には、ブランケットにくるまったユキが座っていた。湯気の立つミルクティーが、ほんのりとした温度を部屋に与えている。
「最初に覚えてる記憶って、いつ?」
「たぶん、江戸時代。だけど、それが私なのかどうかは、わからない。私は、いろんな雪女達の最後の想いでできてるから」
火野は、その言葉を一語一句逃さぬように書き留めていく。ペンを走らせるたびに、ユキの頬に色が戻っていく気がした。
「昔、山奥に暮らしてた少女がいたの。吹雪の日、人里に下りて、凍えた男の人を助けたんだって」
「それって、白銀の時代?」
「ううん、それよりずっと前。名前は……。えっと、確か『カナ』。でも、はっきりとは……」
火野は、『カナ』という名を迷いながらも書いた。少しして見返すと、そこには『ユカ』という文字が記されていた。
「あれ? カナじゃなかったっけ?」
「え?」
ユキは首をかしげ、ノートをのぞき込む。
「そうだっけ……? 私も、どっちだったか、急に自信なくなってきた」
⸻
火野は書く手を止めた。明らかに、何かが歪んでいる。
「記憶が、書き換わってる?」
「まさか……。私のせい?」
「いや、たぶん俺の主観が混ざった。俺がユカって読み間違えたから、ノートもそれを選んだ」
ユキは、少し俯いて笑った。
「ふふ、君の語り部としての才能、怖いくらいだね」
「笑えないよ。これ、物語じゃなくて、君の人生なんだぞ」
「でも、私が生きてきたかどうかなんて、証明のしようがないでしょ?だったら、君が覚えててくれる私でいいよ」
火野は言葉に詰まった。本当にそれでいいのか。しかも、それを彼女に言わせてしまっていいのか。ユキを守ると決めた男として苦しく悩んでいた。
「でも、せめて事実は事実として……」
「ねぇ、火野くん。人はさ、自分の都合のいいように、過去を覚えてるもんなんだよ」
「だから、君の中にいる私は、きっと私なんだと思う」
ユキはやさしく笑った。その言葉が、どこまでも優しくて、どこまでも、悲しかった。
火野は、その夜もノートを開いた。ユキの話した記憶。昔の雪女達の想いを、彼なりに言葉に変えて綴る。そこにはたしかに愛があった。苦しみがあった。
けれど、どこかに違和感が残る。これは本当にユキのものかと。すると、ペン先が止まった。ノートに記されていた一文が、彼の知らない言葉に変わっていた。
『私の願いは、ただ、この雪の中で、貴方と溶けたかった』
火野は書いた覚えがない。だが、ページは彼の手によって埋められている。その瞬間、火野の脳裏に記憶でも妄想でもない強烈な光景がよみがえった。
吹雪の山奥。懐かしい木の小屋。そして、彼女がいた。今のユキではなく、もっと幼い、もっと儚い少女だった。
「これ、俺の記憶じゃない」
けれど、それは確かに知っている光景である事に間違いは無かった。
「火野くん、大丈夫……?」
ユキの声が遠くから聞こえる。彼女の輪郭が、ぼやけていた。まるで、火野自身が現在から切り離されていくかのように。
「ユキ、お前……。俺は、どこでお前と……」
「火野くん、しっかりして!」
次の瞬間、部屋の温度が一気に下がった。まるで、時間そのものが凍りついたように。すると、白銀が現れた。火野とユキの間に、霧のように立つ。
「物語が、君を呑み始めている」
「俺が、呑まれてる?」
「語る者は、記録者ではない。神にもなるし、狂人にもなる」
「君は、彼女を残すために書いたはずだ。だが今、君は彼女の中に入り込み、書き換えている」
「お前の言う通りになんか、しない」
「俺が描いてるのは、彼女の物語じゃない。俺が信じる彼女の生き様だ」
「それが、事実ではない可能性は?」
「構わない。たとえ間違っていても、誰かがそれを信じてくれるなら、それは存在したって事だ」
火野は歯を食いしばった。ノートを閉じ、強く抱きしめる。白銀の目が、氷のように冷たい光を放つ。白銀はしばらく沈黙し、そして言った。
「語り継ぐとは、そういうことか。それは凍結でも解凍でもなく、君自身が選んだ炎の継承だ」
「ユキが消えない限り、俺は書き続ける」
「その言葉、いつか君を砕くことになるかもしれないぞ」
火野は黙ってうなずいた。それでも、とノートを開き直す。そして、ユキは静かに火野の隣に腰を下ろした。
「でも、砕けるのは俺だけでいい」
「次、どこまで話したっけ」
「全部だよ。君が言葉にするなら、どこからだって始められる」
火野は笑った。そのノートには、彼女の記憶が。彼の想いが。凍える世界の中で、まだ溶けていない炎が記されていた。
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