1 余白

 教室の中は春という季節に見合わず蒸していた。

 空調の風量が偏っていて、深緒みおが座っている窓際の席はほとんど風が届かなかった。3年目にもなれば、この教室の空調の罠についてはもちろん知っていたが、半分無意識にこの席を選んでしまう。窓を通して外の景色が視界に入るこの席は、講義している先生と学生だけの空間から一歩外側に連れ出してもらえる気がして気に入っている。

 200人前後がこの講義を受講している、と初回授業で先生から聞かされた。それまでこの講義意外と人気だなと思っていたくらいだったのに、数字を意識した途端に息苦しい空間に感じてくる。とくにこの時期は、深緒のように“計画的なサボり”という手札を持っている、絶妙に不真面目な学生でさえしっかり講義に出席しているくらいなので、席はほとんど埋まっているし、隣に座っている人が小さく書いたメモまで読めてしまう。少し目を細めて焦点を合わすと、テストに出る、と書いてあり、慌てて自分のプリントにも書き加えた。

 息苦しさから逃れようと、窓の外に目を向ける。

 背の高い窓から見える空はどこか白っぽく霞んでいて、雲の輪郭もぼやけている。雲が吹かれるスピードが速く、風が強いことを主張していた。枝葉も時折、弓のようにたわんで戻ってを繰り返している。その度に淡い緑色の葉が跳ねて、春という季節を強調しているように思えた。

 絵に描いたような春という季節が目に入るが、窓に映らない壁の向こうでは、風で煙を流しながらタバコを吸っている学生たちが、講義をサボって戯れていることを、深緒は知っていた。

 背中に体重を預けると椅子がわずかに軋んで音を立てた。周りからの視線が気になってしまい、反射的に身を隠すように息を殺したが、実際は先生の説明の声にかき消されて、誰も深緒に注目などしていない。冷静を装うために、講義内容を映すスクリーンを見つめる。映された資料の字が蛍光灯の明かりに少しだけ負けて、ところどころ読み取りづらくなっていた。

 形だけでもペンを握り机に視線を落としてみると、プリントの隣に置かれたスマホが目に入り、表面を軽くタップする。起動したロック画面から、講義がまだ半分しか終わっていないことを告げられた。

 同時にLINEの通知が届いていて、アイコンから察するに友人の夏季なつきからのメッセージだった。夏季は同じ学部に通っていて、この時間は別の講義を受けている。文学部といっても、文学に関係する講義だけを取らなければいけないというルールはない。事前に分類されている講義群の中から、卒業までに取得する必要がある単位を計算しながら、好きな講義を選択することができた。

 深緒は1.2年生の間に近現代の文学についての講義を受けていたため、今回は上代と古代の文学を学べる講義を選択した。友人の夏季は就活に向けて、社会学や経済学についての講義を受けているようだが、深緒にはハードルの高いものだった。

 ロックを解除しようと画面を操作すると、花束を持っている夏季の写真が設定されているアイコンが再度出現する。続けてメッセージが来ているようだったので、慌ててLINEのアプリを開いた。

〈みおって今日の午後空いてたっけ?大学裏の新しいカフェ行かない?〉

〈先生から早めに講義終わるよって言われたから、みおの教室まで迎えにいくね〉

 ついこの間夏季が教えてくれたカフェのことだった。深緒も甘いものには目がなく、ちょうど行きやすい立地のカフェとなれば興味がそそられる。自分からは進んでカフェを探したり行ったりしないが、夏季が教えてくれるカフェには毎回ハズレがなく、内心楽しみにしていた。

〈午後空いてるよー!講義終わったらまた連絡するね〉

 最近購入した人気キャラクターの絵文字の中から、グッドサインをしているものを選び、文の最後に付け加えて送信した。

 高校までと違って、大学の教室には時計が備え付けられていないため、講義内容によって時間が過ぎるスピードはまちまちだった。今日は途中で時間を見てしまったせいで、残り40分という時間が永遠に感じられた。


 * * *


 講義が終わり荷物をまとめて教室を出たところで、深緒を探している様子の夏季の元へ向かい、おまたせ、と一声掛けて合流する。

「全然だよ〜。先生時間通りに終わってくれて良かったね」

 夏季はくすっと笑いながら深緒の隣に並んだ。季節によく合った春らしい明るい色のブラウスを着ていて、肩にかけたトートバッグには見慣れない缶バッジがいくつか増えていたが、深緒にはなんのグッズなのかわからない。

「夏季の講義はどう?」

「ん〜〜、就活のためにーって思ったけど、やっぱりわからないことばっかり。なんでみんな先生が言ってることわかるのー?!って感じ」

 わずかに自虐を含んだ言い回しから、意外と苦労している様子が窺える。成績も優秀な夏季でさえ苦戦しているということは、やはり他学部の講義で単位を取るのは難しいのか、とさらにハードルが上がったような気がした。

 キャンパスを出て、ほとんど学生の使わない細道を抜けた先にあるカフェは、新しさの残る白い外壁と、小さな木製の看板が目印になっている。まだ昼過ぎだというのに、ガラス越しに見える店内は、数組の学生客で静かに賑わっていた。

「ここのチーズケーキ、インスタでバズってたんだって」

 夏季が嬉しそうに話すのを聞きながら、深緒は一歩遅れて店内に入った。香ばしいコーヒーの匂いと冷房の涼しさに包まれて、少しだけ肩の力が抜ける。

 店員に案内された席につき、すぐに提供されたお冷に手をつける。先程までの息苦しさがすっと消えていく心地がした。

 二人でメニューをのぞき込む。せっかくなら食後にチーズケーキを食べたいと思い、比較的軽そうなトマトベースのパスタにしようと決めた。夏季はう〜んと唸りながらメニューを行ったり来たりしていたが、深緒と同じ考えだったらしく、結局キッシュプレートの単品を注文していた。

 木のテーブル席に向かい合って座ると、夏季はスマホに目を落とし、何かを検索した後に、最近よく見るインスタグラムの投稿を見せてくれた。

「そういえばこのなんとか展ってやつ、深緒が週末予定なかったら行ってみたいなーって思ったんだけど」

「なんとか展って(笑)渋谷パルコの?」

「そう〜、大学生がこぞってストーリーに載せてるやつ」

 笑いながら皮肉を含んで言う夏季の口調が、深緒には妙に心地よかった。

 予定がないことは把握していたが、形式上カレンダーアプリを開き確認すると、案の定週末の予定は空白だった。

「土曜日だったらちょうどバイトもないし行けるよー。渋谷でおすすめのカフェとかあったりする?」

「あるあるー!せっかくだし行こうよ」

 やったー、と無邪気に言いながら夏季もカレンダーアプリを開き、予定登録している様子だった。深緒も【なつき なんとか展】と入力した。土曜日の枠には、プライベートの予定を表す水色が弾んでいた。


 * * *


 帰宅してすぐに夕飯を済ませると、深緒は部屋のドアを静かに閉めて机に向かった。夜に相応しくない明るすぎる部屋の明かりは点けず、卓上のスタンドライトだけを灯す。柔らかく照らされた木製の机の上に、数日前から描こうとしてはやめを繰り返し、結果的に放置されていたスケッチブックが置かれている。

 スケッチブックに手をかけると、リビングから父と母の話し声と、バラエティー番組の音が聞こえてきた。火曜日のこの時間帯は、年末の漫才特番で優勝したお笑いコンビが司会を務めるトーク番組が放送されている。父はこのコンビが優勝した時に、あんまりおもしろくなかったけどなー、と文句を言っていたが、結局こうして毎週欠かさず番組に釘付けになっている。

 この時期はまだ、冷房をつけなくても窓を開けていれば心地よい風が入ってくるため、過ごしやすい。カーテンが不規則に揺られているかすかな音や、仕事帰りのサラリーマンがコンビニで買い物したであろう袋をカサカサ鳴らしながら歩いている音も、耳触りが良かった。机の上に集中しようとする度に、それらがじわりと耳に染み込んでくる。

 鉛筆を握った指先がほんの少し湿っていた。気温のせいではなく、体が緊張しているためであることは自覚していた。スケッチブックを押さえている左手が触れる机の木目や、首元にあたる襟の感触が、緊張をほぐそうと思う気持ちを邪魔してくる。

 描きたいものは山ほどある。頭の中には、形になりかけの光景がいくつも浮かんでは、消える。ペンを走らせても、最初の数本の線までは迷いなく描けるのに、ふとしたところで手が止まる。そこから先へ進もうとすると、急に先が見えなくなる。頭の中にはまだ形が残っているはずなのに、徐々にぼやけて見えなくなる。

 何度も形を掴もうとするうちに、紙の上は行き場をなくした線で埋め尽くされていった。


 * * *


 夏季が誘ってくれた「なんとか展」は、「Re:Frame」という名前の展示会だった。

 SNSを中心に人気を博している、イラストレーターやクリエイターによる作品を展示してあるもので、「枠を捉え直す」という、芸術そのものについて考えさせられるテーマが設定されている。

 美術館のような、静謐で緊張感をまとった空間でしか絵を鑑賞したことのない深緒にとって、開放的で余白のない「Re:Frame展」は新鮮な場所だった。どこかのギャラリーを借りているものとばかり思っていたが、実際は都心のデパートの催事場の一角で、来場者が次々に吸い込まれていく。

 夏季が事前に購入してくれていたオンラインチケットによって中に入ると、外から見た時よりも広く感じるような作りになっていた。壁にイラストが飾られているだけでなく、天井からも可愛らしいキャラクターが描かれたものが吊り下がっていたり、来場者に向けた案内看板も作品の一部になっていたり、空間そのものが一つの作品として完成されているように感じるものだった。

【撮影OK】とポップな書体で書かれた看板の横では、来場者がスマートフォンで写真を撮っていた。展示作品を写真に残すという感覚がなかった深緒は、一瞬だけ戸惑ったが、せっかくの機会なので試してみることにした。深緒の手によって持て余され、役割を果たしきれずにいるインスタグラムをふと思い出し、流行を食わず嫌いしないためにも、試しに投稿してみようと決意した。

 展示されている作品は、太い線で弾けるように描かれているユニークな抽象画から、繊細なタッチの奥深い風景画など、来場者それぞれの趣味や好みに、必ず一作品は当てはまるのではないかと思うくらい、さまざまなジャンルがある。とくに、この「〇〇展」シリーズのモチーフキャラクターである「展ちゃん」は、参加しているイラストレーターによって多種多様に描かれており、作家ごとの絵のタッチの特徴や描き方の癖などが表れていた。展ちゃんのイラストや作品は、会場の至るところに散らばっていて、次回以降の「〇〇展」への興味がじんわりと湧いてくる。

 ぐんぐんと進んでいく夏季に付いて回り、あーだこーだと感想を言い合ったり、印象に残った作品を写真に残したりしているうちに、あっという間に会場の出口、すなわちグッズショップの入り口だった。不思議と会場内では聞こえなかった接客の声が、急に耳の中で派手に響く感じがした。「Re:Frame展」の世界に夢中になっていた自分に気がつき、我に返った深緒は、喉が乾く感覚に支配されていた。

 商品棚には、ポストカード、アクリルスタンド、スマホケース、ステッカーなど、目を引くアイテムがずらりと並んでいる。展示を見た直後の熱が冷めないまま、色とりどりのグッズを手に取って眺める人たちで、レジ前のスペースは混み合っている。

「これ見てー!ちょっとレトロな展ちゃん」

 元よりグッズ収集癖のある夏季は、目を輝かせながら、二頭身とも言えないサイズ感の、ふわふわなぬいぐるみを見せてきた。

 彼女の手の中で身動きを封じられているそれは、どことなくレトロな色合いやデザインの服を着た展ちゃんのぬいぐるみキーホルダーで、なんとも言えない表情をしている。

 可愛い、と言葉をこぼした深緒は、夏季が持っているものと同じものを手に取る。

「せっかくだしお揃いで買っちゃう?」

 悪巧みしているような表情をしている夏季に、くすっと笑いながら、買っちゃお、と返した。

 それとは別に、深緒はパンフレットのような冊子を見つけた。参加している作家たちのプロフィールや、今回展示されている作品の一覧、それぞれのSNSアカウントなどが掲載されているようだった。

 さりげなく手に取って中をぱらぱらとめくっていると、ふと目を引かれるページで手が止まる。

 深く、限りなく澄んだ青。その広がりの中に、ゆるやかな曲線で描かれた建物の輪郭や、小さな人物の影。風景画でも、人物画でも、抽象画でも、ポップなキャラクターのイラストでも、なかった。どれにも分類できない、できそうもなかった。自然と視線を引き寄せられ、冊子を閉じる手の行き場がなくなってしまう。

 どうして、こんな風に描けるの?

 どうして、この色で塗ろうと思ったの?

 どうやって、最後まで絵を描き続けて、色を乗せて___

 深緒の頭の中には、小さい子が見るもの触るもの全てに、なんでなんでと疑問を投げかけるように再現なく現れる焦燥が、消化されずに浮いていた。

「それも買う?」

 隣から声がして、はっと我に返る。夏季は、綺麗な青だねと言いながら冊子を覗き込んでいた。深緒が絵を見ながら、焦燥感に取り込まれそうになっていたことには、全く気がついていない様子だった。

「あ、えっとー、うん。パンフレットとか好きだし、買ってみようかな」

 深緒は、反射的に適当な言い訳を枕詞として、手に持っていた冊子をぬいぐるみと一緒にかごの中へ入れた。

 レジで支払いを済ませ、展ちゃんのイラストが施された袋をぶら下げて会場を出ると、昼間とは打って変わって冷えた空気が頬を掠めた。日中は汗ばむこともある季節だが、完全に日が落ちたあとは、日中と10度ほど気温差がある。長袖一枚で出かけると寒い日もあれば、上着を着ると暑い日もあって、体温調節が難しいことがこの季節の欠点だと思う。上着を着ても震える冬や、息苦しい暑さがつきまとう夏のように、極端な季節よりもはるかに風邪をひきやすい。春という季節には、タチの悪い罠が仕掛けられている気がしている。

 意識的に呼吸をすることで、外の空気と体の中の空気が馴染んでくるような感覚になる。ふと顔を上げると、ビルの合間から、暮れかけの空が覗いていた。絵に描いたような夕暮れではなく、夕日の色を背景に、ピンク色と紫色の作り物のようなグラデーションが主張していた。

「思ったより長く居たね〜。10分くらいな気がしてたけど」

「ねー。時間感覚変になりそう」

 そう言いながら深緒がスマホで時間を確認すると、もう夕方の5時を回っていた。午前中からの疲れも、少しずつ肩と腰にのしかかってくる時間だ。

「明日って渋谷の設営バイトだったっけ?」

「そう。まだ詳しい持ち場とか連絡来てないけど、朝から搬入手伝う感じだと思う」

「へぇ〜、今日みたいな展示?」

「えっとね、もっと真面目な感じ。有名なフォトグラファーのギャラリーらしいんだけど、他の人の写真もいくつか展示されるみたい」

「ふふ、じゃあ展ちゃんはいないか」

「いないいない」

 二人で笑い合いながら、駅地下へのエスカレーターに乗り込んだ。

 深緒は、基本的に単発バイトで生計を立てていた。

 登録している単発バイト専用のアプリで、自分のスケジュールに合うバイトを探し、通過すると企業と直接連絡が取れるようになる仕組みだ。だいたい一週間前にはバイトが決まり、必要書類や持ち物等の連絡が来る。

 深緒は淡々とスマホに予定を登録し、指定された集合場所と時間を再度確認する。これまでイベントスタッフなどの表向きの業務が中心だったため、設営のような裏方仕事をひっそりと楽しみにしていた。

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