第八話 静寂と名

 火は、まだ燃えていた。

 黒ずんだ枝と藁が、赤く小さく、ぱちりと音を立てて崩れ落ちる。

 朝はすでに始まっていたが、森の奥には霧が残り、肌寒さを伴っていた。


 アリウスは焚き火の向こうに座っている。

 その背には少女が黙って寄り添っていた。

 まだ名前を持たない少女。

 言葉も、持たない。


「……気になるのか、あの異形が」


 火の音に紛れるように、レフィカルの声が頭の内側に落ちてきた。


 アリウスは、しばらく黙っていた。

 焔をじっと見つめたまま、まばたきもしない。


「……あれはなんだった?」


 問いを投げる。

 自分に、そしてレフィカルに。


 返ってきたのは、乾いた分析だった。


「気まぐれで出来た産物だ。

 神が退屈しのぎに弄った遺伝子が、数百万に一つの確率で歪み、変異する。

 そうして生まれる――“例外”。」


天傀てんかい、アンブラッド、ミュータント、イデアリス……呼び名は土地ごとに違う。

 どれも正しくて、どれも間違ってる」


 アリウスは、うっすらと眉を寄せた。


「じゃあ、あれも……」


「同じだ。偶然の産物。

 “意図された俺”とは、まるで違う」


 レフィカルの語気は静かだったが、わずかに冷たかった。


「……ここでは、それすら名づけられていないようだがな。

 名を与えられぬまま生まれ、名もなく死ぬ。

 哀れというより――滑稽だ」


 その言葉に、少女がふと顔を上げた。

 炎の揺らめきが、彼女の白い頬をほんのり赤く照らしていた。


 アリウスは彼女を見つめたまま、小さく息を吐く。


「おまえは……違う」


 火が完全に燃え尽きるのを待つことなく、アリウスは立ち上がった。

 傍らの少女も、それに倣うように立ち上がる。

 だが、彼女は何も言わず、何も求めない。ただ、隣にいる。


 アリウスは、何かを確かめるように問いかけた。


「……名前、あるのか?」


 少女は少しだけ目を見開いたが、すぐに視線を落とし、

 小さく、首を横に振った。


 その仕草は、はっきりと“わかっていない”というよりは、

 “まだ答えを持たない”という意思に近かった。


 アリウスはしばらく口を閉じ、焚き火の灰を見つめていた。


「……なら、わかるまで呼ばないさ」


 少女は、うなずくでもなく、否定するでもなく――ただ、そこにいた。


 彼女の歩調は遅くはない。

 むしろ、足元はしっかりしていて、道なき森の中を踏み外さずについてくる。


 やがて木々が開け、焼けた空き地のような場所に出る。


 そこは、かつて人が住んでいた痕跡だった。


 焦げた柱、崩れかけた土壁、かすれた布の名残。

 かろうじて読める言葉が、いくつかの家屋の柱に彫られている。


「アメフリ」「ナル」「ミコト」

 ――どれも、名だ。

 だが、そこには誰もいない。名だけが、風に晒されていた。


 少女が立ち止まり、ひとつの柱に触れる。

 指先でなぞった彫り跡は、小さな子供の筆跡のように不格好だった。


 アリウスは、その名を目で追いながら、呟く。


「名前だけ……残していったのか」


 レフィカルが、ぽつりと囁く。


「名は残すためのものではない。渡すためのものだ」


 少女が触れた柱の名を見てアリウスが


「……ネヴィア、か」


 少女がそっと顔を向ける。

 アリウスは静かに言う。


「おまえに似合いそうだ。――今日から、それでいいか?」


 少女は何も言わない。けれど、

 風が吹いたとき、彼女の目だけがすこし潤んだように揺れていた。


 少女がゆっくりと振り返り、アリウスの袖を指先でつまんだ。


 それは、小さな合図だった。


 アリウスはわずかにうなずき、歩き出す。

 ネヴィアはそのすぐ後ろに、静かに続いた。


 場面が変わる。

 王都サルクナム――織殿しょくでんの奥深く。

 黒曜の糸が天井から垂れ下がり、静かに揺れている。

 糸は誰もいない空間の中で、宙を舞いながら形を変えていた。


 それはまるで、糸そのものが“命令”の代わりだった。


 黒髪の青年――カダムが目を伏せていた。

 彼の前には、膝をついて伏せる者たちが五体。


 どれも人の姿をしているが、歪んでいた。

 肌の下で何かが蠢いており、眼差しは空虚だった。


 カダムは手を掲げ、糸を一本だけ指に巻き取る。


「記録、切り替え。追跡対象交戦済み。優先度上昇」


 黒銀の糸が天井へと走り、光を帯びる。


 伏していた異形たちが、一斉に顔を上げた。

 そして、言葉もなく立ち上がり、静かに織殿を後にする。


 それぞれが、異なる歪みを抱えた存在だった。


 一体は、骨格が異常に細長く、四肢が反対方向にも曲がる。

 一体は、体温を奪うかのような霧を纏っていた。

 一体は、背中から蠢く腫瘍のようなものが呼吸のたびに膨らんでいた。


 それらが、命令によってただひとつの方向へと歩き出す。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る