第三話 名を与えし夜

 肉を裂く音が響いた。

 骨が砕け、血が噴き、顔面が咀嚼される。

 噛み砕かれた頬骨が砕け、白濁した眼球が破裂し、脳髄が滴る。

 異形の牙は骨も臓も見境なく粉砕し、その奥底ではなお、呻きのような声が肉と共に咀嚼されていた。

 異形と化したアリウスは、まさしく獣のように、兵士の顔を喰らっていた。


 まだ温かい血が、黒銀の鎧殻の隙間からしたたり落ちる。

 筋繊維のような肉の編み目が、滴る血を飲み込み、ゆっくりと蠢いていた。


 ――兵たちは逃げ惑う。


 叫び声と蹄の音。鎧の擦れる音、剣の抜ける音。


 誰も彼もが、目の前の“それ”を人間とは思えず、

 背を向け、走り、転び、命の残り火を踏み散らしながら逃げていく。


 兵の一人は泥に足を取られ、転倒したまま這いつくばって逃げようとする。だが、後ろを振り返る勇気もない。ただ、絶望だけが背中を押していた。


 空に火矢が放たれた。


 数本がアリウスの背へ飛来するが、その多くは鎧殻に弾かれて地に落ちた。

 しかし、数本は黒銀の鎧の隙間に突き立ち、筋肉の中へ深くめり込む。


 ――次の瞬間。


 矢が刺さった部分の筋繊維が、糸状にほぐれ始めた。


 ほぐれた糸は矢を絡めとるように包み込み、やがて体内へと吸収する。

 繊維は、まるで空腹の胃袋のように矢を抱え込み、先端から軸へとゆっくりと飲み込んでいく。

 その様は、生きたまま呑まれる小動物を連想させ、見ていた兵士たちは反射的に後ずさった。

 血肉と混ざり合い、まるで“素材”のように馴染んでいく。


 咀嚼を終えたアリウスは、片方の手を前に差し出す。


 その右手が、静かに糸となってほどけ、鋭利な矢の形状に再構成されていく。

 銀の筋が伸びて一本の長い矢となり、まっすぐに前方へ放たれる。


 矢は数人の兵士の胴体を貫き、そのままアリウスの元へと引き寄せた。


「――ひッ、ぎぃ……!」


 引き寄せられた兵士たちは、地面を引きずられながら足をばたつかせる。

 次の瞬間には、口を開いたアリウスの口中へ吸い込まれるように――喰われた。


 喰われた兵の悲鳴は、喉元で潰れた。

 体を締め付ける繊維の感触に、彼は自分が食料に“再定義”されたのだと悟った。


「今だ! 食ってるときは隙がある!」


 残った兵の何人かが叫び、青銅製の槍を構えて突撃した。

 震える足を無理やり前に出し、恐怖を怒号で誤魔化しながら駆け出す。

 だがその叫びは勇気などではなかった。――それは、恐怖に背を向けられなかった愚か者の声だった。


 槍がアリウスの背に突き刺さる――その瞬間、再び繊維がほどけ、槍ごと吸収されていく。


 ……そして。


 アリウスの背中から、無数の触手のような槍と矢の形をした突起が生え出した。


 それらは蠢き、震え、

 次の瞬間、全方位へと一斉に飛び出し――周囲の兵士を串刺しにした。


「ぎゃあああッ!!」

「助け――」


 言葉は音にならず、血のしぶきと悲鳴だけが夜に響いた。


 遠くから見ていた兵たちが、次々と逃げ出す。


「ま、待て! 逃げるなッ! 隊列を――!」


 兵の長が叫ぶが、その声に耳を貸す者は誰もいない。

 恐怖に喉を潰され、皆ただただ“逃げたい”という本能に突き動かされていた。


 アリウスは喰らう動きを止めたまま、首を傾け、最も遠くの兵へと視線を移す。


 瞬間、大地を抉る勢いで跳躍。


 その兵の頭上に着地したと同時に――

 体重と衝撃によって、兵士の身体は踏み潰され、四肢が四散した。

 骨が爆ぜ、内臓が破裂し、血飛沫が花弁のように散った。

 周囲の兵たちは、ただそれを見て、足が動かなくなるほどの恐怖に固まった。


 近くにいた兵のひとりが、悲鳴を上げながら振り返るが遅い。


 異形のアリウスが腕を伸ばし、その兵を捕らえる。

 兵士は鎌剣を抜いて必死に刺し返すが、その剣も吸収されていく。


 喉元から頭へと噛みつかれ、悲鳴も出ぬまま、兵士は喰い捨てられる。


 次の兵は腕ごと叩き潰され、

 次の兵は胴体を真っ二つに裂かれ、

 また次の兵は、咀嚼の音と共に、胴ごと噛み砕かれた。


 黒銀の繊維は次第に形を変え、異形の身体の背面から蛇のようにのたうち、怯えきった兵士を一人、また一人と捕食していく。

 叫び声と咀嚼音だけが、静まり返った夜に不気味に反響した。


 逃げられる者は、もういなかった。

 アリウスの足元には、使い捨てられた弓が転がっている。


 それを拾い上げたアリウスの両腕が、静かに弓の形へと変化していく。


 体内から絞り出されるようにして糸状の矢を数本形成し、それを弓に添えた。


 放たれた矢は、一見関係のない方向へと飛んでいく――

 だがその矢たちは空中で弧を描き、逃げる兵たちを生き物のように追いかける。


 矢が突き刺さると、兵の身体が弓なりにのけぞる。


 その瞬間――


 突き刺さった箇所から、無数の針のような繊維が内側から伸び、

 兵士の体内を串刺しにした。


 逃げ場は、なかった。


 いつしか戦場は、肉片と血の海と化していた。火矢の残り火が焦げた肉を照らし、煙と血の匂いが空を満たす。

 その中央に、ただ一人、逃げ遅れた兵の長が立ち尽くしていた。


 手にしていた剣を落とし、腰を抜かし、地面に尻餅をつく。


「ひ、ひぃ……! ま、待ってくれ、頼む、た、たすけ――」


 剣に手を伸ばそうとするが、震えて力が入らない。

 膀胱が弛み、足元に尿が広がる。


 アリウスがゆっくりと歩み寄り、長の身体を片手で持ち上げる。


「や、やめろ……命だけは、命だけは……!」


 情けない悲鳴を上げる兵の長に、アリウスは何も言わず――その腕をもぎ取った。


 断末魔のような叫びが夜空にこだまし、

 アリウスの長い舌が、そのもがれた腕に絡まり、口へと運ばれる。


「ひ、ひい……ッ! あああああああああああああっ!!」


 男とは思えないほどの絶叫と嗚咽。


 そして、兵の長は震えながらも、恐怖に顔を引きつらせたまま問うた。


「お……お前は……なんだ……何者なんだ……?」


 長は血まみれの顔を歪め、目に涙と失禁の痕を残しながら、絞り出すように問うた。

 声は震え、もはやそれが“問い”ですらなかった。


 それを聞いたアリウスの口が、静かに、しかしどこか異質に動く。


「……死にゆくお前に答えて何になる」

「だが、死後の世界は存在する。どこにあるのか、いつ訪れるのか――それすら知らないが」

「こんな言葉を知っている。冥土の土産に教えてやろう。」

「――レフィカルだ。」


 声色は低く、まるで死神が口を開いたようだった。

 その名が、意味するものを誰も知らずとも――それを耳にした兵の長の顔から、生気が消えていった。


 そう名乗った瞬間、アリウスは兵の長の頭へ噛みつき、喰らい始めた。


 夜の静寂の中、肉を噛み砕く音だけが響いていた。

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