イーストランドの終焉

藍﨑藍

第1章

8月12日:東島

#1

 ――やはり、つけられている。


 イーリンは確信して体を固くした。蒸し暑い夜にもかかわらず、絡みつくような視線に寒気が走る。

 空は轟き始め、土の匂いが濃く立ち上る。水汲み場から家まではそれほど離れていないが、今はひどく遠く感じられた。掴んだバケツを強く握る。足音は少しずつ近づいてくる。どうやら穏やかな話ではなさそうだ。イーリンが背後に意識を向けたまま建物の角を曲がった瞬間、地面に雨粒が落ち始めた。

 バケツを放って走り出す。足下、そして背後。水が跳ねる音が二つ。イーリンは今にも崩れそうなアパートに飛びこんだ。地の利はこちらにある。

 東島イーストランドは島全体が雑草のように無秩序だ。複数の建物が中で繋がっており、出入口がわかりづらい。響く足音が遠ざかったことを感じながら、反対側の出口へ回りこむ。暗い雨の中へ飛び出すと視界が広く開けた。海の向こうの摩天楼は夜の闇に吞みこまれることなく輝いている。


 ――逃げ切れる。


 そう思ったのが間違いだった。

 本土から近づいてくる轟音に顔を上げたのは無意識だった。飛行機に気を取られたその瞬間、世界が反転した。雨が降ると水が川のようにあふれてくる。ほんの少しの気の緩みが命取りになる。

 扉から男が飛び出してくるのを見て、イーリンは舌打ちした。手すりを持って立ち上がろうとした瞬間、目の前に何かが突き出される。視界は悪いが、本能的に理解した。男が拳銃の引き金を引けば、イーリンは一瞬で死ぬ。


「ヤン・チュンファはどこにいる」


 イーリンは男を睨みつけ、両手を挙げたまま立ち上がった。風は吹き、くるぶしまで水に浸かっている。雨は叩きつけるように降り、風に吹かれた髪に隠れて男の表情はうかがえなかった。

 イーリンは肩口で顔を拭う。口元に笑みを作って首を緩慢に振る。男は銃口を向けたまま近づいてくる。


「おまえの姉だろう」

「えらくご執心じゃないか。お生憎様、人違いだよ。同じ名前なんて、掃いて捨てるくらいいるだろうからね」


 イーリンが左手で髪をかき上げると、固い感触があった。生前のチュンファがくれたピアスだった。生まれも素性も不明の人間が集まるこの人工島では、人が消えたり死んだりすることは珍しくない。よくあること。当たり前。


 ――そんなわけがあるか。あってたまるか。


 強く拳を握ると、爪が手のひらに食いこんだ。打ちつける雨の感触も、耳をふさぎたくなる騒音も、何もかも、現実だ。そして、チュンファが死んだことも。

 だが、この男は何の目的で接触してきたのだろうか。イーリンの逡巡を男は見逃さなかった。


「顔色が変わったな。ヤン・チュンファの行方を知っているなら、今すぐ吐け」


 イーリンはすぐには答えず、男の顔を注意深く観察する。初めて見る顔だった。イーリンの働く商店は島一番の品揃えで、来たことがない住民などいないだろう。


「あんた東島ここの人間じゃないね。本土の人間かい」


 イーリンが余裕ぶって尋ねると、男は切れ長の目をすっと細めた。


「へえ、俺がここの人間じゃないとなぜわかった?」


 東島イーストランドには、食品から金属加工にいたるまで違法な工場が立ち並ぶ。男の格好は工場で下働きをする若い男そのものだ。だが、男の端々から人を屈服させられるという驕りがにじみ出ていた。力でねじ伏せれば人は動くと信じて疑っていないのだろう。

 イーリンは唇を舐めてから答える。


「同じ島の住民くらいわかるさ」

「数千人はいるだろう」

「一度見た顔くらい覚えられないでどうする」


 鼻で笑って答えると、男は眉を寄せた。


「残念ながら、大人しく吐くことはしてくれなさそうだ」


 男はさらに近づいてくる。一歩後ずさると、背中に柵があたる。錆が浮いてざらついた鉄柵を掴むと、骨が折れるような音が小さく鳴った。

 男の指が引き金にかかる。

 万事休す。イーリンは歯を噛みしめた。

 男の指が引き絞られる。だがイーリンは目を逸らさなかった。

 男の口角がわずかに上がる。次の瞬間。


 右腕に強い衝撃が走ったのと、耳を裂く銃声が響いたのは同時だった。地面に叩きつけられたイーリンは、顔をしかめて体を起こす。男を突き飛ばしたのは本能に近かった。こちらを狙う影に気づかなければ、今頃男の頭は吹き飛んでいたはずだ。

 音の鳴った方を見ると、先ほど飛びこんだ建物の屋上で動く影がある。雨のせいで顔はよく見えない。顔を隠し、フードをかぶっている。そしてこちらに向けられているのは――。

 また銃声が鳴り、イーリンの足元で銃弾が跳ねる。とっさのことに動けないでいると、強く左腕を引っ張られた。男は駆け出す。


「死にたいのか!」


 イーリンはそれを振り払って怒鳴り返す。


「さっきまであたしを殺そうとしていたのはどっちだい!」


 男はやはり土地勘に欠けるらしい。イーリンが前に出るのを強いて止めようとはしなかった。隣の建物の階段を駆け上がり、別の建物へ繋がる細い廊下を駆け抜けた。狙撃手から体を隠すように、踊り場の小窓の脇で立ち止まる。


「撒いたか?」


 男は狙撃手がいた建物に鋭い視線を向けている。肩が触れそうなほどの距離で改めて顔を見ると、存外若い。イーリンより少し上、どれほど多く見積もっても三十には達していないだろう。


「どうだかね。それよりあんた、相当な人気者らしいじゃないか」


 息を切らせながらイーリンが笑ったその瞬間、ガラスが割れた。雨風ととともにガラス片が飛びこんでくる。突き飛ばされたイーリンは汚れた階段を転げ落ちた。強く腹を打ち、息が詰まる。見ると黒フードが男を組み伏せ、首を絞めている。男はその手を外そうともがいているが、びくともしない。イーリンは大きく息を吸いこんだ。


「待ちな!」


 顔をしかめながら立ち上がる。声は掠れ、震えそうになる。濡れた体はいつもより重い。足を踏みしめるたびに、水没した靴が汚水を吐き出す。イーリンは靴の裏にガラス片を感じながら立ちふさがった。


「そいつはあたしの客だ」


 イーリンの言葉に、黒フードは男の首から手を放す。むせ返る男をよそに、黒フードは膝をついてゆらりと立ち上がった。顔全体を黒い布で覆っており、唯一露わになっている目からは何の表情も読み取れなかった。ガラスを蹴破り、ズボンはひどく裂けているにもかかわらず、足から血は流れてはいない。

 建物を飛び移って窓を蹴破るほどの異常な跳躍力。尋常でない腕力。


 ――やはり、思った通りだ。義体化してやがる。


 イーリンは相手を挑発するように、口角を片方だけ持ち上げてみせる。


「用があるならあたしを通してからにしな」


 言うが早いが、イーリンは一気に距離を詰めた。懐に飛びこんで右拳を突き出すと、黒フードが吹き飛んだ。手応えがあっただけあり、相当ダメージを与えたらしい。相手が腹を押さえて苦しむ様子を無感動に見下ろした。


「あんた、何が目的だい」


 空気が変わったと感じた瞬間、イーリンの眼前に足が迫っていた。とっさに顔の前で腕を交差させる。鋼鉄のように重い蹴りを受け、イーリンの腕がみしりと音を立てた。長くは持たない。歯を噛みしめ、後ろに飛んで受け身を取る。イーリンが顔を向けた瞬間、相手は割れた窓から身を躍らせた。ひそかに安堵しつつ、黒フードの消えた窓を見る。


「深追いするのは危険だろう」


 男は窓の外へ目をやった。割れたガラスを避けながらイーリンに近づいてくる。


「立てるか」


 イーリンは差し出された手を払いのける。


「丈夫さだけが取り柄なんでね」


 右手をついて立ち上がろうとすると、枝が折れるような音とともに肘から先の力が抜ける。舌打ちし、使い物にならなくなった右腕を左手で支えて立ち上がる。一刻も早く濡れた衣服を脱ぎ捨て、乾いた服に着替えたかった。


「ひどいもんだね。大家さんにぶちのめされないといいけど」


 窓ガラスは割れ、乱闘で壁にひびが入っている。体の一部を機械化――すなわち義体化した人間は、生身の人間よりはるかに力で上回る。義体者同士の喧嘩は周囲への被害も大きくなりやすい。

 イーリンが冗談めかして言うと、男はすかさず「それで」と口を開いた。


「おまえはどこまでいじってるんだ」


 男に問われ、イーリンはだらりと垂れ下がった右腕に目をやった。撃たれたときか、完全に折れたときかはわからないが、肘の皮膚は大きくえぐれている。血は流れていない。痛みすら感じない。損傷した人工皮膚からのぞくのは、冷たく固い金属だ。


「腕だけさ。嘘だと思うなら、その拳銃をぶっ放して試せばいい」

「なかなか血の気の多いお嬢さんだ」


 皮肉めいた笑みを浮かべる男に対し、イーリンは盛大に舌打ちする。えぐれた部位を覆っている左手も皮をはげば右腕と変わらない。

 身体強化に繋がる義体化――侵襲型の人体改造や、脳の機能の一部や意識を機械化する電脳化を無許可で行うことは表向き禁じられている。無法地帯と化した東島では義体化を隠さない者も多いが、人工皮膚を用いた加工を施せば外見から判別することは困難だ。

 本土の人間に犯罪の事実を知られた以上、口封じをした方が良いだろうか。だが今の動かない右腕は全く役に立たない。無事な左手だけで首を絞めることはできるだろうか。試したことはないのでわからなかった。

 イーリンが苦しまぎれに睨みつけると、男はにやりと笑みを浮かべた。


「先に言っておくが、おまえを突き出す気はない。仮にも命の恩人だ」

「代わりに何をしろと?」


 先の見えない話に自然と眉が寄る。


「察しが良くて助かるな」


 男はズボンのポケットに手を入れた。男の人差し指と中指で挟まれた白い紙を抜き取り、イーリンは目を凝らしてそれを読む。


「地域経済振興庁、特別監査官……?」


 つまり、このルー・ミンという男は政府の役人らしい。そんな場違いな人間が、なぜ東島にわざわざ足を運んでいるのか。チュンファとの繋がりも見えなかった。

 怪訝に思って顔を上げると、ミンは肩をすくめた。


「沿岸特区の開発を進めるために、手足となって動く奴隷と思ってもらえれば」


 沿岸特区――沿岸開発特別行政区は、海で隔てられた本土の沿岸地域を指している。割れた窓の外へ目をやると、海に浮かぶように高層ビルが煌々と輝いている。

 イーリンは腕を組み、嘲るように笑う。


「お役人さんは早く安全な場所へ帰った方がいいと思うけどね」

「本土で義体者サイボーグ連中が暴れている」

「なんだって」


 短く告げたミンはゆっくりと階段を下りていく。イーリンは受け取った名刺を持て余しながら後を追う。

 無許可の義体化が横行する東島とは違い、本土では徹底的に管理されていると聞いたことがある。義体化するためには申請が必要で、東島から本土へ渡る際の身体検査で不法義体者は即刻拘束されるのだという。


「呑気な市民様たちが気づく前に、その巣窟を叩く必要がある。俺はそのための情報収集役」

「それ、あんたの仕事なのかい」

「……経済の活性化のためには治安が求められるんだよ」


 ミンが答えるまで一瞬間があった。イーリンは早足で追いつくと、ミンの横に並んだ。


「チュンファがそれに関わっていると?」

「そう見ている」

「馬鹿らしい」


 イーリンは吐き捨てた。ミンは立ち止まると、イーリンの逃げ場をふさぐように壁に手をついた。


「それで、ヤン・チュンファはどこにいる」


 目に入った前腕はよく筋肉がついている。腕だけでない。雨に濡れた体は無駄なく引き締まり、鍛錬を積んでいることが見て取れる。だが、どれだけ鍛えたところで生身の人間であることに変わりはない。義体化した人間に首を絞められていれば、物言わぬ死体になっていただろう。


「死んだよ。一週間前に殺された。知らなかったかい」


 ため息をついたイーリンが肩で軽く押しのけると、ミンはあっさりと道を譲った。少し後ろをついてくる足音は雨に濡れている。屋根のない外へ出ると、全身に雨が打ちつける。顔を伝う雫は冷たく、急速に体を冷やしていく。


「とんだ無駄足だったみたいだね」


「じゃあ」とイーリンが家に戻ろうとすると、「ヤン・イーリン」と呼びかけられた。


「手を組まないか」


 思いがけない言葉に振り返る。髪を額に貼りつけたミンの顔に冗談の色はない。


「なんだい、藪から棒に」

「俺は情報が欲しい。おまえは、姉が何に巻きこまれたのか、知りたくはないか」


 ミンは真剣な顔で左手を差し出した。イーリンは唾を呑みこんだ。


 こいつと関わるべきではない。一刻も早くここから立ち去るべきだ。頭ではそう理解していたが、轟々と流れる水の中から足を動かすことはできなかった。

 ミンの手を取れば暗部に足を踏み入れることは確実だ。だが、それ以上に知りたかった。

 チュンファは殺された。イーリンの、たった一人の大切な家族だ。いったい誰が。なぜチュンファは死ななければならなかったのか。


 知りたいことはもう一つある。チュンファがついぞ語ることのなかった、イーリンの過去だ。

 自分はなぜ義体化しているのか。本当は、自分は何者なのか。

 生前のチュンファに直接尋ねたこともあったが、彼女はほほ笑むだけで答えようとはしなかった。それはつまり、チュンファは語るべきものを持っていたということだ。


 イーリンは降りしきる雨の中、死んだ右腕から左手を離す。


「あんたのことは信用しない。でも」


 右腕は支えを失い、力なく垂れ下がった。イーリンはそれを無視してミンの左手を握り返す。


「利害の一致ってやつになら、賭けてみる気になるね」


 人工皮膚と金属部品ごしに、ミンのたしかな体温が感じられた。

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