第29話 鏡像異性体
「……瞳呑石が、反応してない」
カイルは足を止めた。
「え?」
「見た目は問題なかった。薬液の色も、濃度も、記録通り──なのに」
ネマは、声を抑えるようにして言った。
「全然、魔力を感じない。外見だけ取り繕って、中身が空っぽみたい」
カイルは、過去にも同じ調合を見たことがある。だが今回、ネマの手順に不自然な点は一つもなかった。違いがあるとすれば──ただ一つ。
「鏡のせいかな」
カイルが言うと、ネマは目で続きを促した。
「ネマの手順は、前と同じだった。違いがあるとしたら、それくらいしか……」
カイルが言うと、ネマは少し思案して言った。
「ありえるかも。……でも、仕組みがわからない」
唸っているネマを見て、カイルはどうにもしてやれないことが、もどかしかった。
「……エリオに、聞いてみようか」
カイルがぽつりと呟くと、ネマは少し眉をひそめた。
「エリオさんに?」
カイルは、少し照れくさそうに言った。
「この前、ネマが寝てたとき、色々話したんだ。……頼りに、していい気がする」
⸻
エリオは、小瓶を手に取ると、しばらく黙ってそれを光にかざし、指先で軽く回した。
「……ふむ。これは、おそらく……
「きょうぞう……?」
カイルは首を傾げた。
エリオは頷き、言った。
「たとえば、右手の手袋を左手にはめようとしたら、どうなる?」
カイルは少し考えて答える。
「うまく……入らないな」
エリオは続けた。
「そう。見た目は同じでも、内側の構造が左右反転してるから、噛み合わない」
「錬金素材にも、それと似た性質を示すものがある。見た目は同じでも、構造が反転しているせいで、性質が全く異なる。そういうものを、鏡像異性体と呼ぶ」
「……でも、鏡越しに調合しただけで、素材そのものが変わりますか」
ネマが疑問を呈すると、エリオは小さく頷いた。
「ああ。そこが鍵だ」
エリオは小瓶を戻すと、腕を組んだ。
「話は変わるが、君たちは、背後から視線を感じて、振り返ったことはないかね?」
カイルは、困惑しながら答える。
「あるけど……」
エリオは説明を続けた。
「人の視線には、わずかにだが魔力が宿る。背後からの視線に気づけるのは、それを感知しているんだ」
カイルとネマは、無言で頷いた。
「ここからは推測だが──瞳呑石は、そうした視線に宿る魔力を受け取り、微妙に変化する性質を持っているのかもしれない」
エリオは片手を顎に当てて思案するように言った。
「おそらく、鏡で反射させたことで、魔力の波が『反転』したんだ。だから、瞳呑石は反応しなくなった」
「……つまり、反応させるには、直接見るしかないってことか」
カイルが呟くと、重たい沈黙が落ちた。
ネマはそっと唇を噛んで言った。
「……でも、それじゃ……防げない」
鏡という対策を封じられた事実が、ふたりに重くのしかかる。
しばしの沈黙の後、カイルが言った。
「エリオの話なら、誰かが見ていればいいんだろ?」
エリオは何も言わず、視線で肯定した。
「なら……俺が見るよ。ネマに全部背負わせて、見守るだけなんて、もううんざりだ」
カイルはため息をついたかと思えば、努めて明るい声で言った。
「これまで、かわれるならかわってやりたいって、何度思ったか。でも、錬金の本も操作も難しくて、何もできなかった。せめて、これくらいは──」
カイルが振り向くと、ネマは──少し、不機嫌そうな顔をしていた。
思わぬ表情に、カイルは意表を突かれた。
「……勝手に、決めないで」
絞り出すように紡がれた一言は、カイルに釘を指すように、重く胸に刺さった。
「お兄ちゃんは、見てるだけじゃない。毎日ご飯を作ってくれて、必要なものは全部準備してくれて、身体を気遣ってくれて。何度も傷ついて……助けようとしてくれたこと、ちゃんと、知ってる」
静かなトーンに、少しずつ熱が宿っていく。
「でも、この依頼を受けるって決めたのは、私。お父さんとお母さんの研究をやりたいのも、私。お兄ちゃんを巻き込んで、我儘を通してるのは、私」
ネマはカイルをまっすぐに見据え、続けた。
「──だから、私がやる」
カイルは、ネマの思わぬ反発に、返す言葉を見つけられないでいた。
そのとき、二人のやりとりをつまらさそうに眺めていたエリオが、ぽつりと言った。
「なら、交代で見ればいいんじゃないかね?」
エリオは肩をすくめながら言った。
「二人で半分ずつ見れば、負担も半分。違うか?」
一瞬、空気が揺れた。
「……それだ」
カイルは、ふと目を伏せて考える。前にやった時は、だいたい三週間で咳が出て、四週目に金の輪が出た。二週間ずつ分担すれば、発症までは行かない。
「今度は本当に、行けるかもしれない」
口にして初めて、その言葉に手応えが宿ったように感じた。
これまでにない確信が、胸の奥に、ゆっくりと広がっていく。
張り詰めていた空気が、わずかに緩んだ気がした。
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