第13話 子守唄の暗号

二人が依頼を受けた翌日には、大量の荷物を積んだ荷馬車が工房を訪れた。


明らかに、返事をしてから運ばれた早さではない。二人が答える前から、受けることは決まっていたのだ。


荷馬車の中には、あのとき持ち去られた資料や書籍、実験器具が、壊れないように一つ一つ丁重に包まれて置かれている。一緒についてきたギルドの職員に手伝ってもらいながら、一つ一つを工房の中に運び込み、なるべく元の場所に戻した。


荷解きが終わったあと、ネマは一冊の分厚い記録帳を手に取った。
背表紙には、煤のような跡が残っていて、かすかに香ばしい匂いが漂っていた。


「……これ、たぶん、最後に使ってたやつ」


そう呟いて、ネマは調合台の脇に腰を下ろし、そっとページをめくる。

インクの染み、走り書きの数式、乱雑なメモ――どの一節にも、両親の時間が封じ込められているようだった。


カイルは元々自分で読めるとは思っていなかったが、ネマも同じく顔をしかめるのを見て聞いた。


「……難しいの?」


ネマは複雑そうな顔で言った。


「これ、普通の研究ノートじゃない……なるほどね、国の錬金術師が投げ出したのは、そういうこと」


ネマは得心がいったように呟いた。


「多分、選ばれた人しか読めないように、わざと難しく書いてる――この部分なんて、ほとんど詩みたい」


ネマが開いたページを指差しながら言った。しかし、カイルには汚い走り書きにしか見えなかった。


「まぁ、ゆっくり読み解いていけばいいさ。幸い、生活の心配をする必要はないんだし」


依頼主からは、毎月生活には十分すぎる金額が送られることになっていた。その上、必要な素材は全て用意すると言われている。普通に考えれば、破格の待遇だ。


「……うん」


ネマはノートの記述を見つめながら、おざなりに答えた。ノートの内容について、考えを巡らせているようだ。カイルは邪魔しないように、そっと調合部屋を後にした。



それからというもの、ネマは寝る間も惜しんで両親の研究ノートに没頭し始めた。


朝はカイルよりも早く起き、実験の準備を始めていた。午前中はずっと調合部屋に篭り、食事を活力ポーションで流し込むように食べ、午後も実験を続けた。夕方からは研究ノートの記録を見直し、夜はベッドで両親の残した記録を読む。そんな生活。


カイルは、夜遅くにネマの部屋の前を通ると、いつもドアの下の隙間から明かりが漏れていることに気づいていたが、何と声をかければ良いかわからなかった。自分に研究を手伝うことはできない。自分にできるのは、彼女が研究に没頭できる環境を作ること。


そんなときでも、ネマは街の依頼を受けるのをやめなかった。カイルは働きすぎと心配したが、ネマは「薬を必要としている人がいるなら作りたい」と譲らなかった。両親譲りのやり方にカイルは苦笑したが、同時に少し嬉しくもあった。


夏はすでに終わりに近づき、肌寒いと感じる日が増えてきたとき、それは始まった。


深夜、工房の奥から響くかすかな咳払い。


カイルが聞き間違いかと思って布団を被り直そうとした矢先、もう一度、今度は少し苦しげな咳が聞こえた。


翌朝、何事もなかったように調合台に向かうネマに、カイルは聞いた。


「昨日、咳してなかった?」


「……最近急に寒くなったから、風邪引いたのかも。でも、大丈夫」


その声は、明らかに掠れていた。


カイルは両親のことを思い出して、少し神経質になって言った。


「大丈夫じゃないだろ。それに研究だって、万全の状態でやった方が良いんじゃないのか?」


ネマは鬱陶しそうにカイルを見たが、何も言わずに頷いた。


「今日は寝てる。活力ポーション、まだ残ってるかな」


カイルは棚から黄色の液体が入った瓶を取り出し、ネマに渡した。ネマはそれを一息に飲み干すと、よろよろと寝室へ戻っていった。


──その日、工房は静かだった。


カイルは依頼品の整理を終えると、消化の良い食事を作り、寝室に運んでネマに食べさせた。


寝台の上、ネマは厚手の毛布にくるまっていたが、額にはじんわりと汗が滲んでいた。


「……熱、あるな」


布を濡らして額に当て、温度が下がるのを待ちながら、カイルは無意識に鼻歌を歌っていた。母が昔、眠れない夜に歌ってくれた子守唄。熱にうなされていたネマは、それを聴くと少し安らいだ顔をして、静かな寝息を立て始めた。


それから数日、ネマは目に見えて調子を取り戻したようだった。元気そうなネマの姿に、カイルは胸を撫で下ろした。


そして、両親の研究ノートの解読が、ついに動き始めた。


その日、ネマは珍しく饒舌だった。


「小さい頃、お母さんが聞かせてくれた子守唄があるでしょ」


ネマは興奮冷めやらぬ、といった様子で捲し立てた。


「あの詩みたいなメモの横に、子守唄の出だしが書いてあったの。それで気づいた。子守唄の歌詞が、詩の言葉と素材の対応表になってたんだ。国の錬金術師がいくら頑張っても読めないわけだよ。お母さんたちは、この研究を私たちに託したんだ」


熱にうなされたように錬金の話をするネマに、カイルは曖昧に笑って頷く。嬉しいはずなのに、なぜか心がざわついた


それからもネマは、まるで憑かれたように研究にのめり込んだ。


色づいた木の葉が落ち、寒々とした北風が吹くようになっても、ネマの日課は変わらなかった。


カイルは研究の手伝いこそできなかったが、ギルドを介して素材を調達し、空になった試薬瓶を片付け、朝昼夜は必ず栄養たっぷりのご飯を作った。王都から取り寄せた、魔力で動く高価な暖房器具を調合部屋に取り付け、ネマが身体を冷やさないようにした。


ネマと会話をするのは食事のときくらいになっていたが、話題はいつも研究の話だった。


「……お父さん達は、きっと完成に近づいてた。こんな風に、私たちにしか読めない形で残してたってことは……」


ぶつぶつと独り言のように呟くネマの口調には、高揚感が混じっていた。その瞳はまっすぐで、焦点が合っているのに、どこか遠くを見ているようだった。


「ネマ、無理だけはするなよ」


カイルが言うと、ネマは少しだけ笑った。それは安心させるための笑みだったが、その頬はわずかにこけて見えた。


しばらくして、またあの何かが詰まったような咳が始まった。


日を追うごとに、その咳は徐々に頻度を増していった。しかも今回は、前とはどこか様子が違った。熱はないようだったが、ネマはつらそうに目頭のあたりを押さえることが多くなった。


「目が痛いの?」


指先でなぞるようにノートを読んでいるネマに、カイルが問うと、ネマは本から目を離さないまま言った。


「ううん。……ちょっと、疲れてるのかも」


「暗いところで本読みすぎだよ。ほら」


カイルが閉じっぱなしだったカーテンを開いて日光を入れると、


「痛い!」


ネマは急に腕で目を押さえて顔を伏せた。


カイルが戸惑っていると、ネマは震える声で続けた。


「窓、閉めて」


カイルは、ネマの言う通りにするしかなかった。


その日から、工房のカーテンは全て閉めっぱなしになった。


──数日後の夜。


カイルが台所からお茶を運んできたとき、ネマは調合台に背を向けて、ノートを閉じようとしていた。


「おつかれ。少し休んだら?」


「……うん、ちょうど切りがよかったところ」


振り返ったそのとき、ろうそくの灯りが、彼女の顔をかすかに照らした。


そして、見えた。


カイルは思わず言葉を失った。


「……ネマ、それ」


「ん……なに」


カイルは急いで戸棚から鏡を持ってきて、ネマに渡した。


ネマは一瞬、戸惑ったようにカイルを見返した。だがその目を、ゆっくりと鏡へと落とす。


自分の顔がそこに映る。


頬がこけている。目の下にはうっすらと隈が浮かんでいる。そして、その瞳のふちに――


「……うそ」


かすかに、金色の光が浮かんでいた。


「こんな……ことって……」


ネマの手が震え、鏡を取り落とした。


ネマは、救いを求めるように、カイルを見上げる。


カイルは、今度ははっきりとそれを瞳の中に認めた。


恐怖と動揺で震える、宝石のような青い瞳。


そんな彼女を捕らえる枷のように、瞳の周りを縁取る金色の輪。


父と母の最期のときも現れた症状が、ネマの体にも現れていた。


それは、静かな終わりの始まりだった。

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