第一章 一

  一

 


 保泉雷花ほづみらいかは、海に向かって嘔吐した。

 縦横無尽に揺れる船は、雷花の三半規管を乱しに乱し、軽食として口にしていたハンバーガーチェーンの朝食限定メニューを透明な水の中に胃酸とともに落とさせた。こうして近くで見れば――雷花はふと、考えた――海水はどこまでも透き通って見えるのに。顔を上げ、口許をティッシュで拭いながら周囲を見渡せば、あたり一面は灰色の陰鬱に染まっていた。

「台風が近づいていて揺れが激しいからねえ」

 どことなく語尾が訛ったような発音に雷花は振り返った。よく日に焼けた男が、いかにも夏らしい半袖の白い襯衣シャツを、さらに捲って筋肉質な二の腕を晒している。

「これがちゃんとしたフェリーなら、兄ちゃんも酔わなかったかもしれないけどねえ」

 男の言う通りで、雷花たちの乗っている船は一般的に使われる往復便ではなく、漁場に掛け合って朝早くに出してもらった平たい漁船であった。ほんの一跨ぎで海へと落ちるに違いない縁は、荒れた波を容易く侵入させて雷花の革靴と靴下と不快に濡らしていた。

 雷花は、ふたたび海面を見た。いまだ人間に解き明かすことのできない、複雑な方程式で捻り動く海面。薄汚くさえみえる泡立ったそれに映る相貌、短い髪、引き結ばれた唇は、たしかに男性のそれにも見えるだろう。雷花は、意図して男の言葉を訂正しなかった。男に見えたほうが、何事も都合がよい。残念だが、世界はまだそういうふうにできてきる。

 雷花は、汚臭を放つ胃液を吸ったティッシュを海に投げ捨てるのも気が引け、かといって小型のバックパックにしまうのも躊躇って、しばしその場に立ち竦んだ。男、つまりこの漁船の船主の前で海を――つまり仕事場を汚すような真似をして不興を買いたくはなかった。男はそんな雷花の逡巡にまるで気づいていないようで、雷花にはまるでわからない計測機器類がよく言えば隙間なく、悪く言えば雑多に詰め込まれた操縦席で、なにに頓着するでもなくりんごを囓りはじめた。時刻は十時十分。朝食にしては遅すぎ、昼食にしては早すぎた。とはいえ雷花も警察官として働きはじめて数年は経つから、定刻に食事を摂れる機会のほうが少ない生活を送っていたが。

 雷花は、ちらと横に視線を遣った。パーソナルスペースを侵さない程度の距離を保って、そこに雷花の上司が立っていた。潮風に煽られて、上司の、高い位置でひとつに結ばれた長い髪が不規則に踊る。すこし、傷んでいた。上司は捻れる海面に視線を流していたから、雷花からは右の頬しか見えなかった。精悍というには女の丸みがありすぎるそれ。紅の塗られた唇。おそらくは、ナチュラルメイクが施されている。しかして雷花が誰よりも信頼し、旧態依然の男性社会たる警察組織で、女性にして署長になってもおかしくない地位まで上り詰めた、毅然とした横顔。

 季節は八月初頭。海上にあってますます湿気が全身に纏わるせいか、上司は乳房の膨らみさえ露わなほど胸許を開いていた。あるいはなにか、意図があってか。腿の中程までの丈のタイトスカートからは、よわい四十四をしてなおほどよい筋肉と脂肪とがついたしなやかな脚がストッキング越しに窺える。踵の高いチャンキーヒールは、ただでさえ女性にしては長身のその身体をますます高く、威圧的にみせた。なんの後ろめたいことのない人物でさえ、相対すればわずか、物怖じしてしまいそうなほど。

 雷花はしばし、その横顔を見ていた。見惚れていた、と言ってもよかった。あるいは忠実な犬じみた仕草で、彼女からの命令を――たとえそれが視線の遣りかたひとつであっても見逃さぬようにと、数年の交番勤務で培った観察眼で以て待っていた。

 不意に、星じみたかたちの、彩飾された爪が配された手が視界に侵入した。雷花が反応するよりも速く、上司の手が胃液で汚れたティッシュをつまみ上げた。はっと横顔を伺うも、上司の表情は変わらない。より酸鼻極まる現場をいくつも見てきたのだろうから、それは当然であった。

「船長」上司は言う。舐るような声。「ここは禁煙?」

「ご自由にどうぞ、女刑事さん」

 男はどことなく――あるいは雷花の思い違いかもしれなかったが――嘲笑にも似たかたちに唇を歪めて振り向いた。そうして上司を見て、喉が恐怖に締め上げられ、情けなくも吐息が微かな声となって口から飛び出す。上司はその反応にも慣れた調子で「そう、ありがとう」とだけ言うと、手でポケットからやや覚束ない手つきでライターを取り出した。わずかに藻掻くような不器用さをみせるその仕草に、雷花は一度息を呑んでから、言った。

「お点けします、霹靂警視正」警視正という階級を、ことさら強調して。――船長にまで、届くように。

 上司――階級は警視正、所属を警視庁刑事局第一課にしてその課長である相海霹靂そうみへきれきは、やはり無感動そうな横顔のまま、片眉だけを上げた。

「あなた」な、が高く聞こえる、独特のイントネーション。「煙草を吸うの?」

「いえ、ですが、その」

 雷花は口籠もった。雷花は、霹靂の手つきがなぜ不器用なのかを知っていて、だから、少しでも役に立てればと、そう思っただけであった。霹靂はふっと溜息を吐くような遣りかたで微笑むと、ライターを雷花に差し出した。慌てて両手を出し、受け取る。手のひらに収まる程度の、しかしずしと重い、よく磨かれた銀色のライターだった。長年、彼女と時間を共にしてきたのだろう。煙草を嗜まない雷花は知るよしもなかったが、そのライターはすでに製造が中止された骨董品ヴィンテージで、それを霹靂は愛用している。

 おっかなびっくり蓋を開ける雷花に、上司は言う。

「フリントホイールを回すのよ」

 言われるがままに螺子に似た円形の部品を親指で押し下げる。意外にも力と勢いが必要な動作だった。親指の腹がじわと痛む。

 ひかりの粒子がわっと弾けた。神から人間に与えられた恩寵、それそのもののように。

 炎は、嵐の前触れとして吹き荒ぶ風に晒されても、身を捩るようにして耐えていた。霹靂は抓んでいた紙手巾を近づける。たちまち火は燃え移り、あ、と雷花が声を漏らすときには灰になって風に飛ばされていった。

「もう一度、いい?」

 霹靂はそう言うと、内懐中から白い箱を取り出す。やや凹んで中身の減っているそれ。

 煙草の箱を叩いてその一本を咥えると、霹靂は雷花の手許に顔を寄せた。長い黒髪が潮風に晒されて縺れ流れる。それを掻き上げる手指。霹靂の相貌、その左側が炎によって照らされ、つまびらかにされる。

 女の顔の左半分は、火傷によって皮膚が引き攣れ、常に絶えることのない嘲笑を浮かべているような様相であった。先刻船長が見たのは、この顔だったのだろう。間近で見るその顔から、目が離せなかった。恐怖からではない。雷花は、霹靂を畏れていた。つまり、敬っていた。部下として、そしてそれ以上にひとりの人間として。一度その熱に焼かれた過去を以てしてもなお、肌に炎の陰が映るほどに火に顔を近づけることのできるその強靱さを、どんな言葉を以てしても雷花は表現できない。

 火は、神の領域にあるものだ。それを一度は肌に纏って、彼女はここにいる。

 女神。わたしの。雷花は胸中で呟く。

 瞬きに揺れる睫毛の触れ合う音さえ聞こえるほど近くにある、片側はおんなの、片側は悪魔の相貌。そうして、雷花はその両の瞳の色がわずかに異なることを知る。本来は、甘い鼠の瞳だったのだろう。だが炎という耐えがたい熱によって、左の虹彩からはその甘さが消えていた。それはちょうど、今の空模様のようであった。重い雷雲のそれ。甘い夢に浸れるのは、真実を知らぬものだけだ。

 熱によじれて瞬きのタイミングが異なる目蓋。わずか、薄い皮膚の内側を這う蒼い雷が見えた――。

 目を劈く閃光。激しい頭痛。

 雷花はライターを取り落とした。透明に泡だった海水の溜まった船底に、それは落ちる。霹靂は腰を屈めてそれを拾った。謝罪する時間は、与えられなかった。

 遠くで、獣の唸り声。雷花たちを遠ざけんとする、警戒の声色。――雷鳴だ、と気づくのにしばらく掛かった。

「ひどい嵐になるぞお」

 潮風に負けない声で船長はそう言ったが、もうこちらを振り返りはしなかった。りんごをまた、ひと囓り。不揃いな歯が果実を咀嚼するときに霧状に飛び散る汁。甘ったるいそれが見えたような気がしたが、なんということはない。ただ重く垂れ込めた暗雲から、とうとう霧雨が降り出しただけであった。

「こりゃあ、定期便も運行しないだろうなあ。刑事さん、今日はもう船は出ねえよ。悪いが台風が過ぎるまで、島にいることだな」

「病院の白詰医師に掛け合ってみます」

 任意捜査を受け入れてくれた医師の名前を挙げる。上司は、ただ鷹揚に頷いただけであった。おそらく――これは雷花の想像に過ぎないが――上司ならば嵐の中でも野宿できただろう。彼女には、そう思わせるだけの頑健さがあった。

 その会話をしたときには、上司はもう、雷花から一歩離れ、他人に対する礼儀としてまったく失礼のない距離を取っていた。それでも雷花の耳には、霹靂の咥え煙草の端が焦げる音が潮騒に紛れることなく聞こえた――気がした。

 霹靂は豊かな乳房を押し出すようにして胸を上下させ、深く煙を呑んだ。口腔を、喉を、気管を、肺を――尼古丁ニコチンで満たして。厚みのある唇の隙間から吐き出される紫煙は、渦を巻くような潮風に攫われて頭上の雷雲をより濃く塗り足す。

 わずか、鼻先に甘い香り。苦いばかりだと思い込んでいた紫煙の、その婀娜っぽさ。十年前と同じ匂いだった。彼女の首筋から、胸許から、忌まわしい瘡痕(ケロイド)の這い回る全身の肌から嗅いだ。警察官を志して十年。高校生だった雷花は、こうして上司とともに事件の捜査に訪れられるまでになった。なにもかも変わったと思っていた年月で、変わらずにあったもの。わずかな感傷。古黴くさい記憶、その一枚から漏れるパーラメントの香りは、精液で貼りつき強張った頁を上塗りしていた。。

 わたしの復讐の女神ネメシス。真実の炎を持って現れた。

 雷花はその頁を慰撫するように撫ぜた。それは傷痕だった。癒えることのない。

「そもそも刑事さんたちはあ」風に煽られるようにして船長の声が届く。「なんであんな辺鄙な島に向かっているんですか」

 上司は、そちらに視線も向けなかった。だから、任されたのだと受け取る。

「ちょっとした事件の、手がかりを探しに」

「へえ」また、間延びした声。「なんもないでしょう、あんな島」

 それには肩を竦めるに留め、雷花は目線を上司と同じくした。激しく揺れる視界も、視点を遠くに置けばそれほど違和を感じない。船の進む先に、山の頂上、その思いがけない屹立を見た。

 船長は、丸齧りしたりんごの芯を、海へと投げ捨てた。透明に濁った水の底へと、それはゆっくり沈んでいった。名残を惜しむように、気泡をみなもへと浮かばせながら。

 

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