第五章 風は知っている

 ほんのりとただよう味噌汁の匂いで、男はぼんやりと目を開いた。


 見覚えのある天井に安堵感を抱きながら身体を起こし、ふと昨晩のことを思い返す。あの後、二人とも安心しきったせいか一気に眠気が押し寄せ、溶けるように床に就いて深い眠りに入ったのだった。


 ふと隣を見ると、あったはずの布団が既に片付けられていた。

 そこに微かに残る彼女の気配に、ほんのりと胸にあたたかな風が通り抜けていくのを感じながら、のっそりと立ち上がる。

 顔でも洗おう――布団を丁寧に畳み、よし、と軽く伸びをすると、男は部屋を後にした。




「おはようございます」


 用を足して居間に出ると、丁度御膳を運んできた女と顔を合わせた。


「おはようございます。すみません、今日は私が寝坊してしまいました」

「大丈夫ですよ、丁度朝餉が出来たところです。一緒にいただきましょう」


 女は屈託のない笑顔を向けて、御膳をいそいそと運んでいく。ほんのりとだけ漂っていた匂いがより明確になり、ごくりと息を呑んだ。


「いただきます!」

「はい、召し上がれ」


 いつものように、ぱんっと柏手を打ち、元気よく挨拶する。女はすっかり、その様を見るのが楽しみになっていた。

 昨晩の出来事が思い起こされ、なんとなくお互い恥じらいを隠し切れずに黙々と食している中、女が突然口を開いた。


「あの、実は今描いている絵で、一つお願いがあります」


 男はししゃもに伸ばした手を止めて、ちらと聞き入る。


「今日描き上げる……と言う段階で、急なお願いにはなってしまうのですが、一つ描き足していただきたいものがあるのです」

「もちろん大丈夫ですよ。何を足しましょうか?」


 男の許しを得た彼女はそっと箸を置き、なにやら懐から取り出した。それは、鼈甲で作られた高級感のある、雅な簪だった。よく見ると桜の絵があしらわれている。


「これは――?」


 大事に仕舞われていたのであろうか。見た所、傷一つなく新品同様の品だった。


「これは、私がこの屋敷に移された時に、父がこっそりと渡してくれたものです。母からは一応の施しをいただいていましたが、本当に最低限で……それを見兼ねてなのか、いつの間にか荷物に紛れて"困ったら売っても良いから持っていきなさい"と手紙だけ添えられて……」


 女はしみじみとその簪を眺めながら話した。


「唯一の家族の絆にあたるものなので売るに売れず……かといって、私には似合わない物だと思ってずっと仕舞っておりました。ですが、あなたの前でならつけていたい、その姿を描いてほしい――そう思って今こうして取り出しました」


 彼女の言葉の一つ一つが、男の心に沁み渡る。


 家族の絆や彼女の意思……。それはとても儚くて、両親と断絶している男にとっても大事にしたいと思えるものだった。

 何よりも、あなたの前でつけていたい――そんな正直な気持ちを示してくれたことがとても嬉しかった。


「わかりました。是非その姿を描かせてください。あなたの美しさを一層引き立ててくれると思います」


 真っ直ぐ目を見つめながら彼は答えた。女はその実直な言葉にかあっと頬を染めながら、ぺこぺこと頭を下げる。

 男は相も変わらずなその仕草に、また顔を綻ばせた。


「では、付けて参りますね」


 彼女はそう言って、顔の火照りを冷ますように、ふうと一息つきながら立ち上がり、自室へと入って、静々と襖を閉めた。その様子を見た男も箸を置き、彼女が着飾る様を見逃したくない一心で後を追いかける。


 戸口の前で声を掛けようかと一瞬迷ったが……気持ちが急いてしまって、そのまますっと襖を開けてしまった。


「きゃっ――!ちゃんと食べていてくださいな」


 突然の男の行動にびっくりした彼女は、朝日の差す小さな鏡台の前に座り、髪を解いたままの姿で振り向いた。


 ほんのりと紅く染まる頬に、絹のような透き通る長い髪は陽に照らされて一層輝いて見える。思わず男はぽーっとその姿を眺めてしまっていた。


「……美しすぎてつい見惚れてしまいますね。なんだか先ほどの味噌汁の味がどこかにいってしまった気がします」


 素っ頓狂なことを言いつつも、何度目かわからない彼のその褒め言葉は、いつも女の心をくすぐった。嬉しさが溢れてくる反面、恥ずかしさで、居た堪れなくもなってしまう。


「朝餉が冷めてしまいますよ?是非また味を思い出してくださいな」

「朝餉も霞むほど、あなたが綺麗で……どうしても目が離せません」


 しかし、彼の意思は頑なだった。これ以上この問答を続けていたら私の心臓は持たないかもしれない――そう悟った女は、うう、と小さく呻くような声を出しながら、真っ赤な顔を隠すように小さな鏡台に向き直って髪を結い始めた。


 普段は簡素に髪紐だけで後ろ髪を束ねていたが、今回は、髪を後ろでくるりと巻いてまとめた、いわゆる夜会巻き風の髪型に仕立て上げていた。

 その様はとても手際良く、きっと以前は何度もその髪型にしていたのであろうことが見て取れる。それがいつしか着飾らないようになって――そこまで考えて男は静かに唇を噛み締めた。


 やがて髪を結い終わると、女は手に持った簪をじっと見つめる。あとはこれを刺すだけ――しかし、その一歩がなかなか踏み出せない。私が自分で提案したことなのに……。


「大丈夫です。きっとお似合いになります」


 その姿を見ていた男がそっと言葉を投げかける。その優しい言葉に、心の奥がふわりと灯り、彼女は静かに頷いた。


 ゆっくりと鏡台に向き直ると、後ろ髪の整った結い目にそっと簪を刺す。じっと鏡の中の自分を見つめ、何度か後ろの簪を覗くように顔を横に向けた。そして、恐る恐る振り返り、ずっと視線を向けていたであろう彼の目を見つめながら、無言で「如何でしょうか?」と訴えかける。


 男はただひたすらに、彼女の姿をまじまじと見続けたが、そのまま何も答えなかった。


 "美しい"や"可憐だ"という言葉を投げかけてくれるだろうと思っていた女は、段々と不安が募り、やはり似合わないのだろうか……と落ち込みかけた時、ようやく男が口を開いた。


「ご、ごめんなさい。なんと言えば良いか――今のこの感情を的確に表現する言葉を私は持ち合わせておりません。綺麗や美しいという言葉では到底足りないくらい、あなたの姿が愛おしいです」


 照れくさそうに頭や頬を搔き、言葉を探すようにあちこちに視線を滑らせながら話す。


 最初女も、どういうことだろう?と首を傾げながらその言葉を反芻していたが、その内にじわじわとその意味を理解してきたのか、かあっと顔が熱くなってきて思わず頬を隠すように手で覆ってしまった。


「いえ、あの、その……私もなんて言えば良いか……。きょ、恐悦至極にござりまする――あ!いや、何を言ってるのでしょう私」


 しどろもどろになって首をぶんぶんと振りながら話す。

 普段は多彩な言葉を卒なく原稿に落とし込んでいるにも関わらず、この時ばかりは最早自分で何を言っているのかがわからなくなってしまっていた。


 その様を見た男は、胸の奥に何かが込み上げてきてしまい、胸元を押さえながら眉や口を歌舞伎役者のように顰めさせてしまう。

 女はその顔があまりに可笑しくて、緊張の糸が切れたように思わず口を押さえて吹き出してしまった。


 鈴のようにころころと笑う彼女に困惑して、男は呆然と目を泳がせながらその姿を眺めていた。しかし、じわじわとその笑いに釣られて顔を綻ばせ、小刻みに鼻から息を漏らしていたかと思うと、やがて腹を抱えながら、彼女としばらく声を重ねていたのだった。







 春の日差しが眩しい縁側に、彼女は儚げな表情を遠くに向けながら、静かに腰掛けていた。


 心地よい風に吹かれて微かに揺れる髪には、桜の簪が輝いている。


 男はその姿を目に焼き付けるように、彼女の指先や睫毛に至るまで真剣な眼差しを向け、一片の迷いもなく軽快に筆を走らせていた。





 時折、女は目線だけをちらと彼に向けてみる。


 鋭い意欲に燃えるその表情はとても尊く、見る度に胸がときめいてしまった。

 そのまま油断をしていると、表情が綻んで崩れてしまいそうになるので、そうなる前にまた遠くに視線を向ける。





 筆が走る音と、微かに揺れる草花のせせらぎ、そして遠くに鶯の求愛の声が響く――そんな、静かで穏やかな春の昼下がり。


 ただ座っているだけなのに、女にはとても幸せな時間に思えた。このまま時が止まってしまえばいいのに――そんなことさえ考えてしまっていた。


 だって、これを描き終えたら彼はきっと……。





 また、ちらと彼に視線を送ると、顔を手で拭った時についたであろう絵の具の線が、無数に描かれていた。手も様々な色が混ざり、鈍い光沢を放っている。


 嗚呼――もうすぐこの幸せな時間が終わってしまう……。


 そう考えるだけで切なくて、切なくて、心がきゅっと締め付けられる思いだった。

 彼の描く物を見てみたい、でも、どうかまだ描き上げないでほしい――そんな矛盾した感情を胸に秘め、表情に現れてしまわぬように努めながら遠くを見続ける。







 やがて、筆が走る音が止まった。女はそのことに気づいても尚、遠くを見つめ続けている。


 さわやかな風の音だけが響く、長い長い静寂――まるで二人だけが世界から切り離され、一枚の絵画に描かれたようなえも云われぬ時が流れていた。




 何度目かの風の音と共に、鶯が一声、堰を切ったように鳴いた後、男が静かに口を開いた。


「――終わりましたよ」


 その言葉を聞くや否や、彼女の頬が一筋、陽に照らされて光った。そして、儚げな表情を変えぬまま――ゆっくりと彼に向き直る。


 男の表情はとても優しい……しかし何処か悲哀に満ちた、そんな穏やかな顔をしていた。そっと女に微笑みかけている彼の頬もまた、静かに一筋輝いていた。





「ありがとうございました」


 女は微かに声を震わせながら、静かに頭を下げてそう告げた。


「こちらこそ、ありがとうございました」


 男もまた、同じように頭を下げながら、優しく応えた。




 ほんの少しの沈黙の後、女はゆっくりと立ち上がりながら、彼に言葉を投げかける。


「拝見しても――よろしいですか?」

「もちろんです。どうぞ」


 すっとキャンバスの前から身を引いて、筆を持っている手を差し延べながら、彼女を恭しく迎え入れる。

 からんころんと、控えめな下駄の音を響かせて彼の元へ歩み寄り、その瞳を見つめる。こくりと頷く彼に、静かに目配せして微笑みかけると、そっとキャンバスを覗き込んだ。


 そこには、桜の花びらの舞う縁側で、ほんのりと頬を染めて、長い睫毛の目立つぱっちりとした瞳で遠くを見つめ座している一人の女性――その髪には、桜があしらわれた簪が小さく煌めいていた。


 細い首元から控えめな足先まで鮮明に描かれ、よくよく見れば細かく色が何層も複雑に重なっているようだった。

 今にもキャンバスから動き出しそうな、あまりに雅で綺麗な姿に、女はしばし見惚れてしまった。


「綺麗……」


 自然と口から言葉が溢れた。


 一瞬だけ、私がこんなに綺麗なはずがない――と、心の奥から囁きが聞こえてきた。しかし、見れば見るほどその姿は、朝方に髪を結っている時に鏡の中にいた女性に瓜二つで、その囁きはすぐに露と消えていった。


 あの鋭く真剣な眼差しを送ってくれていた彼の瞳を想うと、嬉しさと恥ずかしさで顔がじんわりと熱くなっていく。それを確かめるように、頬にそっと両手を添えた。


 男はそんな姿を後ろから見ているだけで、彼女の感情が静かに伝わり、胸が高鳴ってとても充実した高揚感を得ていた。




「これで完成――なのですね?」


 キャンバスに視線を向けたまま、おずおずと、女は彼に問うた。その言葉の意味を、しかと噛みしめながら――。


「はい、もうほぼ完成です。あとは……」


 男はほんの少し、言葉を濁す。急に言葉を詰まらせたので、女は心配そうに彼の顔を覗きこみ、おずおずと尋ねる。


「ほぼ――というのは?」

「えっと、その……あと一晩乾かして、色のなじみ具合を見てから、あなたにお渡ししたいと思っておりまして」


 罰が悪そうに、鈍い光沢を放つ手で頭を掻きながら、視線を落とす。その言葉が意味することは――。


「……じゃあ、今夜も、泊まってくださるのですか?」


 どこか期待を込めて、心なしか身を乗り出しながら、彼女が問いかける。


「なんというか、何泊も面目ないのですが……お願いしても、よろしいですか?」


 その言葉に、女は目を水晶のように輝かせた。そしてすがるように彼に近づき、さらに身を乗り出す。

 視線を落として油断していた男は一瞬たじろいでしまったが、すぐに真っ直ぐその輝く瞳を見つめ返した。


「もちろんです。是非、泊まっていってください」


 いつもの声量からは想像出来ない程、力強くはっきりとした声だった。ほんのりと彼女の匂いが香る程、目の前まで顔を近づかれて、男は頬を染めながら目を泳がせてしまう。


「あの……絵の具、ついてしまいますよ?」


 何か理由をつけて、距離を取ろうとする。しかし……。


「そんなの、構いません!」


 女は頑なだった。こんなに強気に来られるとは――。

 正直、そんな彼女に愛おしささえ湧き起こり、このまま抱きしめてやりたい気持ちも山々なのだが、今のこの両手では触れることも叶わない。行き場の無い両腕を絡繰のように震わせながら、必死にその気持ちを抑え込んだ。


 遠くに鴉の声がこだまする。既に陽は、淡い橙の光を二人に浴びせながら、静かに遠くの山へと沈みかけていた。

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