第58話 つかの間の休息 その2
帝国図書館の外へ出ると、ルカは大きく伸びをした。「さて、次は何をしようかしら?」
「何でも、君の好きなことをすれば良いさ」彼女の後ろで、ラウルは鷹揚に言った。
ルカは振り返って尋ねた。「あなたのやりたいことは? どこか行きたい場所はないの?」
ラウルは肩をすくめた。「テミストリスの街については、十分以上に知っているよ。今さら特に行きたい場所もないさ。君はどうなの?」
「そうね」ルカは少し考えた。「私、海を近くで見てみたいわ」
「それならば、この先にマレイダス港があるよ。青の界有数の大きな港だ。そこに行ってみる?」ラウルは提案した。
「いいわ。そうしましょう」
ラウルは、帝国図書館の庭園から裏側へルカを案内した。そこから
「すごいわね。なんて壮大な眺めなの。果てしなく海が広がっているわ」
興奮気味のルカに、ラウルは意外そうに言った。「まるで、初めて海を見るみたいだね」
「ええ。肉眼で、これほど近くから海を見るのは初めてよ」
彼はしげしげとルカを見ながら尋ねた。「でも、聖霊の力では見たことがあるんだろう? そんなに違うものなの?」
「見た目はまったく同じよ。でも」ルカは両手を大きく広げた。風を体全体に感じた。「こんなふうに、風は感じないわ。なんて気持ちがいいのかしら」
そんなルカを、ラウルは面白そうに眺めていた。彼にしてみれば、海が見えるぐらいでそこまで感激している人間を見るのが珍しいのだろう。
「港はもう少し先だよ」ラウルは前方を指さした。
ルカは頷いた。再び二人で港を目指して歩き出す。
ルカは浮き浮きしていた。見るもの聞くものすべてが興味深く、彼女を楽しませてくれる。それだけではない。大声で叫びだして走り出したいような衝動を彼女は感じていた。
(いったい私は、何をこんなに浮き浮きしているのかしら? なぜ、すべてが楽しく思えるのかしら?)
理由はわからなかった。聖霊術院を抜け出せて、すべての呪縛から解き放たれたように感じていたからかもしれない。
(それに弓探し)
そのことも彼女をワクワクさせていた。未知のものと遭遇できるかもしれない期待感で、いつになくルカは興奮気味だった。少しひんやりした海風さえも、彼女の熱っぽさの冷ます効果はなかった。
「何を考えているの?」
ラウルの声に、彼女はにっこりして答えた。「弓探しを頑張ろうって考えていたの」
ラウルも微笑んだ。「それは、ありがとう。でも…」彼は真顔になった。「本当のところは、ルロンが君に頼んだんだろう? 弓の探索を手伝ってくれって。そうなんだろう?」
ルカはあっさりと認めた。「そうよ。でも、弓に興味があったのは本当よ。ルロンさんに手伝ってくれと言われて、渡りに船という気持ちだったわ」
「本当にそうなの? 迷惑じゃなかった?」
「迷惑だと思ったら、引き受けないわ」ルカはラウルを見て、にっこりした。「私、そんなに親切でも優しくも無いの。自分が興味のないことを引き受けたりしないから、そのことは気にしなくていいのよ」
ラウルはぎこちない笑みを浮かべた。「そうだね。君がそう言うのならば、そうなのだろうね」
ルカはまじまじとラウルを見つめた。ラウルはルカに視線を向けることもなく、正面だけを見て歩いている。少し思い詰めたような様子は、それまでルカが知っていたラウルではなかった。どの姿が本当のラウルなのかわからず、そのことがルカを少し戸惑わせていた。
一方、現実的な彼女の一面は、自らに囁いていた。(そんなこと気にしたってしようがないわ。彼は彼。それ以上でもそれ以下でもない。それでいいじゃない?)
ルカは気持ちを切り替えて尋ねた。「ところで、ラウル。教えて欲しいことがあるのだけど」
ラウルは久しぶりにルカを振り返った。「何?」
「青の界では、みんなどれぐらい神託を信じているの」
ラウルは淡々と答えた。「人それぞれなんじゃないかな。でも、神託を気にしている人は多くないと思うよ。おまけに『大召還』の後、各国に有力な神官はほとんどいなくなってしまったからね」
「アズロニアは別としてね」
「そうだね。でも、アズロニアで暮らす人達にとっても、神託は身近なものではないと思うよ」
「水占いは大人気のようよ」
ルカの言い方が可笑しかったのか、ラウルは微笑んだ。「それはその通りなのだけどね」
「それでも、神託は、青の界の人々にとって身近なものではないの?」
「無いと思うよ。だってそうだろう? 神託を聞くために、わざわざ大輝陽院に巡礼に来るという時点で、その連中は有産階級と思って間違いない。庶民は神託なんか気にしている余裕はないよ。良くも悪くもね」
ラウルの指摘はもっともで、ルカは否定できなかった。
「では、あなたは? あなたは神託を信じているの?」
「俺?」話題の矛先が自分に向いて、ラウルは少し慎重に答えた。「俺だって、それほど神託が身近だったわけではないからね」
「でも、ヤゴス大神官の神託は? それに、あなたが生まれたときのテミスの神託だってあるでしょう?」
「やゴス大神官の神託については、かなり驚いたけどね。正直なところ、それをどう受け止めていいのか、今も答えは出ていないよ」
「では、テミスの神託は? あなたが生まれた時に降りたというテミスの神託については、どう思っているの? 信託が自分の未来を示しているって、どんな気分?」
「それを言うのならば」ラウルはルカを見て、意味深な笑みを浮かべた。「君自身はどうなの? 君だって、光の魔女として神託に出ているじゃないか」
「まあ。まだ、そんなことを言っているのね」そう言いつつも、ルカはまんざらでもなかった。そんな素振りは見せずに言った。「でも、仮にそうだとしたら、私はテミスに訊きたいわ。光の魔女は、どうやって人魚の王子を玉座へ導くのでしょうかってね。肝心のその方法を教えてくださいってね」
「確かに、それは俺も知りたいね。要するにあのテミスの神託は、肝心なことは何も言っていないのさ。だって、王太子である俺が王になるのは当たり前のことなのだから。あの神託の前半は、その当たり前のことを言っているだけなのだよ。ただ一つ、光の魔女が俺を助けてくれるという点を除いてね」
ルカは考えながら指摘した。「でも、あなたが生まれた時は、そこまで当たり前ではなかったのでは? だって、神託が降りた時、あなたのお父さんは、あなたを王家に入れるつもりはなかったのでしょう? あなたは、かなり王位から遠い立ち位置だったはずよ。それなのに、人魚の子は王子になった」
ラウルは正面を見つめたまま言った。「それはそうだけど…。でも、どちらにしても、俺にとってはどうでもいいことかな」
ルカは今ひとつラウルの気持ちが掴めなかった。彼にとって王位とは、どうでもいいものなのだろうか? 彼の中で、それはなんの意味も持っていないのだろうか?
ルカは感じたままに尋ねた。「神託そのものがどうでもいいの? それとも、神託の内容がどうでもいいの?」
ラウルは振り返った。「どういうこと?」
「つまり、いかなる内容であろうが、神託そのものがどうでもいいのか。それとも、あなたが王になるという内容の神託が、どうでもいいのか」
「それは…」ラウルは珍しく口ごもった。「何ごとにせよ、俺は神託などを当てにはせずに自力でどうにかしたいと考えている。それだけのことさ」
「ふーん。では、あなたは自力でどうやって王になろうとしているの? そもそも、王になりたいの?」
それほど深い意味で言ったのではないにも
「だって、そうじゃない? ものすごく国王になりたかったら、あのテミスの神託を信じるのでは? 神託もそう言っているんだ。だから、それは絶対実現するんだって。でも、あなたは、そんな風に考えていない。ということは、あなたは実は、王になりたいと思っていないのかもしれない」
ルカの言葉にラウルは固まった。歩みが止まり、ルカを凝視した。
「ラウル?」
ラウルはすぐには答えなかった。やがて、ゆっくり話し始めた。「確かに、最初はそうだった」
「最初って?」
「初めて自分が国王の息子だと知らされた時。俺の知らないところで、すべて決まっていた。突然、王太子に決まったと言われても、全然意味がわからなかったし、納得もしていなかった」
「でも、その後、気持ちが変わったというのね?」
彼は小さく息を吐いた。「気持ちが変わった、というのとは少し違う気がする」
「どういうこと?」
彼は遠くを見つめた。その視線は間違いなく過去のどこかに向けられていた。彼は話し始めた。「王宮に引き取られて暫くの間、俺は何もかもわからなくなっていた。それだけじゃなく、どこにいても、そこが自分のいるべき場所ではない気がしていた。でも、引き取られてしばらくした頃、国王陛下から、今の父上から呼ばれたんだ。父上は俺を側に招き、手を取っておっしゃった。『私はお前を王太子に決めた。それは私の後を継いでこの国を治めて行くのは、お前の方が弟より相応しいと判断したからだ。お前が王になれば、エルメデアは今以上の発展を遂げ、民も今より幸福になるだろう。だが、その為に、お前自身は多大なる犠牲を払わなければならなくなるだろう。お前自身は、グレゴールの息子だったほうが幸福だっただろう。それがわかっていながら、私は敢えてお前に問う。エルメデアの王太子になることを承知してくれないか?』ってね」
「まあ」ルカは驚いた。「国王はそんなことを言ったの? もし、あなたが嫌だと答えたら、どうするつもりだったのかしら?」
ラウルは空を見上げて答えた。「何と答えたって、結果は変わらないさ。父上は一応聞いてくださっただけで、それはすでに決まったことなのだから。でも、それを聞いてくださっただけで、俺は少し嬉しかった。頭ごなしに命令するのでもなく、誤魔化すのでもなく、ご自分の言葉で話して下さったから。だから俺は答えていた。『うまくできるかわからないけど、最善を尽くすと誓います』ってね。そう答えた瞬間、俺の中のモヤモヤは消えていた。そこが俺のいるべき場所で、おれは王太子ラオウウルフなのだと。そして、たとえ俺自身がそうありたいと望んでいないとしても、俺にそうして欲しいと望む人が大勢いるのならば、それに応えようって」
ルカは自然に尊敬の眼差しを彼に向けた。自分とほとんど年齢の変わらない少年の覚悟の重さをひしひしと感じた。
「ラウル。あなた本当に真面目なのね。そんな風に考えるなんて偉いわ。私にはとてもできない」ルカは心からそう言った。
「そんなことはないさ」彼は沈んだ調子で言った。「君だって、俺の立場だったら、同じように考えるさ」
「そうかしら?」
「きっと、そう考える。いや、絶対、そう考える」ラウルは自分に言い聞かせるように繰り返した。そしてそれ以上は何も話さなかった。
ルカも無言でラウルを見守った。そんなつもりは無かったが、触れてはいけない部分に触れてしまったのかもしれない。
ラウルは突然、歩き出した。海に向かって続く緩い階段を足早に降りていく。だが、彼がルカに視線を合わせることはなかった。ルカも慌てて小走りでその後を追った。
「ところでさ」唐突にラウルは立ち止まって振り返った。
「あ!」
ルカは止まることができずにそのまま、頭から彼に突っ込んでいった。気づけばルカはラウルの腕の中にいた
「な、なにしているの?」
ラウルはニヤリとした。「君こそ、何しているの。君って、意外と粗忽者なんだね」
彼は、明るく屈託のない少年に完全に戻っていた。陽気に提案した。「それより、ルカ。俺、歩いていたら、お腹がすいてきちゃった。この先に、船員たちの食堂があるんだよ。結構、美味いんだ。そこに行ってみない?」
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