玉子焼きのあまいやつ

 友達が、いや、友達と思っていた人がなんだか遠くへ行ってしまいそうなときって、一体どうしたらいいのだろう。あたしは、目の前で二組の冴島と話す、遠野を見ていた。


「君、遠野君だよね」


 終業式前日、昼休みに突然教室にやってきた男子は、えらく自信に満ちた歩き方でまっすぐ、机にまだ弁当を広げたままの遠野とあたしの前にやってくると、いきなりそう、遠野に話しかけてきた。遠野の弁当箱にも、あたしの弁当箱にも、まだ玉子焼きが残っているというのに。


「俺、二組の冴島。知ってるっしょ?」


 知らねえ。


 遠野はいい奴なので、「ごめん、知らないや」と、丁寧に答えた。嘘だろお、と冴島とやらは爆笑している。いったい何がおかしいんだろう。ふと気付けば、クラスの女子も男子も、あたしたちを遠巻きに眺めてざわめいている。あたしたちは、最後の玉子焼きを口にするタイミングを、完全に見失ってしまった。


「これこれ」


 と、冴島はスマートフォンを見せる。画面のなかでは、冴島と、やっぱり知らない、でも冴島とよく似た感じの男子が二人、なんだか賑やかにおしゃべりをしていた。ああ、これはあれだ。学校の、いわゆる「スクールカースト上位」って奴らがよく廊下や校庭で踊ったりふざけたりしながら撮っている、「縦型配信」ってやつだ。アカウントだけなら、恐らく校内のほとんどの人間が持っているんじゃないだろうか。あたしでさえ、とりあえず持っている。見たことは、ろくになかったけれど。そうか、こいつ「上位」の人間か。そういえば、クラスの女子が好きだと押し売りのように見せてくれた、どこぞのダンスボーカルグループのメンバーに、髪型も雰囲気も似ている。似せている。ような気がする。あと香水が臭くて、とにかくチャラい。


「俺のこと、まだ知らない人がいたんだなあ」


 なんだこいつ、むかつくな。


 でもどうやら、この場ではあたしも遠野も、圧倒的マイノリティのようだ。遠野はまた、「ごめんね」と丁寧に謝っている。いいじゃん、こんなやつ、無視で。このままだと玉子焼きを食べられないまま昼休みが終わってしまう。


「それで、俺に何の用?」

「遠野くん、俺と友達になってよ。で、一緒に配信しない?」


 クラスメイトたちがわあっと声をあげる。彼らは口々にアツい!とかなんとか騒いでいるけれど、あたしはなんだか急にひんやりして、握ったままだったフォークを、そっと握りなおした。ひんやりしているはずなのに手は汗ばんでいて、フォークは、少し居心地が悪そうだった。


 遠野は、美少年だ。派手で目立つタイプではないけれど、誰が見たって美少年だと思うくらいに、美少年だ。髪は細くてさらさらで、目は黒目がちで、くりくりと大きい。高校生一年生にしては小柄で、まだ中学生みたいなあどけなさを残しているのも、いかにも美少年って感じだ。少なくとも、あたしのなかの美少年の定義は、遠野だ。

 あたしは知っていた。隠れ遠野ファンが、同学年にも先輩にも、たくさんいることを。それでもこれまであたしと遠野が毎日お昼ご飯を一緒に食べることができていたのは、遠野がものすごくマイペースな人間だからだ。遠野は、口数こそ少ないものの、気が向かないことにはやんわりと、誰も不愉快にしない「ノー」が言えて、一人だって全然平気で、周りに合わせることができないことが何より恐ろしいあたしたちのような人間からは到底信じられないような、どこか達観した空気を、いつも漂わせている。だから、それがなんとなく、「必要以上に踏み込める存在ではない」と思われているからなんじゃないかと、あたしは思っている。


「その配信っていうのを、俺、よく知らないからなあ」

「じゃあ見てみてよ。それから考えてくれればいいから。あ、それとも彼女が嫌がる感じ?」


 冴島がちらっとあたしを見る。あたしがいることには一応気付いていたんだ、こいつ。別に見直したりはしないけど。


「彼女じゃないよ」

「え、違うの?ふたりでご飯食べてるのに?」

千名原ちなはらの席、俺の前なんだ」

「え、それだけ?」


 冴島がまた笑う。あたしはもう一度、フォークを握りなおした。ここであたしは一体、何を言えばいいのだろう。言えることなんかなんにもないし、別に期待されてもいないのは、分かっているけれど。

 そう、あたしと遠野は、席が前と後ろなだけで、それ以上でもそれ以下でもない。だけど、それがなんだ。その笑い声で、あたしだけをこの教室から切り取るな。

 そもそも遠野は、なんというか、「そういう」存在でも対象でもない。あたしにとっての遠野は、そんな生臭い存在感を持つものじゃなくて、例えるなら、自分の部屋の家具のような、気付いたらそこにいて、いないと少しだけ困るって程度の存在で、なんとなく遠野もあたしに対してそうなんじゃないかと感じている

 それでも一応、一学期の間一緒に、なんとなくではあるけれどお昼ご飯を食べていたんだから、きっと友達ではあるはずなんだ。


 でも、そういえばあたしは。遠野の好きなものとか、趣味なんかを、ほとんど知らない。


「うん、それだけ」

「ふうん」


 遠野が全く笑わないので、冴島もなんとなく笑わなくなった。そう、遠野には謎の迫力がある。本人は至って素直に話しているだけで、そこに何の力みもないのだけれど、目の前のこちらは、なんだかよくわからない説得力を感じてしまう。そんな透明な迫力が。


「まあいいや、とにかく考えといて」

「うん、わかった」


 遠野がようやく微笑んだので安心したのか、いかにも営業用の笑顔で、思ったよりもあっさりと、冴島は去っていった。周りのクラスメイトもしばらく騒いでいたが、やがてみんな一学期最後の昼休みを満喫するために、それぞれのグループに戻っていく。でもあたしはまだ、握りしめたフォークを手放せずにいた。


 友達が、いいや、友達と思っていた人がなんだか遠くへ行ってしまいそうなときって、一体どうしたらいいのだろう。


「あの、さ」

「なに?」

「遠野の好きなもの、5個、ううん10個言ってみて」


 遠野は、きょとんとしている。当たり前だ。あたしのばか。ばかばかばか。でもなんだかそれを聞かないと、あたしはもう遠野の友達を名乗れないような気がした。別に誰に名乗るわけでもないのに。


「晴れの日とか……猫……?えーと、新しい自転車?とかも割と好きかも」

「うん」

「あとは、なにかなあ」


 遠野はしばらく、うーん、と首を捻って悩んでいたが、不意に「あ」と声を上げた。


「人の話を聞くのは、ちゃんと好きかもしれない」

「え?」


 予想外の答えに、今度は私がきょとんとしてしまった。そんなあたしに気付きもせず、遠野は満足そうにうなずいている。


「自分が知らないことを知るのが好きなんだ。だから、人の話を聞くのは好きかも」

「知らない、こと」

「そうそう。だから千名原と話すのが好きなんだよね」

「え」


 遠野はまだ、うんうんと一人で納得している。誰か窓のカーテン閉めてくれないかな。日差しが暑くてしかたない。


「千名原、好きなものたくさんあるでしょ」

「そう、かな」

「うん。音楽とかもさ、いっつも違うの聞いてて。ほら、俺が話しかけたきっかけもそれだったじゃん」


 四月も半ばを過ぎた頃、遠野は突然、あたしの背中をつついてきた。「音楽好きなの?後ろから見えてたんだけど、いっつも違うの聴いてるよね」と。あたしはただ、人に話しかけるのが苦手なくせに一人がこわくて、少しずつできていく友達グループを見ないように、そして「一人でも平気ですよ」とアピールするために、イヤホンで耳を塞いで、音楽を聴いていただけだったのに。むしろ、本当にちゃんと音楽が好きになったのがそれ以来だったというのは、今となっては本当にここだけの話だ。


「そういえば、そうかも」

「漫画の話とか、恐竜の話とか、話していると俺の知らないことがいっぱい出てくるなあって、いつも面白くて」

「そっ、か」

「だから、冴島君には悪いけど、配信はやらないかなあ。見に行くとは思うけど」


 そっか、ともう一度呟いて、あたしはくちびるをぎゅっと結んだ。笑うな、笑うな、あたし。


「あ、あと」

「なに」

「これ」


 遠野は自分の弁当箱にちょこんと取り残された玉子焼きを指さす。


「玉子焼き?」

「そう、あまいやつ」

「あ、一緒だ」


 あたしも、自分の弁当箱にひとつ残った玉子焼きを指す。これは、笑っていいだろうか。笑っていいか。へらへらあたしが笑ったら、遠野もへらへらと笑った。

 よかった、あたしと遠野は、あたしたちは、ちゃんと友達だ。二学期になったらきっと席替えで、あたしと遠野は離れてしまうだろう。あたしにとってそれは、ただの教室内での話であっても、とってもこわかったのだけれど、でも、あたしたちはちゃんと友達だ。遠野は、そういう奴だから。手のひらからようやく解放されたフォークも、へにゃりと弁当箱の縁に寄りかかっている。


 あたしたちはようやく、玉子焼きを口に放り込んだ。まもなくチャイムが鳴る。間に合ってよかった。遠野の好きなものの残り7つは、とりあえず良しとしよう。

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