第4話『感情が、推しを強くする』



「結城、集中しろ」


アラタの声で、現実に引き戻される。


推し婚契約から二週間。今日は「感情コントロール」の特訓日。場所は旧体育館の隅にある小部屋。ここなら他の生徒に見つからない。


「ごめんなさい」


「謝るなと何度言えば」アラタがため息をつく。「で、今の数値は?」


手元の測定器を見る。私の感情指数:78。


高すぎる。通常、ファンの感情指数は40〜50で安定しているべき。60を超えると推しの能力に影響が出始め、80を超えると——


「また上がってる」アラタが眉をひそめる。「何を考えていた」


「な、何も」


嘘。さっきのキスの練習を思い出していた。


この二週間、毎日のように練習している。手つなぎ、ハグ、そしてキス。全部演技のはずなのに、私の心は本気で反応してしまう。


「結城」アラタが真剣な表情で言う。「このままだと、学園祭で確実にバレる」


学園祭まで、あと一週間。


推し婚カップルの公開セレモニーで、大勢の前でキスをしなければならない。その時、私の感情が暴走したら——


「わかってます」


「本当にわかってるのか」アラタが立ち上がる。「ファンの感情が推しを強くするのは事実だ。でも、それは適切にコントロールされた時の話」


アラタが壁際のホワイトボードに図を描き始める。


「見ろ。これが正常な関係」


円が二つ、適度な距離で並んでいる。


「ファンの応援や憧れの感情が、推しにエネルギーを与える。推しはそれを力に変えて、パフォーマンスを向上させる。Win-Winの関係だ」


「はい」


「だが」アラタが別の図を描く。「恋愛感情は違う」


今度は、円が重なり合い、ぐちゃぐちゃになっている。


「恋愛感情は、最も強力なエネルギーだ。しかし制御不能。推しの能力を一時的に爆発的に上昇させるが、その後——」


アラタがペンを置く。


「クラッシュする。能力が暴走し、最悪の場合、感情中毒で廃人になる」


「それは、知ってます」


「知識として知ってるのと、実感するのは違う」


アラタが近づいてくる。いつもより、表情が厳しい。


「俺の前の契約者の話をしたか」


「いえ……」


「優秀なファンだった。感情コントロールも完璧。だが、ある日突然、恋に落ちた」


アラタの声が、少し震えている。


「止めようとした。でも、恋愛感情は加速するばかり。俺の能力も比例して上昇し、制御不能になった」


「それで、その人は?」


「記憶消去」アラタの答えは短い。「俺との記憶を、すべて失った」


胸が痛む。でも、続きがあった。


「それだけじゃない」アラタが拳を握る。「記憶消去の後遺症で、彼女は感情表現が上手くできなくなった。笑うことも、泣くことも、怒ることも」


「そんな……」


「だから言ってるんだ」アラタが私の肩を掴む。「俺を好きになるな。お前まで、あんな風になったら——」


アラタの手が震えている。初めて見る、アラタの弱さ。


「アラタ」


「何だ」


「私、頑張ります。感情、ちゃんとコントロールします」


嘘だった。もう手遅れ。でも、アラタをこれ以上苦しませたくない。


「……そうか」


アラタが手を離す。一瞬、寂しく感じてしまう自分が嫌。


「実践練習をする」アラタが距離を取る。「感情を抑えながら、スキンシップを取る練習」


「はい」


「まず、手を繋ぐ」


もう何度もやっている動作。でも、今日は違う。感情を抑えることを意識しながら。


アラタの手を取る。


温かい。ダメ、感情が——


「数値」


「……65」


「高い。もっと抑えろ」


でも、どうやって?好きな人の手を握って、平静でいられるはずがない。


「違う方法を試す」アラタが提案する。「嫌なことを考えろ」


「嫌なこと?」


「そう。楽しくない記憶や、苦手なものを思い浮かべる。感情を中和させるんだ」


なるほど、と思ったけど——


「アラタといる時に、嫌なこと考えるなんて」


「は?」


つい本音が出てしまった。慌てて取り繕う。


「い、いえ、なんでもないです!やってみます!」


嫌なこと、嫌なこと……そうだ、数学の小テスト。こないだ赤点取った。うわ、思い出したくない。


「数値は?」


測定器を見る。55。


「お、下がった」


「その調子だ」アラタが頷く。「次は、ハグ」


ハグ。抱きしめられるやつ。


ダメ、また数値が——


「落ち着け」アラタが優しく言う。「深呼吸」


言われた通り、深呼吸。でも、アラタが近づいてくると、息が乱れる。


「目を閉じるな」アラタが指摘する。「現実から逃げるな」


「で、でも」


「相手の目を見る。それが一番効果的」


アラタと目が合う。青い瞳。きれい。


ダメダメダメ!数学!赤点!追試!


「よし、キープできてる」


アラタが私を抱きしめる。ふわっと包まれる感覚。アラタの匂い。心臓の音が聞こえる。


これで平静でいろなんて、無理——


「結城」


耳元でアラタが囁く。


「お前は、よくやってる」


「え?」


「最初に比べたら、格段に上達した。才能がある」


褒められた。アラタに褒められた。


嬉しい。すごく嬉しい。でも——


ピピピピピ!


測定器が警告音を発する。見ると、数値が85を超えていた。


「しまった」


アラタが慌てて離れる。同時に、アラタの端末も警告音を発し始める。


「能力値が……」


見せてもらうと、アラタの能力値が急上昇している。通常の1.5倍。このままだと——


「深呼吸しろ」私がアラタに言う。「落ち着いて」


「俺は大丈夫だ。それより、お前が」


「私のせいです。ごめんなさい」


また感情が高ぶる。負の連鎖。


二人で深呼吸を繰り返し、なんとか数値を安定させる。


疲労感がどっと押し寄せる。アラタも壁にもたれかかっている。


「……やっぱり、無理なのかな」


つい、弱音が出る。


「何が」


「私が、アラタの契約者でいること」


自己嫌悪でいっぱいだった。アラタを苦しめているのは、私の感情。それをコントロールできない私は、失格——


「違う」


アラタの声が、強く響く。


「無理じゃない。ただ、方法が間違ってただけだ」


「でも——」


「感情を完全に抑え込もうとするから、反動が来る」アラタが説明する。「むしろ、適度に発散させながらコントロールする方がいい」


「発散?」


「そう。例えば——」


アラタが立ち上がり、私の前に来る。


「今から、思いっきり俺への感情を爆発させろ」


「は?」


「好きとか、大好きとか、愛してるとか。演技として、全部吐き出せ」


「そ、そんなこと——」


「演技だ」アラタが強調する。「本気じゃない。ただの練習。だから、遠慮するな」


演技。そう、演技として。


「……アラタ」


「ん?」


「大好き」


言った瞬間、顔が真っ赤になる。でも、不思議と楽になった。


「もっと」


「アラタのこと、すごく好き。世界で一番」


本音だった。でも、演技ということにする。


「手を繋ぐたび、ドキドキする。キスされると、心臓が壊れそう」


止まらない。一度口を開くと、感情が溢れ出す。


「もっとそばにいたい。もっと触れたい。もっと——」


「よし、そこまで」


アラタが私の頭を撫でる。


「どうだ?楽になったか?」


「……はい」


本当に楽になっていた。胸のつかえが取れたみたい。


「数値も安定してる」アラタが測定器を見せる。「52。いい感じだ」


「でも、こんな方法で」


「時々、ガス抜きが必要なんだ」アラタが優しく言う。「溜め込むと、いつか爆発する。それより、定期的に発散」


理にかなっている。でも——


「アラタは、大丈夫なんですか?」


私の感情の爆発を、直接受け止めて。


「慣れてる」


素っ気ない返事。でも、アラタの端末を見ると、能力値がまだ少し不安定。


私の感情は、確実にアラタに影響を与えている。


「結城」


「はい」


「学園祭まで、この方法で行く。一日一回、感情の発散タイム。それ以外は、できる限りコントロール」


「わかりました」


でも、不安は消えない。


演技として感情を吐き出すうちに、本物との境界が曖昧になりそうで。


いや、もうとっくに曖昧になっている。


「今日はここまで」アラタが荷物をまとめる。「明日も同じ時間に」


「はい」


部屋を出ようとして、アラタが振り返る。


「結城」


「何ですか?」


「お前は、強い」


唐突な言葉に、戸惑う。


「感情に振り回されながらも、ちゃんと向き合ってる。それは、強さだ」


「でも、コントロールできてない」


「完璧じゃなくていい」アラタが言う。「完璧な人間なんていない。俺だって」


アラタだって?


続きを待ったけど、アラタはそれ以上言わずに部屋を出て行った。


一人残された部屋で、私は測定器を見つめる。


感情が、推しを強くする。


でも、強くしすぎたら壊れてしまう。


なんて皮肉なシステム。


「アラタ」


誰もいない部屋で、呟く。


「好き」


演技じゃない、本物の告白。


測定器の数値が、静かに上昇していく。


止められない。


この感情も、この恋も。


たとえそれが、アラタを壊すことになっても——。


(第4話・完)

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