第18話『全部、思い出させてあげる』


 満月が昇る夜。

 黒薔薇学園の時計塔に、二つの影があった。

 

「本当にいいの?」

 

 ルナの問いに、セイは静かに頷いた。

 

「これが、正しい終わり方だ」

「でも……」

「100年前、君も同じことを言った」

 

 セイは優しく微笑む。

 

「『本当にいいの?』って。あの時の僕は、嘘をついた。『忘れないで』と願ってしまった」

「セイ……」

「今度は、本当のことを言う。君に忘れられても、君が幸せならそれでいい」

 

 月光が二人を照らす。

 セイがそっと、ルナの頬に手を添えた。

 

「最後に、これだけは伝えたい」

「なに?」

「君と過ごした時間は、僕の宝物だ。100年待った甲斐があった」

 

 ルナの目に涙が浮かぶ。

 

「私……あなたのこと、何も覚えてないのに」

「それでも、今こうして話せている。それだけで十分だ」

 

 二人の距離が縮まっていく。

 最後の契約のキスが、始まろうとしていた。

 

 その時――

 

「待って」

 

 ルナが、セイの胸を押し返した。

 

「どうした?」

「分からない。でも、何か……」

 

 薔薇時計が激しく脈打っている。

 最後の黒い花びらが、今にも散りそうなほど震えている。

 

「これは……」

 

 セイの顔色が変わった。

 

「まさか――」


 次の瞬間、ルナの体を衝撃が貫いた。

 

「あああああっ!」

 

 頭の中で、何かが弾ける。

 堰を切ったように、記憶が溢れ出してくる。

 

 でも、それはセイとの記憶じゃなかった。


『君といると、世界が輝いて見える』

 

 金髪の少年。天使のような笑顔。

 階段から落ちそうなところを助けた、最初の契約者。

 

「アオイ……!」

 

 名前が口をついて出る。

 顔が見える。声が聞こえる。

 不運の星の下に生まれた彼を救った、あの日の記憶。

 

『ありがとう、ルナ。君は僕の女神だ』

 

 初めての契約のキス。

 震える唇。涙の味。

 そして、忘却の始まり。


『君が忘れても、僕は覚えている』

 

 黒髪の眼鏡の少年。

 几帳面に書き込まれた手帳。

 

「レイジ……」

 

 記憶を失う病に苦しんでいた彼。

 契約で永遠の記憶を手に入れた彼。

 

『だから、僕が君の記憶になる。いつか、誰かが君に伝えてくれるまで』

 

 別れ際に渡された小さなメモ。

 そこに書かれていた言葉を、今やっと理解できる。


 記憶は止まらない。

 次から次へと、失われた想い出が蘇る。


『音は心を超える。君の心に、僕の音楽を刻むよ』

 

 黒沼シュウ。茶髪の物憂げなピアニスト。

 聴覚を失っても、最後まで音楽を諦めなかった人。

 

 彼のために弾いた最後の演奏会。

 涙を流しながら聴いてくれた彼の顔。

 

『ルナ、君の音楽は世界一だ』


『初めて……温かいものに触れた』

 

 白銀リオ。銀髪の氷の少年。

 誰にも触れられなかった彼が、初めて握った手。

 

『君の淹れた紅茶は、魔法みたいだ。心まで温かくなる』

 

 アールグレイの香り。

 震える手で受け取ったティーカップ。

 こぼれ落ちた涙。


「みんな……みんなの顔が……」

 

 ルナは頭を抱えてうずくまった。

 19人分の記憶が、一度に流れ込んでくる。

 

 東雲カナタの危険な微笑み。

 でも、キスの瞬間の震える手。

 

『どうせ忘れるなら、今だけは本気で僕を愛して』

 

 冥堂ユウトの拒絶。

 唯一、契約を拒んだ人。

 

『君は僕を忘れても、僕の想いは君を縛り続ける。それが本当に幸せ?』

 

 夏影ハルの演技。

 嘘ばかりついていた彼の、初めての本物の涙。

 

『ルナ、君といると素直になれる。ありがとう』

 

 霧島レンの透明な存在感。

 雨の中で交わしたキス。

 

『僕を見つけてくれて、ありがとう』


「ナク……!」

 

 そして、一番長く一緒にいた相手の記憶。

 銀髪の美青年。50年前の契約者。

 

『君を守るために、僕は使い魔になる。猫の姿でもいい。君の傍にいられるなら』

 

 満月の夜の、3分間だけの逢瀬。

 いつも心配そうに見守ってくれていた黒猫。

 

 全部、全部思い出した。


「ああっ……みんな……みんな……!」

 

 涙が止まらない。

 19人分の愛が、一度に押し寄せてくる。

 

 みんな、私を愛してくれた。

 そして私も、みんなを愛した。

 

 一人一人、違う形の恋だった。

 でも、全部本物だった。

 

「思い出した……全部、思い出した……」

 

 セイが優しくルナを抱きしめる。

 

「苦しいね」

「みんなのこと……忘れてた……ひどいよ、私……」

「違う」

 

 セイは首を振る。

 

「君は誰も見捨てなかった。全員を幸せにした」

「でも……!」

「忘れても、また恋をした。何度でも、誰かを愛した」

 

 セイの声も震えている。

 

「君は何度も恋をして、何度も泣いて、それでも誰かを愛することをやめなかった」

「セイ……」

「それがどれだけ勇敢か。どれだけ美しいか」

 

 ルナは顔を上げた。

 涙で歪んだ視界に、セイの顔が見える。

 

 彼も、泣いていた。


「どうして記憶が……」

「分からない。でも……」

 

 セイは薔薇時計を見た。

 黒い花びらが、金色に光っている。

 

「もしかしたら、これが本当の契約なのかもしれない」

「本当の契約?」

「君が、すべてを受け入れる契約」

 

 その時、ナクの声が響いた。

 

「その通りだ」

 

 振り返ると、人間の姿のナクが立っていた。

 銀髪が月光に輝いている。

 

「ナク!どうして人間の姿に……」

「契約が、最終段階に入ったから」

 

 ナクは優しく微笑んだ。

 

「ルナ、君は19人全員を愛し、愛された。その記憶を取り戻した今、真の選択ができる」

「真の選択……」

「誰を選ぶか。いや――」

 

 ナクは言葉を切った。

 

「誰と生きるか」


 薔薇時計が、さらに強く光る。

 黒い花びらが、ゆっくりと色を変えていく。

 

 漆黒から、純白へ。

 そして――

 

「これは……」

 

 20枚の花びらすべてが、違う色に染まっていく。

 金色、銀色、青、赤、緑……

 19人プラスセイの色。

 みんなの想いが、一つの花になる。

 

「みんなの愛が、君の中で一つになった」

 

 セイが静かに言う。

 

「もう、忘れることはない」

「本当に……?」

「ああ。君は自由だ」

 

 でも、とセイは続けた。

 

「その代わり、選ばなければならない」

「選ぶ……」

「19人の想いを背負って、誰と未来を歩むか」

 

 ルナは、20色に輝く薔薇時計を見つめた。

 みんなの顔が、鮮明に浮かぶ。

 

 アオイの純粋な愛。

 レイジの一途な想い。

 シュウの音楽に込められた心。

 リオの温もりを求める願い。

 

 みんな、大切。

 みんな、愛おしい。

 

 でも――

 

 ルナは、セイを見つめた。

 100年待ち続けた人。

 すべてを知っていて、それでも愛してくれる人。

 

「私……」

 

 言葉が震える。

 これは、19人を裏切ることになるのか。

 でも、心は決まっていた。

 

 ずっと前から、決まっていた。

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