第4話『ピアノは覚えている』


 昼休み、音楽室の前を通りかかった。


 扉の向こうから、ピアノの音が聞こえてくる。でも、何かおかしい。音がバラバラで、リズムも狂っている。まるで——


「音が、聞こえてない?」


『正解。あれが3人目の候補、黒沼シュウだ』


 ナクが肩に飛び乗ってきた。


『半年前の事故で聴覚を失った。元天才ピアニストの成れの果てさ』


 音楽室のドアをそっと開ける。


 グランドピアノの前に、一人の少年が座っていた。栗色の髪が、窓から差し込む光に照らされている。細い指が鍵盤の上を彷徨うけれど、奏でられる音はただの雑音。


 彼の瞳は、虚ろだった。


「もう、ダメなんだ」


 独り言のように呟いて、鍵盤を両手で叩いた。不協和音が部屋に響く。


「聞こえない。何も聞こえない。俺の音楽は、もう……」


 見ていられなくて、思わず声をかけた。


「あの!」


 彼がこちらを振り返る。一瞬、警戒の色が浮かんだ。


「……誰?」


「綺羅星ルナです。1年生の」


 口の動きを読んでいるらしい。彼は少し考えてから、自嘲的に笑った。


「ああ、転校生か。悪いけど、ここは立ち入り禁止なんだ。特に、音楽が分からない人間には」


「でも、あなたも分からないんでしょう?」


 思わず口走った言葉に、彼の顔色が変わった。


「今、音が」


「……何だって?」


「聞こえてないんですよね? だから、あんなデタラメな演奏」


 彼の拳が震えた。今にも立ち上がって、私を突き飛ばしそうな勢い。


 でも、結局、彼はがっくりと肩を落とした。


「ああ、そうさ。俺にはもう、音なんて聞こえない。半年前から、ずっと無音の世界にいる」


 黒沼シュウ。


 確か、去年まで数々のコンクールで優勝していた天才ピアニスト。でも、交通事故で——


「医者には、もう治らないって言われた」


 彼は鍵盤を優しく撫でた。まるで、恋人に触れるように。


「14年間、ピアノと共に生きてきた。音楽がすべてだった。なのに今は、自分が何を弾いているかも分からない」


 静寂が流れた。


 いや、彼にとっては、いつも静寂なのか。


「最後に」


 私は彼の隣に座った。


「最後に、もう一度だけ弾いてください」


「は?」


「私が聴きます。あなたの最後の演奏を」


 彼は呆れたように私を見た。


「意味ないだろ。俺が弾いても、雑音にしかならない」


「それでも」


 私は彼の手を取った。冷たい手。


「あなたの心には、まだ音楽が残ってる。それを、私に聴かせてください」


『ルナ、まさか……』


 ナクが何か言いかけたけど、私は構わなかった。


 彼の瞳に、何かが宿った。諦めと、最後の希望がない交ぜになったような——


「……『月光』だ」


「え?」


「ベートーヴェンの『月光』。俺が最初に弾けるようになった曲。これを最後に弾く」


 彼は深呼吸をして、鍵盤に手を置いた。


 最初の音が響いた瞬間、分かった。


 彼には聞こえていない。でも、体が覚えている。14年間の記憶が、指に宿っている。


 ただ、それでも音はズレていく。聞こえないから、修正ができない。美しいはずのメロディーが、少しずつ崩れていく。


 彼の頬を、涙が伝った。


 これが、天才の最後の演奏。


 壊れた『月光』が終わりに近づいた時、私は立ち上がった。


「黒沼くん」


 彼が顔を上げる。涙で濡れた顔。


「あなたに、音楽を返してあげる」


 そして——


 契約のキスをした。


 唇が触れた瞬間、左胸の薔薇時計が激しく輝いた。三枚目の花びらが散り、同時に何かが私の中に流れ込んでくる。


 鍵盤の感触。


 楽譜の読み方。


 指の動かし方。


 そして——14年分の、音楽への愛。


「あ……ああ……!」


 彼が震え声を上げた。


「聞こえる……聞こえる! ピアノの音が! 風の音が! 君の声が!」


 彼は狂ったように鍵盤を叩いた。今度は完璧な『月光』。いや、それ以上。感動が、喜びが、音になって溢れ出す。


 美しかった。


 でも、私にはもう、彼が誰だか分からない。


「君は……君は誰なんだ!?」


 演奏を終えた彼が、私を見つめた。


「どうして俺に奇跡を? どうして——」


「さあ?」


 私は首を傾げた。本当に分からない。なぜ私はここにいるんだろう。


「でも、素敵な演奏でした。ピアノ、お上手なんですね」


 彼は何か言いかけて、でも言葉を飲み込んだ。代わりに、深く頭を下げた。


「ありがとう。名前も知らない君だけど、一生忘れない」


 音楽室を出た。


 廊下を歩いていると、急に指がうずいた。


「え?」


 近くにあった音楽準備室に入る。そこには古いアップライトピアノが置かれていた。


 吸い寄せられるように、ピアノの前に座る。


 指が、勝手に動き出した。


「ちょ、ちょっと!?」


 聞いたこともない曲なのに、指は正確に鍵盤を叩いていく。ショパンの『革命』。超絶技巧が必要な難曲を、私の指は易々と弾きこなしていく。


「な、なんで!? 私、ピアノなんて弾けないのに!」


『契約の副作用だね』


 ナクが呆れたように言った。


『心が技術を覚えちゃったんだ。14年分のピアノの記憶が、君の体に宿ってる』


「ええええ!?」


 でも、指は止まらない。次から次へと、知らない曲を弾き続ける。


「や、やめて! 指が勝手に——!」


 バタン!


 音楽準備室のドアが開いた。


「何この音!? 誰か超絶うまい人が——ルナちゃん!?」


 アオイくんだった。目を丸くして、私を見つめている。


「ア、アオイくん! 助けて! 指が勝手に!」


「は!?」


「ピアノが止まらないの!」


 必死に指を止めようとするけど、まるで別の意志を持っているかのように動き続ける。今度はリストの『ラ・カンパネラ』。


「ルナちゃん、ピアノ弾けたの!?」


「弾けない! 弾けないのに弾いちゃうの!」


「意味分かんない!」


 騒ぎを聞きつけて、生徒たちが集まってきた。


「すげー! 誰?」


「転校生じゃない?」


「マジかよ、プロ級!」


 恥ずかしい。穴があったら入りたい。


 でも、指は私の意志を無視して、華麗な演奏を続ける。


「ナク! どうにかして!」


『無理だね。しばらくは我慢するしかない』


「しばらくって!?」


『まあ、2〜3時間かな』


「そんなに!?」


 結局、1時間半もピアノを弾き続けた。


 指が止まった時には、音楽準備室は野次馬でいっぱいだった。


「ブラボー!」


「アンコール!」


「サインください!」


 逃げるように音楽準備室を飛び出す。


 アオイくんが追いかけてきた。


「ルナちゃん、すごかったよ! まるでプロみたい!」


「違うの! あれは私じゃなくて……」


 説明できない。契約のことも、記憶のことも。


「とにかく、誰にも言わないで!」


「え〜、もったいない」


「お願い!」


 必死に頼むと、アオイくんは苦笑しながら頷いた。


「分かった。ルナちゃんがそう言うなら」


 よかった。これ以上騒ぎになったら——


「綺羅星さん!」


 音楽の先生が廊下の向こうから走ってきた。


「今の演奏、素晴らしかった! ぜひ音楽部に! いや、今度のコンクールに出てほしい!」


「い、いえ、私は……」


「遠慮しないで! あの技術、天才だよ!」


 逃げた。


 全力で逃げた。


 でも、音楽の才能が私にあることは、学校中に知れ渡ってしまった。


 放課後、屋上に避難していると、ナクが笑いながら言った。


「災難だったね〜」


「笑い事じゃない!」


「でも、彼は救われた。音楽を取り戻して、また夢に向かって歩き出せる」


 そうか。


 あの栗色の髪の少年——名前は思い出せないけど——は、きっと幸せになれたんだ。


 それなら、いいか。


「でも、もう勘弁して。これ以上特技が増えたら、私どうなっちゃうの」


『大丈夫。全員が特技を持ってるわけじゃない』


「そうなの?」


『次の4人目は——』


 ナクが校舎を見下ろした。


『ほら、あそこ』


 中庭のベンチに、一人の少年が座っていた。


 銀色の髪に、氷のような瞳。


 周りには誰もいない。まるで、目に見えない壁があるかのように、生徒たちは彼を避けて通る。


『白銀リオ。触れることができない少年』


「触れることができない?」


『彼の体温は常人より低い。触れた相手は凍傷を負う。だから、誰も彼に近づけない』


 なんて孤独な——


 その時、私の指がまたうずいた。


「ま、また!?」


 今度は、エアピアノを始めてしまった。宙に向かって指を動かす私。


「うわ、恥ずかしい!」


『まだ残ってたか。我慢しなよ』


「むーりー!」


 必死に手を押さえながら、私は屋上を後にした。


 明日は、どんな出会いが待っているんだろう。


 でも、一つだけ確かなことがある。


 私は誰かを幸せにして、その人のことを忘れる。


 薔薇時計は、静かに時を刻み続けていた。

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