第3話 霧の中のチューリップ

車が進むにつれ、霧は濃くなっていった。木々が首を傾げるように道路側に傾いていた。まるで通り過ぎる者たちを数えているかのように。メアリーは窓ガラスについた水滴の向こうに、小さな赤い点が漂っているのに気づいた。点は微かに脈打つように瞬き、霧の中で揺れていた。生きている。確かに生きている。


「あれ…赤い点が浮いてる」


彼女は窓を少し開けた。湿った空気が頬を撫で、空気に焦げたような金属臭が混じり、鼻を刺した。風が耳打ちしてくる。聞き取れない言葉で、警告を囁き続ける。


「土の香りじゃない…焦げた金属の臭いだわ」


指先が震え、窓を慌てて閉めた。その匂いに、理由の分からない不快感が募った。匂いが、紫色をしていた。


ティムも同じ匂いを察知していた。


「何だこの霧…」


眉をひそめた。霧の奥で、何かが蠢いている。


アールが窓に顔を押し付け、急に身を乗り出した。


「霧の中に何かある!赤い光、見える?」


タブレットを手に霧の動きを録画し始めた。指がタブレット上で滑り、何度も撮影ボタンを押し損ねた。画面に映る霧が、一瞬、顔のような形を作る。


ヴァージニアは身を縮め、スケッチブックをきつく握りしめた。


「見えるよ…気持ち悪い」


「生きてる壁」


小さく囁いた。


鉛筆が紙の上で立ち止まり、手が小刻みに震えた。目を閉じて深呼吸し、再び鉛筆を動かし始めた。線が交差し、渦を描いた。描いているうちに、なぜか花のような形が現れ始めた。チューリップ。赤いチューリップが、霧の中で咲いている。


ジュディがウーちゃんを強く抱きしめ、顔を埋めた。


「怖いよぅ…」


泣きそうな声で言った。


「あの人たち、最初から死んでたのかな」


誰に向けてでもなく、ジュディが呟いた。車内の誰も、その言葉の意味を理解できなかった。


突然、ラジオから雑音混じりの声が流れてきた。


「…ウェイド・インダストリーズの浄化実験に関連し、本日未明に南部地域で異常な霧が…」


メアリーとティムは驚いて顔を見合わせた。視線が交錯し、同じ不安を共有する。


「浄化実験?」


「…ナノマシンの誤作動が疑われ…屋内待機を…」


ティムがダイヤルを叩く。


「また電波が…」


アールが身を乗り出し、叫んだ。


「誤作動って何!?」


メアリーが息子を落ち着かせようと振り返った。手を伸ばしかけて、途中で止める。触れることが、恐怖を認めることになるような気がして。


「小さな機械が制御できなくなったの」


声が震えた。


霧が濃くなり、ヘッドライトの光が白い壁に跳ね返る。赤い点が増え、群れをなして微かな音を立てていた。無数の小さな歯車が回るような、あるいは微細な針が金属を擦るような不気味な音だった。赤い光が、鉄の味がした。


ヴァージニアが膝の上のスケッチブックに顔を近づけ、鉛筆を走らせながら声を震わせた。


「怖いよ、パパ」


スケッチブックには、いくつもの小さな赤い点が描かれていた。それらは単なる点ではなく、何か生きているかのような動きを持って描かれていた。点と点が繋がり、大きな花の形を作っている。


ティムが深くため息をつき、両手でハンドルをきつく握った。


「ただの光だろ」


掌が汗で湿っていた。嘘だと、自分でも分かっている。


「いや…この霧、生きてるみたいだ」


メアリーは夫の不安を感じ取り、息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。


「深呼吸して」


自分に言い聞かせるように。でも、息を吸うたびに、金属の味が喉に広がる。


アクセルを踏むとエンジンが唸り、タイヤが濡れた路面を擦った。遠くでカエルの鳴き声が一瞬聞こえては消え、アールが顔を上げた。


「カエル だ」


代わりに、低い震動が地面から伝わり、全員の体を震わせた。軽い地震のようでもあり、同時に何か大きなものが進む足音のようでもあった。大地が呼吸している。


「ティム、もっとゆっくり!」


メアリーは声を上げ、子供たちに目をやった。


「何か来るわ」


囁き、ティムの肩に手を置いた。その手が、氷のように冷たい。


ティムはメアリーの手の温もりを感じ、速度を落とした。でも、手の冷たさが心に刺さる。


「分かった。俺が何とかする」


ハンドルをしっかりと握り、徐々にスピードを落としながら霧の中を慎重に進んだ。メアリーは後ろを振り返り、子供たちに微笑みかけた。


「大丈夫よ、みんな。お父さんがいるから」


ヴァージニアとジュディは少し安心した様子で頷いた。アールの目は霧の中の赤い光を捉えたまま離れなかった。データを記録する、という使命感に取り憑かれたように。


「ママ…あれ、ナノマシン?雑誌に書いてあったけど、こんなの想像してなかった」


メアリーは答えを持っていなかった。ただ、アールの問いが、恐ろしく正確な予感のように思えた。


「何があっても、家族は一緒よ」


強く言った。静かに、首元のペンダントに触れた。金属の冷たさが、今は少し温かく感じられる。


ティムは前方の霧に目を凝らした。霧の向こうで揺らめく赤い光に、すべての家族が不安の目を向けていた。


「あのときの光……ほんとうに、しゃべってたのかも」


ヴァージニアが、誰にも聞こえないように呟いた。スケッチブックの中で、赤いチューリップが不気味に咲き誇っていた。

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