第十三話 最初(はじまり)の仮面

朝、事務所に集まった三人の表情は、どこか緊張の色を帯びていた。

学園祭のステージから一日が経過したが、あの熱気と緊張、そして背中を押してくれた“あの人”の存在は、まだ彼女たちの胸の奥に静かに残っていた。

氷堂ユイの言葉──厳しくも温かいその励ましは、確かに彼女たちの背を押した。


それでも、今日の空気はどこか違う。

葛西が「会わせたい人がいる」とだけ告げた日から、三人の間には奇妙な期待と不安が漂っていた。


「プロデューサーさん、今日って結局誰に会うんですか?」


梓がそう口にしたのは、三人が待機室のソファに腰かけてからしばらく経った頃だった。

「昨日からずっと気になってるんだけど……」

七海も静かに頷く。紗良は目を伏せたまま、モノクルを指先でなぞっていた。

「落ち着け。もうすぐ来る」

葛西はそう言って、小さなテーブルの上に三つ並べた紙コップのコーヒーを差し出した。


「リハでもレッスンでもない。けど、今日の事はたぶん、お前たちの今後を決める一日になるかもしれない」

「決める、って?」

梓の声がわずかに揺れる。

葛西は返答せず、背後の小型冷蔵庫から水を取り出すと、一口だけ飲んだ。

部屋の空調音だけが、無音のような空間に響く。


コン、コン──


ノックの音が部屋の空気を裂いた。

ドアが静かに開き、黒いキャップにマスクを着けた人物が姿を見せたのである。

一歩、また一歩と室内に入ってくるその歩みには、『ステージに立つ者』の癖が滲んでいる。

背筋は自然に伸び、視線の使い方にさえ『魅せる』意識があった。だが、表情はマスクに隠され、声も発さない。

辛うじて、キャップから伸びる長い髪で、女性なのだと分かる。

葛西がその女性に小さく頷いた。

「彼女が、今日お前達に会わせたい人だ」

沈黙が落ちる。

見知らぬ女性に、三人は視線を交わし合い、徐々に立ち上がった。

「こんにちは……?」

梓が、恐る恐る声をかける。

女性は一瞬だけ息を吸い、キャップとマスクをゆっくりと外した。


その瞬間、空気が変わった。


七海が目を見開き、紗良がモノクル越しに視線を動かし、梓が息を呑んだ。


その顔は──


「……え?」

「うそ……」

「……っ」

誰もが、言葉を失った。

目の前に立っていたのは、彼女たちが憧れていた伝説のアイドル。

そう。

Mio♪だった。

いや、かつてMio♪と呼ばれていた女性、と言うべきか。

しかし。あの目、あの声、あの存在感は、記憶の中の映像そのままだった。

かつて画面越しにしか見ることができなかった存在が、いま、目の前に立っている。

「こんにちは。九重ここのえ しずくです。あなた達が感じている通り……」

Mio♪は、ほんのりと微笑んだ。


「むかし、『Mio♪』って芸名で、アイドルをしていました」


言葉にならない沈黙が、空気を包む。


憧れ。

尊敬。

理想。


すべての言葉が、この人に結集していた。何千回も映像を再生し、何百回もステージを夢に見た。今、自分たちの目の前に、あのMio♪がいる。


最初に動いたのは、梓だった。

「……私、ずっと……あなたの歌に、救われてきました」

震える声。目は潤み、手は胸元でぎゅっと握られている。

「この世界に入ってみたいって思ったのも……Mio♪さんみたいになりたいって思ったからで……!」

Mio♪は何も言わず、ただ静かに頷く。


「わたしも……」

七海が口を開く。

「ステージが、ずっと怖かった。でも、あなたが笑ってる姿見て、ああ、こんな風に輝けたら、って……!」


紗良も視線を上げる。

その眼差しは、冷静さを纏いながらも、芯に確かな熱を秘めていた。

「私も……最初はあなたのこと、ただの偶像としてしか見てなかった。でも、あなたのステージには、音を超えた何かがあるって……そう思わされた。私の祖父が求めていた真理に、あなたは近づいていたんだと……思う」


その言葉に、Mio♪の目が一瞬だけ揺れた。


葛西が壁にもたれ、腕を組んだままその光景を静かに見ていた。

彼の表情には、安堵と、わずかな誇らしさが浮かんでいた。


Mio♪が、そっと口を開く。

「ありがとう。そんなふうに思ってくれてたなんて、知らなかった」

「でも……どうして今、私たちの前に?」

梓の問いに、Mio♪は一歩、三人に近づいた。

「……あなた達のステージを観たの」

その言葉に、三人の身体がぴくりと反応する。

「あの、小さなステージ。観客も少なかった。けれど……そこには、かつての私と同じ光があった」

Mio♪の声は、どこまでも柔らかく、けれど、芯があった。

「あなた達のような子がいるなら──きっと、私は夢を託せる。そう思ったの。ね? さとちゃん」

葛西は少しだけ口元を緩めて頷いた。


「こいつらを見てやってくれ。こいつらの『本物』を。君がかつて目指した夢は、ちゃんと今に繋がってるんだって、証明する為に」

Mio♪が笑う。その笑顔は、どこか懐かしく、母のように優しい。

「あなた達はきっと、誰かの憧れになれる。だけど、焦らなくていい。道は一つじゃない。迷っても、止まっても、また進めばいいからね」

言葉が、三人の胸の奥に染み渡っていく。


「あ、あの」


その時、七海が口を開いた。

不安そうな、壊れそうな表情をしながら。

「ずっと気になってた事があるんです。もし、差し支えなければでいいんですけど、教えてくれませんか?」

それは恐らくMio♪も、葛西も、『避けては通れない』と予想していた事だった。

「はい。何でしょう」

微笑みながら、彼女は聞き返す。


「どうして、あんな形で……引退したんですか?」


葛西はMio♪の方を見て、重々しくも静かに頷いた。

Mio♪も……九重雫もまた、一呼吸おいて、

「それじゃあ、昔話を、しましょうね」

少しだけ目を伏せた。


※ ※ ※


今から十年程前。

日本の芸能界に彗星の如く現れたその少女は、歌えばデビューシングル売上100万枚達成、演じれば興行収入数十億。

当時の日本のレコードが、いくつも彼女一人によって更新され、芸能界に爪痕が残った。


「みんなーっ! ありがとーっ!」


ライブで手を振れば、割れんばかりの歓声。

彼女もまた、太陽のように輝く笑顔を返し、会場は瞬く間にヒートアップした。


その少女の名は『佐倉さくら しずく』。

本名から少し膨らませて芸名を『Mio♪』とし、彼女は一躍お茶の間の話題となった。

そしてその影には常に、彼女を支え、プロデュースする、一人の男の姿があった。


「雫! お疲れ。今日もすごく良かったぞ!」

「プロデューサー。楽屋では『Mio♪』って呼んでっていつも言ってるでしょー?」

「あぁ、悪い悪い」

彼の名は『九重ここのえ 聡史さとし』。Mio♪のプロデューサーである。

齢二十代半ばといった若さ溢れる男だったが、スターを育成するその手腕は本物だった。

彼がいたからこそ、Mio♪は売れたともいえる。

「一ヶ月後には武道館ライブも控えてる。これが成功すれば、お前もトップアイドルの仲間入りだな」

「ここまで来れたのも、プロデューサーのおかげだよ。ありがとね」

二人は固い絆で結ばれ、もうじき頂点の存在となる……そんな予定だった。


が、「それ」は唐突に発覚した。


武道館ライブに向けての練習中。

雫が、糸の切れた人形みたいに、ステージ上で倒れた。

「……Mio♪? ……お、おい! 雫っ!」

病院に搬送された彼女と九重に、現実は絶望を突きつけた。


「先天性……心疾患……っ⁉︎」


そう。彼女は病魔に蝕まれていたのだ。

何故このタイミングで、と思わずにはいられなかった。

病院から届いた検査結果。手術の予定日。医師の説明書。

九重はそれらが整然とファイルに纏められているのを、無言で見ていた。


「……歌えなくなる、んだって」

雫の声は、震えていた。泣いていない。けれど、泣くよりも苦しそうな声だった。

「社長が引退会見の話、進めてるって。事務所も、もう知ってる」

「……勝手に話を進めんなよ」

「この手術を受ければ、命は助かる。でも、私はもうステージには、立てないって」

「おい、待てよ。何か方法がある筈だろ? セカンドオピニオンは? 他の医者は何て──」

「何人も回ったの。でも同じ。私は……アイドルとしては、もう終わりなの」

「こんなの、ありなのかよ……神様……っ!」


九重は膝に手を置き、無意識に力を込めるしかなかった。

目の前にいるのは、自分がデビューから育て、ここまで導いてきた存在。

Mio♪は、ただのアイドルではなかった。


(俺の、人生そのものだった)


雫はそれでも、微笑んだ。

「私はさ、全部覚悟してるよ。でも、あなたは……どうするの?」

その問いに、九重は言葉を詰まらせた。

「プロデューサーとして、次の子を育てるの? それとも──」

「今は、考えられない……」


ようやく絞り出したその言葉に、雫はほんの少し目を見開いた。

「だったら。一緒にいよう」

その言葉に九重は、ついに視線を落とした。

彼女を選ぶということは、プロデューサーとしての責任から逃げること。

でも、彼女を一人にする方が、よっぽど無責任だった。そう思った。


「いいのか?」

「うん。私ね、プロデューサーの事──」


その夜、二人はそっと手を取り合った。


数日後、Mio♪は姿を消すように引退した。

予定された記者会見はなく、雑誌記者に追われ、僅かに撮られたツーショット写真がゴシップ誌に載った。


【担当プロデューサーとの駆け落ちか】

【熱狂的ファンを裏切った終幕】


そんな見出しの記事が、ゴシップとは思えない速度で広まる。

影響は大きく、一度などMio♪の元ファンから刺されそうになった事もあった。

それから九重は髪型を変え、帽子を深く被り、眼鏡仮面をかけて外出した。

婚姻届を出した後、最初の数ヶ月はずっと隠居生活だった。

自責から当時の事務所も辞めて、地方へと引越しもした。

そして雫の手術が終わった後は、彼女のケアに全力を注いだ。

一緒に料理をしたり、本を読んだり、ごく普通の『人としての生活』を大切にした。


数年後。

雫は「もう一度何かを作ってみたい」と言った。

だが彼女はもう、芸能活動は出来ない。

九重は雫の為、動画編集や作詞・作曲の勉強を始め、雫が匿名で参加出来そうな創作活動を支えた。

小規模だが、映像作品やショートMVを作り始めた。勿論、匿名で。

そうやって日銭稼ぎがてら、裏方として腕を磨き続けた。

そして二人は、過去の芸能界活動にて『やり残し』があった事を思い出した。


『トップアイドル』を育てる。


夢は、雫と……Mio♪と共に終わったんだと思っていた。

だが違った。九重の心の火種は、まだ燃え尽きていなかったのだ。

雫も、「そうだよ。私達にはまだ、叶えてない夢があるじゃない」と背中を押してくれた。


そして、今から一年前。

匿名で幾つかの若手アイドルのサポートを請け負う……そんな事を始めた。

小さな事務所に知人の紹介で入り、その頃から定めた仮名『葛西智』の名で企画・構成・音楽のディレクション業を始めた。

その中で、過去に世話になったポラリスプロの社長……西園寺秀嗣と偶然再会した。

昔から九重を……葛西を買っていた西園寺は、彼の正体を知った上で「ウチに来い」と彼を誘った。

葛西はそれを了承し、ポラリスプロで仕事をする事を決意した。

ただし当面は、影ながらアイドルを支える裏方として……。


※ ※ ※


重い沈黙が、部屋の隅々まで染み込んでいた。

先ほどまで落ち着いて話していた雫の口が静かに閉じられ、三人の少女たちはその場に立ち尽くしていた。

空調の低い音だけが、妙に耳に残る。

真っ先に言葉を発したのは七海だった。


「え、ええと……け、け、結婚、してたの……!?」


顔を真っ赤にしながら目をぱちくりとさせて、雫と葛西を交互に見る。

その言葉に、梓が反応するより早く、紗良が無表情のままぽつりと呟いた。

「つまり私達よりも先に『仮面』を被ってたって事なのね。名前も経歴も偽って。私達に眼鏡を勧めたのも、自分の経験則って訳か」

葛西の眉が僅かに動いた。だが、否定はしない。

「葛西智って、本名じゃなかったんですね」

梓が低く、でもどこか優しい声で言う。

彼女の手は軽く震えていたが、その眼差しには非難ではなく──混乱と、納得の色が混じっていた。

雫が少しだけ寂しげな笑みを浮かべて首を振る。

「嘘吐きって言われたら、そうなんだと思う。でもあの時名前を変えなかったら、この人は自分を守れなかった」

自分達に眼鏡を選ばせた理由。

ようやく、全てが一本の線になって結びついていく。


「俺の事は……ずっと秘密にするつもりだったよ」


葛西は眼鏡を外し、丁寧に畳んだ。

見慣れない、素の顔。

皺の数も、疲れたような目の奥も、少しだけ見慣れたそれとは違う気がした。

「でも、お前達がMio♪を目指してるって言った時、心のどこかでずっと迷ってた。──いつか、全部話すべきなんじゃないかってな」

彼はそのまま、静かに三人を見渡す。

「それが……今、だと思った」

しばしの沈黙のあと、ぽたり、と音がした。

視線を向けると、七海の大きな瞳から涙が溢れていた。

「わたし……わたし、昔からずっとMio♪さんのことが憧れで……でも、画面の中から急にいなくなって、何が起きたのか分からなくて……」

言葉にならない想いが溢れ、七海は口元を手で覆う。

その隣で、梓は小さく鼻をすする音をさせながらも、ゆっくりと頷いた。

「寂しかったんだよ。ファンとしても……憧れてた子供としても。でも、Mio♪さんが幸せだったなら、きっと……私、嬉しいって思わなきゃいけないのかもしれない」

「うん。……ありがとう、梓ちゃん」

雫が微笑む。


一方、紗良は黙っていた。

腕を組んだまま、ただ葛西を見つめ続ける。

「一つ聞かせて。あなたは今、“プロデューサー”を名乗ってるけど──」

その声に葛西が静かに目を向ける。

「その理由は、奥さんに言われたからって、言ってたよね。本当にそれだけ? あなた自身は、本気で私たちをトップにしようと思ってる?」


葛西の答えは、即答だった。


「ああ、思ってる。雫に言われたからってだけじゃない。今はもう、俺自身の夢でもあるからな」

その瞬間、紗良の口元がかすかに緩んだ。

「そう。それなら、納得」

場の空気が、ほんの少しだけ和らいだ。

七海が目元を拭い、梓が深呼吸し、三人はゆっくりと雫と葛西を見つめる。


「正直、驚いたし……ちょっと悔しいけど」

梓が少しだけ笑う。

「でも、そういう人が、私達の背中を押してくれてたって思えば……ちょっとだけ、誇らしいかも」

「わたし、もっとがんばる! Mio♪さんみたいなアイドルになれるように!」

七海が力強く言う。

「ま、もう隠しごとはナシだからね、プロデューサー」

紗良は肩をすくめながら言った。


「──ああ、分かってる」


葛西は三人に向き直り、笑った。

それは雫と……Mio♪と共にいた頃と同じ──仮面のない、素顔の笑顔だった。

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