第11話 誘惑

 夜の十一時──。

 普段なら、とっくにベッドで爆睡してる時間だ。

 けど今夜の藤堂剛は、机にかじりついていた。手元には数学の教科書と南が配った鬼のようなプリント。脳はすでに死にかけていた。


「はあ……っつれぇ……」


 練習は短縮されて楽だった。身体はまだ元気だ。

 でもその分、“南講師”によるスパルタ勉強会が脳にダメージを残した。

 数学、英語、古文……どれもこいつも記号と呪文のオンパレード。


「……寝たい……でも……ダメだ……」


 ガシガシと目をこすりながら、数式とにらめっこする。

 苦手な数学は完全放棄してた教科だ。

 授業中寝ても注意することもない先生だったことをいいことに、数学の授業は睡眠時間と割り切り、ずっと寝ていた。解けるはずがない。


 5分もしないうちにシャーペンを投げ出し、ベッドにダイブ。


「無理。つか、意味わかんねーよ対数ってなんだよ……」


 そのまま眠りに落ちそうになった、その瞬間──スマホが震えた。


(……誰だよ、こんな時間に)


 LINEを開くと、野球部グループが騒がしく動いていた。


『今日、初めて1時間も勉強したわ』

『英単語、完ぺき!』

『古文、マジでエロい。これ授業でやるの合法なん?』


「はあ!? なんでお前ら、そんなやる気あんだよ!」


 画面を見ているうちに、じわじわと焦りが込み上げてくる。

 このままだと、南とデートするのはアイツらだ。


「……ない、ないって……アイツらに南が渡るとか、マジで……」


 冗談のつもりだった。最初は。

 でも脳内で──南が誰かと楽しそうに笑ってる姿が浮かぶ。

 コンビニで買ってきた肉まんを、南が半分に分けて「どうぞ」と差し出し、嬉しそうに受け取る榊原。


「そんなの許さん!」


 寝かけてたくせに、一気に眠気が吹っ飛ぶ。

 藤堂はベッドを抜け出し、再び机へと戻った。


 鉛のように重いまぶたをこじ開けて、数式と再戦。

 一問、なんとか正解できたそのとき──


 ふと、胸の奥からふきあがる“モヤモヤ”に気づいた。


(……なんで、こんな……)


 ただのデート。クリスマス。

 それだけのことで、なんでこんなに気が立つ? なんでこんなに、ムカつく?


(まさか、俺……南に……)


 そこまで考えて、藤堂は思わず首を振った。

 可愛いのは確かだが、中身は男だぞ。

 それなのに、なんでこんな……


(……いや、ただの独占欲だ。そう、きっとそう。アイツが他の奴と仲良くしてるのが、ムカつくだけ)


 無理やり、そう結論づけた。

 でも手にしたシャーペンは、微かに震えていた。


◇ ◇ ◇


 日曜日。

 明日から始まる期末テストに備えて、部の練習はお休み。

 藤堂剛はというと──普段は放置している自分の部屋を、朝からせっせと掃除していた。


 机の上から床まで徹底的に片付けて、リビングからローテーブルを運び込む。クッションを置いて、即席の勉強スペースが完成。


「……よし、これで完璧」


 深く息を吐いた、その瞬間──

 ピンポーン♪


「っは!? やっべ……もう来たっ!?」


 まるで心臓を直撃するかのようなチャイムの音に、飛び上がる。

 慌てて階段を駆け下りて、玄関のドアを開けると──


「こんにちはっ」


 そこには、いつもよりほんの少しだけ大人びた雰囲気の南が立っていた。

 ポニーテールじゃなくて、今日はハーフアップ。

 柔らかな光に包まれた笑顔に、一瞬、言葉を失った。


「お、おう……」


 何気ない風を装って返すけど、心臓の鼓動は完全にバグってる。

 いつもと違う。見慣れてるはずの顔なのに──なんだ、この破壊力は。


「まあ! 南くん、いらっしゃい。ほんっと、可愛いわね~。剛、あんたも見習いなさいよ」


 いつの間にか背後から母が出現し、テンションMAXで声をかける。

 南は「おじゃまします」と小さく頭を下げ、靴を脱ぐと丁寧に並べていた。


(……おいおい、なんでうちの親までそんなテンション高いんだよ)


「ほら、行こう。2階」


 母のニヤけ顔を感じながら、そっと南の背中を押して階段を上がる。

 部屋に入ると、南はさらりとコートを脱いだ。


 キャミソールワンピに、白のブラウスを重ねた清楚系コーデ。

 前みたいなフリフリ系の可愛さじゃなく、今日はどちらかというときれい寄り。

 これはこれで、良い。


(って……いやいやいやいや、何考えてんだ俺!?)


 女子力の高さとか、服の系統とか、そういうのにときめいてる自分がいる。

 

 南はふわりとクッションを手に取ると、躊躇なく二つ並べて座った──向かい合わせではなく、隣に。


「……なんで隣なんだよ」

「んー? こっちの方が教えやすいでしょ?」


 甘えた声。ほんのりと鼻をくすぐるいい匂い。

 シャンプー? 香水? それとも、柔軟剤か何かか?

 どれでもいい。いや、よくない。むしろ全部やばい。


(落ち着け……これはただの勉強会。至って健全な──)


 藤堂の内心をよそに、南はすでに教科書を広げていた。


「で、どのへんが分からないの?」

「あ、ああ、ここ。例題のこの辺り」


 指差す先を確認した南は、すっとシャーペンを取り、さらさらとノートに式を書き始めた。


「これはね、超基本。まずテストに出るやつだよー」


 スラスラと流れるような手の動きに、藤堂はただ見とれるばかり。


「ここ、底の変換公式を使えば簡単に解けるの。授業でやったでしょ?」


 ちょっとお姉さんモードの口調で窘められ、ぐうの音も出ない。


「……悪い。数学の時間、だいたいついていけなくて、寝てた」

「ダメだよ、剛。野球だけが人生じゃないんだから」


 にこっと微笑むその顔に、なぜか胸の奥がチクリと痛む。

 やめろ。お姉さんっぽく諭されるの、変にくる。


「……ごめん」


 照れ隠しに頭をかいて、なんとか数式と向き合う。

 言われた通りに公式を当てはめてみると──


「お、なんだ。わかっちゃえば簡単だな」

「でしょ? 赤点回避くらいなら、公式暗記だけでもギリいけるって」

「そういや南、お前って中学のとき勉強そんなできなかったよな? 俺と同じで“野球命”って感じで」

「うん、そうだったよ。東北育英中退してからしばらく引きこもってたし、その間ヒマだったから、ずーっと家で勉強してたの」


 そう言って、南は鼻を鳴らしながら伊達メガネをクイッと持ち上げた。


(……なにその仕草。きゅん、ってなるの、やめろや)


 あざとすぎる。でも、やられてる自分がいるのが悔しい。


「……なあ、前から気になってたんだけどさ」

「ん?」

「南って……男と女、どっちが好きなんだ?」


 一拍、間が空いた。

 問いを投げた自分に驚きながらも、藤堂は南の横顔をじっと見つめていた。


「うーん……わかんないや」


 ぽつりと返されたその言葉は、あまりにあっさりしていた。

 でもそのあと、南はふっと優しく笑った。


 その笑顔に、藤堂は言いようのない安堵と、もどかしさを同時に抱いてしまう。


(なんだよ、この気持ち……)


 友情じゃない。けど、それ以上って認めるのも怖い。

 南は可愛い。でも、男だ。

 それなのに──


 心臓の音が、南の香りと一緒に胸を揺らしていた。

 ──この気持ちは、友情だけで片づけられるものじゃない。

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