第42話 愛別離苦
事故の後。退院した僕を迎えに来てくれたのは、蓮くんだった。
病院をひとりで後にし抜け殻のようにふらふらと歩いていれば、正面から走ってくる蓮くんの姿があった。
「紫翠さん!」
「……れん、くん?」
「よかった、入れ違いにならないで」
どうして……雅じゃないの?
蓮くんが話している言葉は何も理解できなくて、まるで水の中にいるような感覚がした。
「れんくん。みやびが、死んじゃったのは、ほんと?」
「……はい」
雅がこの世にいないなら、もう何もかもがどうでもいい。
「そっか……」
このまま、どこかで僕も死んでしまおう。
どこが、いいかな。 どこなら、すぐに雅のところに行けるかな。
僕はあてもなく、歩き始める。
「紫翠さん?」
ぱしっと、手首を温かいものに包まれた。
「待って、どこ行くんですか」
「はなして……」
「嫌です。今、紫翠さんの離したら手の届かないところに行っちゃうよね」
「はなしてよ、ぼくもみやびのところに行くの」
お願いだから、離して。抵抗することすらも面倒だけど、はやく楽にさせてほしい。
「紫翠さーん」
夕ちゃんの声も聞こえて、気付いた時にはその小さな手に掴まっていた。
「紫翠さん、とりあえず私たちと一緒に帰ろ?」
「……うん」
夕ちゃんは僕と手を繋ぎ、蓮くんは荷物を持ってくれた。
本当にもう、雅はいないのか。
こんな時、絶対一番に来てくれる僕の愛する人には会えないのか。
近くに停めてあったであろう車に言われるがま乗せられて、蓮くんの運転で自宅まで送ってくれるという。
「みやびはいま、どこにいるの?」
隣に座った夕ちゃんに、ぽそっと聞く。
「家にいるよ。会っていく?」
その
「……うん」
そう言って連れて行ってもらった、雅の実家。
全部が盛大なドッキリで、本当はそこにいたりはしないだろうか。
僕は最後まで、悪足掻きを繰り返す。
いつもは違う意味でしていた緊張と違うものが全身を駆け巡り、背中を汗が伝う。
リビングへと繋がる扉を開けて、入ることを促される。
足を踏み入れた先に見えた光景は、僕に現実を突きつけ絶望の淵に叩き落した。
そこには白い箱が、置いてあった。
父さんの時もおばあちゃんの時にも見た、あの小さな箱。
僕は膝から崩れ落ちた。目の前が涙で滲んで、大量の花びらが続々と散らばっていく。
耳がぐわんぐわん鳴って体は平衡感覚を失い、僕は床に額を擦り付けるようにして、花の涙を溢し続けそのままそこで記憶は途切れた。
ふと意識が浮き上がるのを感じ、僕は目を開けた。
見慣れない天井が見えて、ゆっくりと体を起こし辺りを見渡す。
窓の外は燃えるような赤に、薄く紫が溶け込み始めていた。
パサっと音を立てて、掛けられていたブランケットが落ちる。
どうやらソファに寝かされていたようで、そばに置いてあるテーブルに蓮くんがこちらに体を向け突っ伏していて、その少し横の所には夕ちゃんの姿も見える。
どちらのものともわからない、規則正しい寝息が重なって聞こえ、二人共が眠っていることがわかる。
毛足の長い柔らかいラグの上に横たわっている夕ちゃんにはブランケットが掛けられていて、恐らく蓮くんが掛けてあげたのだろう。
夕日に照らされた蓮くんの目元には先ほどは気付かなかったが、隈が濃く刻まれていた。
夕ちゃんも蓮くんも、僕にとても優しくしてくれる。
だけど冷静に考えれば、二人も雅がいなくなった傷は治っていないはずだ。
なのに、なんで僕なんかに心を分けてくれるのだろうか。
僕はこの現状を受け止めようとすることに精一杯で、周りのことなんて考えてられないのに。
なんで――。
ふと見えた蓮くんの背後にあるテレビには電源が入っておらず、真っ黒な画面が広がっている。
そこには、窶れた表情をした自分が映っていた。
骨箱に入った姿を見やる。
静かに立ち上がって、そばに近付いてふれた。
そこには温度なんてなくて、ひやりと冷たかった。
ついこの間まで僕に笑いかけてくれた優しい表情も、僕の名前を呼ぶ声も、温かい体温も。
そのすべてが、この世のどこにも存在していなくて。
ただ、茫然とその場に立ち尽くす。
「……紫翠、さん?」
「ぼく、帰るね」
家へ帰れば、もしかしたら雅が出迎えてくれるかもしれない。
こんなのは全部嘘で、熱が出たときみたいに悪夢に魘されているのかもしれない。
またあの優しい声で、起こしてくれるかもしれない。
だから、はやく家に帰ろう。
「ちょっと待って、紫翠さん」
「ありがとう、蓮くん。僕はもう、大丈夫だから。夕ちゃんにもお礼を伝えておいて下さい」
僕は逃げるように家を飛び出したが、靴を履いて立ち上がった瞬間。
酷い立ち眩みに襲われ倒れそうになった僕を、蓮くんは咄嗟に受け止めてくれた。
だけど、その温度も匂いも全てが当たり前だけど、雅のものではなくて。
「いやっ……はなして」
蓮くんは、僕を助けてくれた。そう頭では分かってるのに、雅じゃないことへの違和感に体が勝手に拒絶反応を起こす。
「紫翠さん……」
「ごめんなさい、蓮くん……」
「いえ、あの……車で送ります。まだ体調も万全でないと思うし」
玄関に置いている車の鍵を手に取った蓮くんに、荷物を取られて半ば強引に車へと乗せられた。
そこまで遠くはない距離。
「なんで、二人は僕なんかに優しくしてくれるの?」
静かな車内でぽつりと言葉を落とせば蓮くんも、同じようにそっと返してくれる。
「紫翠さんだから、ですかね」
「ぼく、だから……?」
「紫翠さんと出会う前の兄さんは、お母さんの事もあって段々と暗い顔しか見せなくなりました。俺や夕の前では明るく振る舞っているつもりだったのかもしれないけど、辛そうなのは隠しきれてませんでした」
「子供の俺たちでは、兄さんの心の寂しさをうめることは出来なくて、どうしたらいいのか分からなかった。そんな時、あなたが兄さんの前にヒーローみたいに現れてくれた」
「実は俺、中学の時に一度だけ、お二人を駅で見かけたことがあるんです。手を繋いでいるのに気付いて少し驚かされましたけど、その時の兄さんの表情は俺たちの前で見せていた暗いものではなくなっていて、俺は凄く安心したんです」
「だから、昔兄さんがあなたを恋人として家に連れてきた時、嬉しかったんです。大切な人が出来て、昔のように笑顔を見せてくれるようになった。それに紫翠さんはとても素敵な人でしたし」
蓮くんは、柔らかく微笑んでくれた。
血は繋がってないはずなのに、その笑い方は雅にそっくりで。
「俺たちが大好きな兄さんを救ってくれた恩人だから、少しでも助けになりたい。それに兄さんからも頼まれてたんです。もし自分に何かあった時、助けてあげてって。俺が世界で一番大切にしている人だからって」
僕は涙が、止まらなくて。
雅がいなくなったと聞かされてから、ずっと苦しかった。
最愛の雅を失った僕には、もう何も残っていないのだと。
でもそうじゃなくて、こんなにも温かい気持ちを向けてくれる人がまだ僕にはいた。
「兄さんに出会ってくれて、ありがとう紫翠さん。俺たちじゃ兄さんみたいには出来ないけど、少しでも力になりたいので、いつでも頼って下さい」
こちらを向いた蓮くんの目からも、涙が溢れていた。
「それに……その、花のことについても紫翠さんが良ければ、また聞かせて下さい」
車が静かに停まった。気付けば自宅の前に辿り着いていて、車のドアをそっと開ける。
「本当に、ひとりで大丈夫ですか?」
「ありがとう、大丈夫だよ」
「そうですか、わかりました。紫翠さん、またね」
蓮くんの車が見えなくなるまで僕は、ぼーっと見ていた。
我に返り、震える手で玄関の扉を開ける。
そこは、薄闇が広がっていて人の気配なんてしなかった。
「ただいま……」
やっぱり、そこに雅はいなかった。
雅が着ていた部屋着も、使った食器も。全部がそのまま。
なのに、雅だけがいない。
なんで……どうして? 雅だけがいないの?
「みやび、ねぇ……どこにいるの?」
家の中を、探し回る。
寝室、お風呂、お互いの部屋。そんなに広くない家の中。
何度、確認しても雅はどこにもいなかった。
「みやび、お願い返事してよ……」
家中を花びらを溢しながら、徘徊する。
どれくらいの間、そうしていたのだろう……。
急に世界が回って、僕はその場に倒れた。
「僕のことおいていかないで、一緒に連れてってよ……」
目の前を花びらが覆い尽くし、視界が遮られる。
――みやび。
「紫翠、ごめんね」
意識を失う直前、そう聞こえた気がした。
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