第29話 昼想夜夢
翌朝、紫翠の昨日の様子が気になりすぎてあまり眠ることが出来なかった俺は怠さの残る頭を押さえつつ、朝の準備を始めた。
通常通りの時間に家を出て、紫翠との待ち合わせ場所へと向かう。
普段、俺は紫翠を待たせてしまうのが嫌で時間より少し早く着くようにしているのだが、いつも俺が座って紫翠を待つベンチには先客がいて、その見覚えのある後ろ姿に内心では、少し驚く。
常に姿勢が良い紫翠にしては珍しく、背もたれに体重を預け空を見上げているようで、驚かせないようにゆっくりと近づき声を掛けた。
「おはよう、紫翠。今日は早いんだね」
そっと声をかけたつもりだったが、思っていたよりも驚かせてしまったようで、紫翠は二重の綺麗な目を大きく開き静止している。
僅かの間を置いて、おはようと返してくれる紫翠。
気を付けていたとはいえ、驚かせてしまったことに申し訳なさは募る。
ごめんね、と謝ると紫翠はいつも通りのんびりした口調で大丈夫だと言い、背もたれに体を預けたまま俺を見上げた状態で、俺が好きでたまらない笑顔を向けてくれた。
「全然、大丈夫だよ。今日はネクタイ上手く出来たから、早く来られたんだぁ」
褒めてと言わんばかりに嬉しそうに、綺麗な形に結ばれたネクタイを見せてくれる紫翠は、かわいいがすぎると思う。
いつも通りに接してくれる紫翠に俺は、ほっと胸を撫で下ろす。
上手にできてるねぇ、なんて言った俺の言葉に、嬉しそうにしてくれるその姿は、愛おしくてたまらない。
ずっと後ろからでは、体勢的に辛いだろうと話しながら、紫翠の正面へと移動した。
「うん、ありがとう。雅に話したいことがあって早く会いたいなって考えながら結んだら、何故か上手く出来たんだ」
……一瞬、聞き間違えたのかと思った。
殺傷力の高い爆弾を急に落とされた俺は、一時的に思考が停止した。
世界そのものが、止まったのではと錯覚するほどに。
我に返り見た紫翠の表情に、焦りの感情がちらついているのに気づいてしまい、俺がすぐに返事を返さなかったことにより不安にさせてしまったのだろうか。
何とか安心させてあげたくて、ベンチに座っている紫翠の足元に屈み込んで、俯いてしまって見えない表情を、下から覗き込むように話しかけた。
「そんなに素直に言われると思ってなくて、ちょっとびっくりした」
目を合わせるようにして、大丈夫だよという気持ちを視線に込める。
普段、気分屋の紫翠は猫のように飄々としていることが多く、基本は一人でなんでも出来てしまう。
その紫翠が偶に見せてくれる、猫が飼い主に甘えるかのような行動や言葉は、本当に心臓に悪い。
だけど、素直に言ってくれるのは可愛くて、俺としてはいつでも大歓迎だ。
「そんなに素直に言われると思ってなくて、ちょっとびっくりした」
なんて言いながら差し出した俺の手に紫翠は、猫が始めて見たものにふれる時の様に、少し恐恐と自分の手を重ねた。
ふれた温かさが嬉しくて、大切なものにふれるときのようにそっと力を入れて、紫翠の事を引っ張り上げる。
手を離した方がいいのはわかってはいるが、もう少し紫翠の体温を感じていたくてそのまま駅の改札口の方へと進む。
緊張からなのか、口数の減ってしまった紫翠に少しでも俺と手を繋ぐ安心感を覚えて欲しくて、緊張を解すかのように冗談めかして話を続け、繋いだ手を少し前後に揺らしてみたりする。
手を繋いでいるというたったそれだけの事なのに、こんなにも幸福感に浸ってしまう。
紫翠の控えめな笑い声が聞こえ、俺は好きな子が笑ってくれたことに心が満たされ温かくなるのを感じる。
楽しそうに話してくれる紫翠が、急に静かになり表情を窺って見れば、なぜか少し難しそうな顔をしていた。
先程、紫翠は話したい事があると言っていたのを思いだす。
「それで、俺に話したいことって何なの?」
「あ、えっとね……。大したことではないんだけどね……その、もし雅さえ良かったら、今度僕の家へ遊びに来ない?」
考えもしていなかった方向から飛んできた話題に、あからさまに動揺を見せなかったことを、誰か褒めてほしい。入射角が、凄すぎると思う。
「え? 行きたい! 俺、行ってもいいの?」
なんて動揺を隠すのに必死で、第一声が少し間の抜けたものになってしまったのは、どうか見逃してほしい。
初めこそ動揺したが、頭が冷静さを取り戻してくると、嬉しい気持ちが俺の中で大きく膨らんでくる。
柴翠は、俺が昨日ネクタイを結んであげたことが余程嬉しかったようで、その事を家に帰ってから家族に話したら、俺に会ってみたいと言ってくれたそうだ。
ふわりとしたあたたかいものが、心に広がっていくのを感じる。
それに僕も雅に家にその、遊びに来てほしい。と羞恥からか、少しずつ小さくゆっくりになっていく紫翠の声とは対照的に、俺の心臓の音は早く大きくなっていく。
感情が、まるでジェットコースターに乗っているかのように忙しない。
紫翠の手に力が入っているのに気付いてしまい、俯いてしまっている紫翠は耳まで赤くなっていて、俺はこっちを見て欲しくて名前を呼んだ。
ゆっくりと顔を上げてくれた柴翠の瞳には、不安の色が見え隠れしている。
俺は気持ちを隠さず、柴翠に嬉しさを感じたまま伝えた。
提案された約束を一刻も早く確実なものにしたい俺は、日程を確定させるべくスマホのカレンダーアプリを起動させ、予定を確認する。
親の許可が取れるのならば、泊ってもいいと言うのでその厚意に甘えさせてもらうことにした。
許可という点においては、一人暮らしなので特に問題はないと考えたが、俺はまだ未成年で何かあれば親の責任にも繋がってしまう。
もしそれで、柴翠や柴翠のご両親に迷惑を掛けるわけにはいかないので、念のために父へと確認を取っておくことにした。
お泊り楽しみだなぁなんて話しながら歩いていたら、前方に改札口が見えてきて、手が離れた。
俺は反射的に振り返り、柴翠の表情を窺うため、そっと覗き込む。
その顔を見た瞬間。俺は言葉を失い、冷や水を浴びせられたかのように、体の芯から冷えていくような感覚がした。
涙を耐えているようなその柴翠の苦しそうな表情に、なぜ柴翠がそんな顔をしているのか、理由が俺には分からない。
極度に焦った俺は、これ以上不安にさせないようにとできる限り、自分の動揺を抑えて話しかける。
「なんか泣きそうな顔してる」
自分で言葉にしたことにより、はたと気付き頭の中に過ってしまった。
柴翠は、本当は手を繋がれるのが嫌だったんじゃないかと……。
手を繋げて嬉しかったのは俺だけで、優しい柴翠は俺の事を考えて、不快だと思う気持ちを言えなかったのではないか、普通に考えれば同性から手を繋がれることに抵抗感があってもおかしくはない。
俺は柴翠の事が好きだから、周りの目なんて気にならなかったけど、柴翠はそうじゃなかったのかもしれない。
一気に不安に襲われた俺からその不安は、言葉という形となって口から滑り落ちた。
「どうしたの? 紫翠、なんか泣きそうな顔してる……手を繋ぐの嫌だった?」
柴翠に声をかけてから俺が不安を落としてしまうまでは、時間にして数秒程度の事だったのかもしれない。
自分で確認するような、ずるい聞き方で聞いておいて「そう」なんて言われてしまったらどうしよう、なんて俺の胸中はとんでもなく怖気づいている。
お願いだから、そうじゃないと言ってほしい。でも柴翠に嫌な思いをさせてしまったのなら、それを謝りたい。
目まぐるしく動く、自分の感情を制御するためにもなんとか心を落ち着かせようとする。
「ちがうの、そうじゃなくて……」
焦ったようなその声に俺は少し冷静さを取り戻し、柴翠が言葉を紡いでくれるのを待つ。
何かを言おうとして躊躇ってを繰り返し、最終的に柴翠は何でもないから大丈夫だと言い謝られてしまった。
明らかに無理をして笑っている事に、気付かないわけがない。
それに、本当に何もないのだとしたらあんな表情にはならないだろう。
それでも無理に聞き出すのは得策ではないと考え、納得はいかなかったがその場は収めることにした。
何とも言えない微妙な空気が俺たちを包んでいて、やはり先程の様子から柴翠は何かを我慢している。
柴翠の反応を見るに希望的観測かもしれないが、恐らく手を繋いでいたことが嫌だったわけではないのだろう。
だが、仮に俺のこの見立てが本当に合っていたとして、あの表情に含まれているものは何なのか、気にはなる。
でも俺は柴翠が言葉にしてくれるのを待ちたかったし、それがどんなものだったとしても、ちゃんと受け止めたかった。
柴翠がいつでも話せるようにという気持ちだけ俺は、伝えておくことにした。
その言葉に笑顔を見せてくれたことで、俺は酷く安心した。
そのことに対する安堵の感情が大きく、話しているうちに電車が目の前に停車したので、柴翠と一緒に乗り込む。
いつもより一本早い電車に乗れたこともあり、乗客は少なかった。
今は少し距離感を気にした方がいいのかもしれないと考えた俺は、不自然さが出ないように少しだけ意識して柴翠との距離を開けることにした。
四駅先の高校の最寄り駅まで満員にはならず、快適に迎えられるかなぁなんて甘く楽観的な考えは、裏切られる事となった。
扉の近くに立っていた俺達は、2つめの駅に電車が乗り入れたとき、ホームにはたくさんの人が電車の到着を待っていた。
俺はその乗客たちが乗り込んでくる前に、座席の背面で補助座席が設置されている角の所へと、柴翠と一緒に移動した。
まもなく扉は開き、人が次々に乗り込んでくる。
俺は柴翠が苦しい思いをしないようにと、人混みから守るようにして立つ。
そうすると向かい合わせになるため、思っているより距離が近付いてしまい、好きな子とこれだけ接近すれば鼓動は早くなり、緊張が走る。
だけど、それを顔に出さないようにと静かに深呼吸をして、心を落ち着かせる。
次の駅でも人は乗車してくるので、さらに車内の密集度は上がる。
その時に後ろから少し強めの衝撃を受けた俺は、左手を柴翠の肩の横辺りに反射的についてしまった。
人の多さは間違いなく不快でしかないのに、一人で乗っている時とは違って、俺がこうして柴翠の事を身を挺して守れるのなら悪くはないなんて思ってしまう。
少し浮かれていた思考は、先程の柴翠の表情が頭を過り、俺を現実へと引き戻す。
手を繋いでいた時と同じで、俺だけが嬉しいのかもしれないと、心が少しざわついた。
「紫翠、大丈夫? 苦しくない?」
少しだけ柴翠より背の高い俺からは、俯いてしまっている柴翠の表情から様子を窺うことはできない。
ゆっくりと顔を上げた柴翠の表情に一瞬、時が止まってしまったように錯覚し、目を奪われた。
柴翠が言葉を紡ぐ造形の美しい唇は、緩慢に見える。
星空のように澄んだ瞳は涙の膜を張って、熱に浮かされたような色香を纏い、吸い込まれてしまいそう。
なんだ、好きなのは俺だけじゃなかったんだと、その時、そう感じた。
形のある確証なんてものは、ない。だけど、俺の思い込みではないと信じたい。
それさえわかってしまえば、後はさりげなく思いを伝え続け、柴翠がこちらにおちてきてくれるのを待つだけだ。
そうと決まれば、行動あるのみだ。でも、恥ずかしがり屋の柴翠のペースを尊重したい気持ちは変わらない。
まずは、もう一度手を繋ぐところからだと考え、降りる時に手を差し出してみようかなぁなんて、鼻歌を口ずさみたいくらい上機嫌で計画を練る。
結果的に俺の策は功を奏し、自然に手を繋ぐことに成功した。
差し出した手に柴翠が、自分の手を添えてくれる。
そのことが嬉しくて、繋いだ手を介して俺が感じているこの好きと幸せが伝わるようにと、優しく包み込むようにして力を込めた。
そのまま手を引き、人の多いホームから降りて広い駅の構内を、ゆっくりと歩く。
振り返ってみた柴翠は、俯いたまま。だけど、髪の毛から見えている耳が赤くなっていて、繋いだ手には力がちゃんと込められている。
高校の最寄り駅のため、誰に見られているかわからない。
だから、離した方がいいのは理解している。
だが、もう少しこのままでもいいかなぁなんて、改札の直前まで繋いだ手を離さなかった。
改札を出てからは柴翠が胸の前で手を組んでいたし、俺は全く気にならないが周りの目もある。
俺個人としては、言いたい奴には好きに言わせておけばいい。くらいにしか思っていないし、密かに色々なところから柴翠が好意をよせられている事を知っているので、見られる事は俺にとっては周りへの牽制になり、利点の方が大きい。
だけど、柴翠はそうじゃない事を分かっているので、手元は寂しさを感じているが今は我慢だ。
学校に着き下駄箱で靴を履き替え、教室へと向かう。その間も柴翠は胸の前で手を組んでいて、口数も普段より多い気がした。
少しの違和感を感じながらも予鈴が鳴り、自分の席へとつく。
先ほどまでの柴翠の様子が気になり、一番前の席に座っている俺は体ごと後ろに向けて視線を送る。
気付いた柴翠と、視線が絡む。
俺は嬉しくなってしまい、つい笑顔がこぼれ手を振る。
それに対して、柴翠も手を振り返してくれたのに、ほぼ同じタイミングで担任の先生が入ってきた。
一番前に座っているため一応話を聞いているふりはしているがその実、頭の中は柴翠と手を繋げたことへの幸福でいっぱいだった。
――はやく、俺のもとにおちきてきてほしい。
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