第4話 独占欲の火種
翌日の朝、目が覚めた時に朧気ではあるが「あまり良くない夢をみた」という事だけをぼんやりと覚えていた。
そのもやもやとした気持ちを晴らすように日差しを遮り、普段は良質な眠りを提供してくれているはずの遮光のカーテンを開けて、暖かい日の光を浴びる。
手を上にあげてぐーっと伸びをし、そのまま軽くストレッチをして、眠っている間に縮こまってしまっている筋肉をほぐす。
起床時に伸びをすると血流や代謝がよくなり、自律神経が整うという。
小学校の低学年のとき、片頭痛によって今よりもはるかに体調を崩しやすかった僕に、おばあちゃんが教えてくれたものだ。
この習慣を取り入れたことにより、全く体調を崩さないというわけではないが、昔に比べると頻度は少し減ったように思う。
寝ぐせのついている髪を手櫛で軽く直しながら、下の階へと降りる。
歯磨きと洗顔を済ませ、リビングへとつながっている扉を開けるとかつおだしの味噌汁のいい匂いがふわっと香り空腹感を刺激された。
「おはよう、おばあちゃん。いい匂いしてるね、お腹すいた……何か手伝えることある?」
「おはよう、もう少しで完成するから大丈夫よ、ちょっと待っていてね」
「はーい、ありがとう」
僕は食卓に座って、大人しく待つことにする。
すでに殆どの準備は完了していて、お味噌汁に十五穀米のごはんときんぴらごぼう、一口サイズの胡瓜の味噌漬けに納豆が並んでいる。
そこにおばあちゃんが持ってきてくれた、焼きたてのだし巻き卵を置いて朝食は完成した。
おばあちゃんはいつも僕の大事な場面や頑張りたい日なんかには、必ず決まって朝食に僕の好物である少し甘めのだし巻き卵を作ってくれる。
「いただきます」
手を合わせて箸をとり、だし巻き卵に手を伸ばす。
口にいれるとじゅわぁーっと甘い出汁が溢れてきて、これが僕にとって小さい頃から変わることのない、幸せの味のひとつだと思う。
おばあちゃんが作ってくれる健康的な和朝食が、僕は好きだ。
心があたたかくなって、力が湧いてくるような気さえする。
一口一口を大事にかみしめ、残さず全部食べてしまう。
「柴翠、お皿とかそのまま流し台に置いていてくれたら大丈夫だから、はやく準備しちゃいなね」
おばあちゃんのその言葉に甘えさせてもらい、身支度を始める。
髪を少しスタイリング剤で濡らしてから、ドライヤーを使い整えていく。
身だしなみはきちんとしていて損はないと思っているので、こうして毎日しっかりと準備をしてから登校するようにしている。
髪型を整え終えて、自分の部屋へと着替えるために一度戻る。シャツを羽織り、ボタンを留めてズボンを穿き、ネクタイを手に取って首へとかける。
昨日、雅と近づいた時に強く香った甘い香りを思い出し、頬に朱が差す。
はやく雅に会いたいと考えながら結んだネクタイは、何故か今迄で一番綺麗に出来た。
それにより準備時間は大幅に短縮され、散歩を兼ねて早めに家を出る事にした。
少し早く出ただけの違いではあるのに、最寄りの駅までの道に人は少なく、鳥の囀りが聞こえる朝、特有の静かなこの雰囲気はとても心地が良い。
雅とはいつも駅で待ち合わせをしてから、一緒に電車で通学している。
待ち合わせ時間より十五分ほど早く着いた僕はベンチに座り、雅が来るのを待っていた。
空を見上げれば雲ひとつない快晴で、過ごしやすい気候は穏やかな気分にさせてくれる。
いつも雅は僕より早く来ているので、待つのは新鮮だ。背もたれへと身を預け、ぼんやりと雲が流れていくのを目で追う。
「おはよう、紫翠。今日は早いんだね」
突然、視界いっぱいに雅の顔が映る。驚きで一瞬、体が硬直した。
「びっくりした、おはよう雅……」
僕の背後から顔を覗き込むようにして声をかけてきた雅は、少し眉を下げて謝ってくる。
「あ、ごめんね、そこまで驚かせるつもりはなかったんだけど……」
「全然、大丈夫だよ。今日はネクタイ上手く出来たから、早く来られたんだぁ」
そのまま上を向いた状態の体勢で笑顔を向けて、少し申し訳なさそうにする雅が、これ以上気にしないようにのんびりとした口調を意識して言葉を返す。
「ほんとだ、上手に出来てるね」
そう言って、自分の首元を指している雅も笑顔を返してくれる。
僕は体を起こし、後ろにいた雅は僕の正面に移動してきてくれる。そのまま僕が、雅を見上げる形になった。
「うん、ありがとう。雅に話したいことがあって早く会いたいなって考えながら結んだら、なぜか上手く出来たんだ」
言い終わった後に見た雅のぽかんとした表情に、僕は口を滑らせてしまったと思い、少し焦る。
だが、その不安は束の間で、雅はすぐに笑顔を見せてくれた。
「そんなに素直に言われると思ってなくて、ちょっとびっくりした」
気付けば少しうつむいてしまっていた僕の顔を、覗き込むようにして目を合わせ伝えてくれる。
今日の柴翠は素直な日なんだねぇ、なんて嬉しそうに言いながら、目の前に手を差し出される。
少し緊張気味にその手を取ると、雅の僕より少し大きな手で包まれ優しく引っ張られる。
そのまま手を繋いだ状態で、話しながら駅の構内の方に向かう。
ふれられている手が、熱い――。
手汗は大丈夫だろうかなんて不安が、頭を過る。僕の不安をよそに、今日も朝からほんと可愛いこと言うねぇ、なんて冗談ぽく言う雅の一連の行動は、同性の自分から見ても格好よくて。
女の子だったら好きになっちゃうよなぁ……なんて思ってしまった僕は、何とも言えない複雑な心境になる。
「それで、俺に話したいことって何なの?」
思考が彼方に飛びかけていた僕に、雅の声が掛かる。
「あ、えっとね……。大したことではないんだけど、その、もし雅さえ良かったら、今度僕の家へ遊びに来ない?」
緊張で、繋いでいた手に力が入る。
「え? 行きたい! 俺、行ってもいいの?」
「うん、昨日雅がネクタイ結んでくれたこと家族に話したら、会ってみたいって。それに僕も雅に……家に、遊びに来てほしいし……」
最後の方は言っていて少し恥ずかしくなり、声が小さくなってしまったが、なんとか言うことはできた。
気恥ずかしさで、雅の顔は見られない。
「柴翠」
呼ばれて恐る恐る上げた視線の先の、雅の表情はとても嬉しそうで目をきらきらと輝かせていた。
「めっちゃ嬉しい! 俺いつ行ってもいいの?」
「いつでも大丈夫だよ、それに雅のご両親の許可が取れるんだったら、泊まってもらってもいいって……」
「ほんと!? お泊りしたい! たぶん大丈夫だと思うけど、一応聞いてみるよ」
鼻歌でも歌いそうなほど機嫌のよさそうな雅は、スマートフォンをポケットから取り出し文字を打ち込む。
ここまで喜んでもらえるとは、思わなかった。
「紫翠の家でお泊り楽しみだなぁ」
嬉しそうに話す雅の様子に、僕も笑みがこぼれる。
そんな話をしながら歩いていたら、前方に改札が見えてきた。
少し名残惜しいが男同士でいつまでも手を繋いでいるわけにもいかないので、そっと離す。
自分の意志で離したはずのに、なぜこんなにも寂しいのだろう。
急に手を離した僕に半歩ほど前を歩いていた雅は、不思議そうに振り返る。
「柴翠?」
様子を窺うように顔を覗き込まれたことによって、自然と距離は近付く。
それにより雅が放つ甘い香りが、強くなって心臓の鼓動はいっそう早くなる。
僕は雅の事を恋愛対象として好きなのではないかとその瞬間、唐突に気付いてしまった。
「どうしたの? 紫翠、なんか泣きそうな顔してる……手を繋ぐの嫌だった?」
心配そうな表情で聞いてくる雅の優しさに、胸がきゅうーっと甘く疼く。
「ちがうの、そうじゃなくて……」
何か言葉にしなくてはいけないのに、何も思いつかない。
「うん、ゆっくりでいいよ」
急かさず僕が、言葉にするのを優しく待ってくれる雅。
僕は間違いなく雅を困らせているのに、その雅が今、自分だけを見てくれているのが嬉しいなんてどうかしている。
こんな恋心は気付いたところでどうにもならなくて、苦しいだけなのは目に見えている。
だって僕も、雅も男性で同性同士だ。仮に僕の恋心を雅が受け入れてくれたとして、周りがそれを許してくれるかどうかはわからない。
この気持ちを絶対に雅には、知られてはいけない。一生、隠し通さなければいけないものだ。
「本当に、何でもないんだ。大丈夫、ごめんね」
「……ならいいんだけど」
納得はいかないようだが雅はそれ以上、追求してこなかった。
少しの気まずさが残る空気の中、改札を通りホームへと上がって電車の到着を並んで待つ。
その間も人差し指を下唇へと沿わせるようにして、考え込むようにしているその姿はとても絵になっていて、たまらなく視線を惹きつけられてしまう。
「とにかく、無理はしたら駄目だよ。何かあったらすぐに言ってね、いつでも聞くから」
ぱっとこちらを向いて言う雅に少し驚いたが、僕の事を真剣に考えてくれていた様子に、不謹慎にも心は喜んでしまう。
「うん、ありがとう雅」
優しい笑顔を見せてくれる雅に僕も笑顔を返し、そのまま少し話していれば、ホームに電車の到着を知らせる音楽が鳴る。
高校の最寄りの駅までは三駅を経由し、十五分ほどで着く距離だ。
いつもより空いている電車に、乗り込んだ。人がまばらなことにより、普段はもう少し近い雅との距離が心なしか遠いような気がして、僅かにさみしさを感じてしまう。
その感情を誤魔化すようにしていくつか話を振り、会話に集中して気を紛らわせる。
乗車してから二駅目の駅に停車する間際、何かイベント事でもあるのか大勢の人がホームで待っているのが見えた。
「紫翠、そこの隅の方にいこう」
満員は嫌だなぁなんて呑気に考えていた僕を、雅が端の空いている場所に誘導してくれる。
扉が開き、人がたくさん乗り込んでくる。僕は壁に背を預け、乗車口から続々と人が乗ってくる様子を見ていた。
先程まで空いていた電車は見る影もなく、あっという間に身動きすら難しいほどの満員になってしまった。
ふと正面を向けば、雅が思ったよりも近くにいて、どくん、と心臓が大きく音を立てる。
みやびと、距離が近い。あまい、香りがして心臓がくるしい。何か……話さないと。
懸命に頭を働かせるが、全くと言っていいほど会話は思いつかない。
次の三駅目で、さらに人は増える。
「おっと、ごめんね」
一瞬、息が止まった――。
後ろから人に押されてしまったようで、僕の右側の壁に手を付いて雅は自分の体重を支えている。
それはまるで、僕より少し背の高い雅に守られているかのようで。
――僕の視界には、雅の姿だけしか見えない。
徐々に鼓動は早まり、体に熱が集まってくる。煩く鳴っている自分の心臓の音が響いて、周りの音は何ひとつ聞こえない。
「紫翠、大丈夫? 苦しくない?」
僕より雅の方が大変なはずなのに、真っ先に僕の心配をしてくれる。
「……大丈夫、ありがとう雅」
かろうじて、言葉を返すことができたが心の内の動揺は、止まる所を知らない。
さらにその距離は縮まり、雅の纏う甘い香りはより強く、濃くなる。
その香りにたまらなく魅了され、もっとそばでこの香りを独り占めにしたいと、恋人でもないくせに独占欲のようなものが沸々と湧いてしまう。
自分でもこの感情をどう制御していいのか、わからない。
だけど今、この瞬間だけは雅の一番近くに居る。幸せなこの時間が終わらなければいいのに……なんていうのは、僕の我儘だろうか。
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