第2話 俺、異世界の空気を感じた

──目が覚めると、そこは藁の匂いがする部屋だった。


藁とはいっても、現代のように整えられた乾燥したものではなく、まだほんのり土の湿り気を含んだ“自然のにおい”が鼻をくすぐる。木造の壁には隙間が多く、窓ガラスなどは無い。代わりに、すだれのような布が風に揺れていた。


「……やっぱ夢じゃないのか」


起き上がった俺は、用を足しに外へ出た。村の端にある水場で顔を洗おうと、水に手を伸ばす。ふと、水面に映る自分の顔が目に入った。


「……は?」


そこに映っていたのは、知らない少年の顔だった。いや──見覚えはある。若い頃の、たしかに俺自身の顔だ。


肌にはハリがあり、髪の艶も明らかに十代のそれ。数日前まで見ていた、老け込んだ三十代の顔ではない。……いや、ラウルに「34歳です」と答えたときの反応も、今なら理解できる。


「……もしかして、俺……若返ってる?」


信じがたいが、そうとしか思えなかった。


そのまま空を仰いだ。青く澄んだ空に、二つの太陽が輝いている。その光が、どこか肌を焦がすようでありながら、不思議と痛くはない。木々の香り、土の匂い、それらに混ざる何か得体の知れない“感覚”──この空気が、俺に「ここは異世界だ」と告げているようだった。


──現実だ。これは、紛れもない現実だ。


それから三日。ハーラン村での日々は、少しずつ現実味を帯びてきた。


宿の朝食は、丸くて硬めのパンと、何かの根菜が入った塩気の強いスープだった。──ご飯(米)がないことに気づいたのは、このときだ。味はまずくはない。けれど、香辛料が乏しいのか、どこか味気ない。


「ラーメン……食いてぇ……」


思わずこぼれた独り言は、誰にも届かず、スープの湯気に紛れて消えた。


村人たちは皆、素朴で人懐こい。朝市の広場では、女性たちが籠を担ぎ、男たちは木箱を運ぶ。農具はどれも見たことがない形で、鍬のようでいて、先端が丸く削られていたりする。


「おはよう、クロスケ」


ラウルが片手を挙げて挨拶してくる。まだ“慧”とは呼んでくれない。だが、不思議とそれにも慣れてきた。


「おはようございます」


三日目の朝、そんな俺にラウルがぽつりと言った。


「クロスケ、お前、ずっと敬語使ってんのな。そんなに気ぃ使わんでいいぞ。俺も偉い人間じゃねぇし、村の仲間ってことで、な」


「……そっか。ありがとう、ラウル」


それから俺は、彼に対して自然とタメ口を混ぜるようになった。


食後、鍛冶屋に連れられ、布製の旅装と簡単なベルト装備、木剣を手渡された。


「元の服じゃ目立つだろ? それに動きづらいしな」


「これ、剣か……?」


「まあ模擬用だがな。子どもたちもこれで遊びながら鍛えてる。お前も最低限は握っておけ」


──護身用の棒にしか見えないが、何もしないよりはマシだろう。


その夜。ふと、何かの気まぐれで、呟いてみた。


「……ステータス」


その言葉と同時に、視界に淡い光が浮かんだ。何かが“展開”されるような感覚と共に、目の前に青白い光の板が現れる。


━━━━━━━━━━━━━━

 Name:黒栖 慧

 Age:17

 Class:無

 Level:1

 HP:100/100

 MP:500/500

 Skills:無

━━━━━━━━━━━━━━


──なんだこれ。


まるでゲームのUI。でも、これは確かに現実に“見えて”いる。名前が刻まれている。それに、年齢も──やはり、若返っている。中身は37歳なのに。


「……スキル、無。ま、そんなもんだよな」


呟いた声は、静かな部屋の木壁に吸い込まれていった。


翌日。ラウルに大きな町の場所を尋ねると、


「明後日、商人の馬車が来る。それに乗せてもらえ」と言われた。


「え? なんで?」


「この村で一生暮らすのも手だが、働き口は少ない。稼ぐなら“冒険者ギルド”に登録するのが一番だ」


「冒険者ギルド……」


「魔物退治や護衛、採集依頼まで──身一つでできる仕事が多い。腕を磨けば、金も名も得られる」


「ギルドは、この村には無いんだよな?」


「ああ。東の大きな町“レーヴェン”にある。ちょうど明後日、そこの商人の馬車が来るんでな。帰りに乗せてもらえ」


「……了解。乗せてもらうよ」


「武器も装備も、少しは慣れておけよ。村を出るときにはお前に合った剣を渡す」


木剣を手渡されながら、俺は小さく頷いた。


この世界で、俺は何ができるのか分からない。でも──


──俺は帰りたい。


最愛の猫、ミミを置いてきた。帰ったら、あいつ、俺の布団でふて寝してるかもしれない。ゲームの続きだってある。推しのVTuberのライブも見逃せない。


けど、今は帰る手段がない。


だからせめて、“ここ”で生き延びる準備くらいはしておこうと思った。


その日の午後、ラウルの提案で村の外れにある空き地へ出ると、彼は実に楽しそうに笑った。


「よし、クロスケ。まずは基礎の型から教えてやる」


──地味に地獄の時間が始まった。


最初は木剣の持ち方。次に、足の運び。そして振り下ろし方と受け方。冗談抜きで、汗まみれになった。


体が若返っていたのが唯一の救いだったが、なまった筋肉は正直すぎて、すぐに悲鳴をあげた。


「意外と筋はいいぞ。……ま、続けなきゃ意味ないがな」


ラウルが笑って言う。その言葉はなぜか、ちょっとだけ嬉しかった。


夜、宿に戻ると、俺はベッドに倒れ込んだ。


「……異世界、か」


まだ戸惑いはある。怖さもある。けど──


──帰る手段が見つかるまでは、踏ん張るしかない。


そんな覚悟が、じわりと心の奥に根を張った気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る