第三章 我なお人にして、友を訪ねん
朝。雲は薄く、風は冷たく、山の霧が白布となり岩を這う。
我は、震える指で筆を取る。手の骨はすでに人のものとは異なり、関節は曲がらぬ。それでも、我は書く。書かなければならぬのだ。すでに字は崩れ句も調わぬが、言葉があるうちはまだ人であると信じたい。
これを最後に綴ったとき、ふと胸中にある一つの想いが灯る。理解者に読んでほしかったのだ。考えは巡るまもなく決まった。
蕭懐
若き日に詩を論じ合い、我が言葉を飾らず真摯に受け止めてくれた友。最後に会ってから幾歳月が過ぎたか。いまや彼は、山南にある
さすれば、足は自ずと動く。
下山途中、我は一人の老婆と出会う。荷を背負い、草鞋の音を鳴らしながら、崖道を登ってくる。目が合う刹那、老婆の顔に恐怖が走った。そして、何も言わずに道を逸れ、足早に去っていく。
そのとき、我は川辺の水面に己の姿を見た。片目はすでに曇り、口元は裂け、牙のような歯がのぞいていた。
我はもう、人ではない。
いや、見た目においては、と盲信することとする。我が心、我が筆、我が言葉がまだ我であるかぎり人であらねばならぬ。
陽は傾き、脚は鉛のように重く、咳をするたびに血が滲む。それでも、余は歩いた。詩巻を背に、残された理性を信じて。
夜には、村のはずれの祠に身を隠した。里の灯は遠く、犬の吠える声だけがかすかに聞こえた。人の暮らしのぬくもりに、身を寄せたくなる衝動が湧きあがったが、我は、けっして人を襲わぬと、心に幾度も刻む。
朝、我は墨を磨り、最後の力をもって一つ認める。
これが我が望みだった。詩人として死ぬのではない。理解される者として、人に看取られて果てたい。それだけだった。
数日の行程の果て、暘谷の山門が見えた。古びた石段の先に、静かなる瓦屋根が浮かぶ。あの中に、蕭懐がいる。
我は膝を震わせながら、門を叩く。
音は、山に吸い込まれていった。
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