這い寄るは、混沌の支配者。そして影の復讐者。~虐められ殺されて異世界に転生した俺、こっちに元クラスメイト達が召喚されたみたいなので、【影操者】スキルで復讐します~
みんと
第1話 理由なき地獄1
コンクリートの壁みたいに、世界は灰色だった。
教室の喧騒も、窓から差し込む初夏の太陽も、そのすべてが分厚いすりガラス越しみたいにぼやけて、現実感を失っている。
俺、苗田寿(なえだ ひさし)の世界は、いつからこんな色になってしまったんだろう。
朝のホームルーム前。
チョークの粉と埃の匂いが混じり合う空気の中、教室のあちこちで、楽しそうな笑い声が弾けている。昨日のテレビ番組の話。週末のデートの約束。次のテスト範囲への愚痴。
そのどれもが、俺とは無関係な、遠い国の言葉のように聞こえた。俺の耳には届いているのに、脳がその意味を理解することを拒んでいるみたいだった。
俺は、息を殺す。
机に突っ伏し、腕と固い木製の机との間にできた小さな暗闇だけが、俺の唯一の領土だった。
気配を消す。石ころになる。風景に溶け込む。
この地獄で生き抜くための、俺が血の滲むような努力の果てに編み出した、哀れな処世術だ。
誰の視界にも入らない、ただのシミになれればいい。
「ねぇ、さっきからなんか臭くない?」
その声は、どんなに気配を殺そうと、鼓膜を突き破って脳に直接突き刺さってくる。
鈴を転がすような、しかし明確な毒を含んだ声。
鈴木未来(すずき みく)。
彼女は、俺の前の席に座るギャル仲間と談笑しながら、その視線だけを的確にこちらへ向けていた。唇は笑っているのに、瞳の奥は氷のように冷たい。
「なんかこの辺、空気澱んでない? どっかの誰かさんのせいで、湿気とカビ臭さがヤバいんだけど」
「あー、わかるー。昨日のお風呂、マジ意味なかったかもー」
前の席のギャル、水瀬出雲(みなせ いずも)が、これみよがしに鼻をつまんでみせる。わざとらしくウェーブのかかった長い髪をぱさりと揺らし、俺という汚物から距離を取る仕草をした。
クスクスと、意地の悪い笑いが教室の端から端へと伝播していく。それはまるで、汚水がじわじわと床に広がっていく光景に似ていた。
やめろ。俺を見るな。俺に関わるな。
心の中で、壊れた念仏のように繰り返す。
「おい未来、あんま寿を避けてやんなよ」
地を這うような、低い声。暴力の匂いがする声だ。
未来の双子の兄、鈴木郷司(すずき ごうじ)。
彼は俺の机のすぐ横に立ち、取り巻きの平裕(たいら ゆう)と肩を組んで笑いながら、俺の頭を面白半分に、しかし骨に響く強さで小突いた。ゴツ、と鈍い音がする。
「こいつ、こーやって構ってやんねーと、マジで死んじまうかもしんねーだろ? お前、殴られてる時が一番生きてるって感じするもんな? なァ、寿?」
平が「それな!」と甲高い声で追従する。
どういう論理だよ……。
やめてくれ。
そう言えたら、どれだけ楽だろう。
だけど、声帯は鉛のように固まって、唇は縫い付けられたみたいに動かない。
「――はい、席に着けー。朝礼始めるぞー」
担任の覇気のない声が、地獄に仏の合図だった。
郷司は「ちっ」と大きな舌打ちをして、俺の椅子を蹴りつけながら自分の席に戻っていく。
俺は誰にも気づかれないように、細く、長く、止めていた息を吐き出した。肺が痛い。
だが、その安堵も束の間だった。
ふと視線を感じて顔を上げると、クラス委員長の松島紗耶香(まつしま さやか)と、一瞬だけ目が合った。
彼女は、庇護欲をそそる顔で、困ったように眉を下げた。だが、その瞳には哀れみも、怒りも、何も映ってはいなかった。ただ、「面倒なものに関わりたくない」という、刃物のような冷たい拒絶だけが浮かんでいて、彼女はすぐにぷいと顔を背けた。
そして、もう一人。
教室の隅の席で、一連のやり取りを面白そうに観察している男。
沢渡大矢(さわたり だいや)。
彼は、誰にも気づかれない絶妙な角度で、俺を見て、にやりと笑った。
まるで、自分が作った舞台の出来栄えに満足する、悪趣味な脚本家のような笑みだった。
ああ、今日も、地獄が始まる。
理由なんてどこにもない、ただただ理不尽な、俺だけの地獄が。
◇
地獄の中にも、ほんの僅かな光が差すことがあると、当時の俺はまだ信じていた。
国語の授業で出された、「自由研究レポート」。
これだけは、昔から得意だった。本を読むことだけが、唯一、現実から逃避できる手段だったから。
三日三晩、寝る間も惜しんで書き上げた。テーマは、とある文豪の作品における死生観の変遷。自分でも、会心の出来だと思った。俺はこのレポートに、自分の今の現状をその文豪の人生と重ね合わせ、教師にだけ伝わるSOSのメッセージとして忍ばせた。これを提出すれば、教師の態度も少しは変わるかもしれない。
そんな、砂糖菓子みたいに甘くて脆い希望を、まだ、捨てきれずにいたのだ。
提出日の朝。
授業が始まり、教師が「じゃあレポートを集めるぞー」と言った時、俺は絶望した。
ない。どこを探しても、ないのだ。
鞄の中身を全て机の上に出しても、クリアファイルだけが、忽然と姿を消していた。
その時だった。
す、と静かに手が挙がった。沢渡大矢だった。
「先生、実は僕も、同じ文豪の死生観について少し考察したのですが……発表してもよろしいでしょうか」
沢渡は、澱みない口調で語り始めた。
その内容は、俺が書いたレポートと、一字一句、同じだった。
俺が、血反吐を吐く思いで紡いだ言葉たちが、まるで最初から自分のものだったかのように、あいつの口から滑り出ていく。
「……っ!」
俺は、衝動的に立ち上がっていた。
身体が、勝手に動いた。
「それ、僕のレポートです……! 僕が書いたんです! 盗んだんだ!」
教室中の視線が、一斉に俺に突き刺さる。
驚愕、軽蔑、侮蔑、嘲笑。あらゆる種類の悪意が、槍となって俺を貫いた。
沢渡は、心底傷ついたという顔で、悲しげに眉を寄せた。
「苗田くん……? どうしたんだい、急に。僕の発表に嫉妬しているのかい? ……見苦しいよ」
教師は、俺と沢渡の顔を一瞬だけ見比べた。その目には、確かに、何かを察したような色が浮かんだ。俺がレポートに忍ばせたSOSのメッセージに、気づいていたのかもしれない。
だが、彼は次の瞬間には冷たい仮面を被り、俺に向かって怒鳴りつけた。
「苗田! いい加減にしろ! 沢渡くんは、あの沢渡代議士のご子息だぞ。彼がそんなことをするはずがないだろう! 自分の不始末を他人のせいにするとは、教育者として見過ごせんぞ! あとで職員室にこい!」
ああ、そうか。
この大人は、真実を知っていながら、権力に屈したのか。
最後の希望だった大人が、保身のために、俺を、見捨てた。
俺は、社会の構造そのものに、絶望した。
そして、追い打ちをかけるように、新たな地獄の幕が開く。
「きゃあっ! ない! 私の体操服がない!」
放課後、松島紗耶香の悲鳴が教室に響き渡った。
クラスが「どうした、どうした」と騒然とする中、郷司が俺の鞄を指差した。
「おい、寿のカバン、なんか不自然に膨らんでねえか?」
わざとらしい、大根役者のようなセリフだった。
犯人はこいつらだと、すぐに分かった。裏で糸を引いているのは、きっと沢渡だ。
だが、俺に抵抗する術はない。平が俺の腕を押さえつけ、郷司が乱暴に俺の鞄をひっくり返した。
教科書やノートと共に、床に落ちたのは、見慣れた女子用の体操服だった。
松島は、その場にわっと泣き崩れた。
その顔は悲しみに満ちているはずなのに、その瞳の奥には、安堵と、そして俺への侮蔑の色が浮かんでいるのを、俺は見逃さなかった。
彼女は、俺の方を震える指で差し、悲劇のヒロインのように叫んだ。
「ひどい……信じてたのに……! 寿くんのこと、友達だと思ってたのに……! 気持ち悪い……! 先生、私、もう学校に来るのが怖いです!」
友達?
お前は、一度だって俺を助けたことなんかないくせに。
俺が助けを求めた時、面倒臭そうに目を逸らしただけのお前が、どの口でそんなことを言うんだ。
俺の「俺じゃない!」という声にならない叫びは、彼女の嘘の涙によって、音になる前に完全に封殺された。
この事件は、未来の手によって、尾ひれがついて瞬く間に裏SNSで拡散された。
『【確定】苗田寿、ガチの変態ストーカーだった件。被害者は委員長(涙)』
泣き崩れる松島の写真まで、ご丁寧に添えられていた。
噂は「動かぬ証拠のある事実」として認定された。
俺はもう、ただの苗田寿ではなかった。
変態で、泥棒で、クラスの汚物。
それが、この学校における、俺の新しい名前になった。
教室も、廊下も、どこにも、俺の居場所はもうなかった。
社会的に、俺は、この日、完全に殺されたのだ。
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