第7話 真夏の西日と瓶ラムネ

 コンクリートもとろけそうなほどの熱気が、ローリエの黒髪をじりじり焼く。名も知らぬ父親からの遺伝なのか、土地柄にしては珍しく浅黒い肌を生まれもった彼にとって、夏の西日は天敵だ。高い背丈は陽と近く、水平線から注がれる鋭い角度の光線が琥珀色の右目に刺さる。サングラスをかければ多少ましになるのだが、その風体でアスターと歩いていたところ、不審者として通報された例がある。それきり懲りて持ち歩かなくなった太陽避けは、今も引き出しの奥で眠っていた。


「お前さんとの用事なら、持ってきてもよかったな」

「おや。悪口の気配がしますよ、先輩」


 ローリエの大学時代の後輩であり、現在では大手出版社の編集者として腕を振るうブランシュは、日傘の下から顔を出した。ネッククーラーで動脈を冷やし、白を基調とした装いで熱中症対策を講じた彼は、皮膚と頭髪までもが元から白い。アルビノ故に真っ赤な瞳を細めたブランシュは、ローリエを傘の日陰に誘わない。オセロを連想させるほど白と黒とが際立つ彼らは、出版社での打ち合わせを済ませ、駅へと向かう道中である。


「別に、そういう嫌味でもないが。ただ、今日の話はわざわざ集まらんでもよかったろう」

「あー……。まあ、生存確認を兼ねて、ですかね。気は進まなかったんですけど」

「この道中で、かえって具合を悪くしそうだ」

「奇遇ですね。ぼくも早く一人になりたいです」

「……俺の発言とは、いささか意味が違うように聞こえるな」

「そうでしょうねえ」


 広場に差しかかると、虹色の球体が浮いていた。噴水に腰掛けた十歳前後の兄弟が、プラスチックで作られた若草色のストローに石鹸水の膜を張り、呼気で宙へと送り出す。若い夫婦がその出来を褒め、タオルで子どもの汗を拭う。風に運ばれてきたシャボン玉に、まなじりを緩めたローリエが指先で触れる。あっという間に弾けた水はレンガの足場に吸いこまれ、余韻だけを残して消えた。ブランシュは、通り道に寄ってきたそれらを雑に掌で払っている。小蝿を退けるかのような編集者の仕草に眉を顰めたローリエは、居候の少女と彼が初めて顔を合わせた時、「子どもは遺伝子レベルで嫌いです」と彼が言い放ったことを思い出した。さらに狭まりかけた眉間を、親指と人差し指でやや念入りに揉みほぐす。つんと澄ました後輩は、大学を闊歩した時と同じ歩みをもってして広場のレンガを蹴ってゆく。


「もしも前世があったとしたら、その頃から先輩とぼくは反りが合わなかった気がします」

「だから時々、仕事をやけに詰めるんだな」

「嫌がらせだと思ってます? この間のは、単純に前のが飛んだだけですよ」

「便利屋扱いの方だったか」

「先輩、レスポンス早いんで。アレが熱でも出さない限り、締切も守ってくれますし」


 手首のスナップで回された日傘がローリエの頬を削りかけ、すんでのところで顔を背けた。片眉を上げて見下ろした後輩は、右肩へと担ぎ直した凶器の奥で嗤っている。


「そういう物言いと、あからさますぎる態度はよせ。よそでボロが出たら、お前さんも困るだろう」

「これだから、コンプレックスのど素人は。そんなボロは出しませんし、正論はぼくを救いません」

「それは……褒め言葉、か?」

「悪口ですよ。思いっきり」


 蝉の鳴き声が、途切れた会話の合間を縫う。沿道のオーニングが、氷水が張られた真新しい樽を日陰に抱いている。通りがけにローリエがその中を覗いてみると、瓶のラムネが涼んでいた。少し視線を横に遣れば、それらが夏季限定の商品であることを説明するミニボードと、代金を入れるための貯金箱とが並んでいる。ローリエは、机に固定されたアルミの箱にコインを数枚押しこんで、浅い水たまりに手を入れた。すべらかな氷が手の甲にころころぶつかって、肘から先が夏の現を忘れていく。ほう、とついた小さな吐息を追うように、首筋に汗の玉が流れる。


「何してるんですか、先輩」


 ローリエが付いてこないと気がついたブランシュが、先の道から引き返してきた。無駄に歩かされた不満を隠す努力をしない彼は、糾弾予定の相手が振り向きざまに差し出した水色の瓶を凝視する。何の真似かと顔を上げると、ローリエのもう片方の掌にも淡い色の瓶が握られていた。


「倒れられても困るしな」


 ブランシュに瓶を押しつけたローリエは、テラス席に腰かけた。飲み口に巻かれたラベルを外し、玉押しを掌の中央にあてがって、地面と垂直に力を入れる。呆気なく飛び出したビー玉は、細かな泡を外に出す。厚い手が傾けた瓶のくびれと飲み口の間、シャボン玉よりも正円に近い球体が、橙に染まりながら転がっている。沈みつつある本物に代わって小さな太陽となったそれは、甘い海で溺れながら、二酸化炭素の粒を身体に纏わせていた。


「先輩のせいで、電車一本見送りです」

「そう言うな。今にも倒れそうな顔をして」


 ラムネを睨みつけたブランシュは、これ見よがしに深いため息をついてから日傘を雑に折り畳んだ。痩身らしく節が目立つ指先が、ローリエと同じ手順を踏んでいく。喉仏が上下に動き、一気に水位が下がる中身は、彼の渇きを表していた。


 ブランシュのものになった瓶の底が次に机と触れた時、中身はほとんどなくなっていた。まだ半分ほどを残しているローリエは、ようやく入れた日陰から暖色の街並みを眺めている。


「ジュース代として、先輩に二ついいことを教えてあげます」


 あと一口分だけを残した瓶を指先で弄びながら、アルビノの彼が口を開く。目だけをそちらに動かすと、彼もまた、色付く景色を眺めていた。高く飛んだシャボン玉が、まだ薄い月に重なり消える。


「まず一つ目。手近な紙に、ぼくのアドレスをメモして放っておかないこと」

「家のどこかにはあるはず……だな、多分」

「ちょっと、個人情報ですよ。自信がないのやめてください」


 白と黒を平等に覆った炎の端が、正反対な二人の角を丸くする。濡れてきらめくビー玉が、音を立てて個室で転がる。遊び終わった四人家族が長い影を伸ばし、夜と入れ違いで家路を辿る。紺碧の空は、朝日と同じく東から世界を染め上げようとしていた。


「で、二つ目。今日は、食べ物以外の土産を買って帰ること」

「どうしてまた、種類の指定がついてくるんだ」

「ああそうそう。使われてやるのは今回きりだと、きちんと伝えておいてください」

「おい、答えになっていないぞ」


 一方的な助言を飲みこみかねているローリエをよそに、ブランシュは浅くなった水面を全て飲み干してゴミ箱代わりのバケツに放る。再び開かれた日傘は、やはり一人用であるらしい。


「ご馳走様でした、お先です」


 迷いのない足取りで駅へと向かうブランシュを、背もたれに身体を預けながら見送る。久方ぶりに味わう炭酸に舌鼓を打ちながら、ローリエは、アスターが気負わないで済む手土産についてゆるりと頭をめぐらせていた。

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