居候と翻訳家

翠雪

第1話 午前中のミートパイ

 土曜の昼前、十一時。高層マンションのとある一室のベランダに、十五歳の少女がたたずんでいる。前髪の分け目からまっすぐ降りた場所にある薄紫色の大きな瞳が、日差しをうけてきらめいていた。


「う、わわっ!」


 いたずらな風が、まっさらなシーツの端を舞い上げる。留め損ねていた端を両手で掴み、ポールに押さえつける少女の髪も、飛び去りかけたシーツと同じように乱れる。右目を隠すように整えられていた黒髪の下からは、緑色の虹彩が露わになっていた。オッドアイをもつ少女――アスターが纏う丈の長いワンピースもまた、主に許可なく踊っている。


 シーツをなだめ、ベランダから戻ったアスターは、次にキッチンへと向かった。換気扇のスイッチを入れ、生成り色のエプロンを巻く。腰元の蝶々結びが、しゃがみこんだアスターに合わせてふわりと揺れる。冷凍庫から取り出されたのは冷凍食品のパイシートだ。氷のような小麦とバターの塊が置かれた台所の隅には、手書きのレシピが並べてある。元は無地だったメモ用紙は、やや癖のある文字が主役だ。行間の余白には、形よく小ぶりな補記が添わされている。


 電子化された貯蔵庫のうち、先ほどよりも温い区画のドアポケットでは、レモンが蜂蜜の海に浸かっている。炭酸水か水か湯で割れば、柔らかな甘さをもった立派なレモネードとなるであろう。その製作者たるアスターは、今はそちらに目を向けない。使いさしになっている玉葱、人参、セロリを選び、まな板の上にそれぞれ並べたアスターは、お下げにしている後ろ髪を背中に流した。


「よし、と」


 シンクで自分の手を洗い、野菜に巻かれたラップを剥がす。土を削がれ、皮を剥かれた野菜たちは、濾過された水のシャワーを浴びる。間もなくみじん切りにされた彼らは、油が跳ねる鍋の中へと包丁の背で押し出された。木べらがオリーブオイルの水面を撫で、焦げ付かないよう具材を転がす。黄緑色の浅瀬を行ったり来たりするうちに、野菜の角は丸くなる。香ばしい匂いがアスターの鼻腔をくすぐり、まろい頬を緩ませた。彼らの芯が和らいだら、ボタンを押して電気を止める。IH式のコンロに置き去りにされたフライパンから、サウナ上がりの人間じみた白い湯気が立ち上る。熱の証拠を横目に見遣った少女は、オーブンに二百度の準備を命じた。


「卵は、黄身と白身で分けておいて……」


 続けて冷蔵庫から取り出された卵は、上下に二分された殻を渡り、透明な層をボウルに落とす。残された卵黄は小皿に移され、フォークでかき混ぜられたうち半分が白身の表面を滑っていく。パン粉、ひき肉、塩、胡椒、ナツメグ、粗熱を取っておいた野菜たちに、ピスタチオも十粒ほど。ビニール手袋の内側では、小指にある指輪が宝石と共に輝いていた。液体と固体の半ばにある深い赤の牛肉が、指の合間をくぐり抜ける。広いキッチンの片隅で開いて閉じる掌が、パーツの全てを繋げだす。肉塊が一つにまとめ上げられて、宙を舞って空気を抜かれた。


 手袋を外したアスターは、シンクの下の扉を開ける。取り出された十五センチのパイ皿は、軽く水で濯がれたのち、キッチンペーパーでくるまれた。水気がなくなった波打つ縁の円形に、バターを直接塗りつけて、強張りがとけたパイシートを被せる。凹凸に沿って指で押しこみ、はみ出た角を刃先で落とす。フォークを使って穴を開ければ、もう少しでひと段落。ヤギの刷毛で卵黄を塗り、ボウルの中身をならして置いて、装飾用の切り込みを入れた別のパイシートで蓋をする。クッキーの型でくり抜いた端材だったパイ生地を、卵黄を付けてあしらってみる。円の縁を織りこんで、残りの黄色を仕上げに塗ると、果実のような潤いが小麦の表面に与えられた。予熱を終えたオーブンが短い曲を電子で奏でる。


 キルティングの布地に掴まれ、熱気あふれる個室へとパイが送り出されていく。ヒーターの対流熱に揉まれるメインディッシュは、三十分も待てば仕上がるだろう。ミトンとエプロンを外したアスターはささやかな達成感を胸に抱き、キッチンとリビングの境界を超える。そのまま扉の前へ進み、物音のしない個室の前で三回ノックを繰り返す。返事こそなかったものの、ドアノブには鍵がかかっていない。銀色の取っ手を掴み、ゆっくりと傾けたアスターは、この家の主たる彼の寝姿を見た。


「おじさま、おじさま。そろそろお昼になりますよ」


 細い手に揺さぶられる男の体躯は、少女よりも随分大きい。立つと頭二つ分ほどの差が生まれる二人の間に、血縁による繋がりはない。アスターが彼に向ける眼差しには、新緑の木漏れ日にも似た、透き通る光が灯っている。


「もうすぐ、ミートパイも焼き上がります。一緒に味見をしてください」


 出版社の伝達ミスで急務に追われた翻訳家の瞼が、少しずつ開き始める。初夏の陽光すらも居候の少女を助け、無精髭のあるローリエの顔へと、分身たちを遊ばせている。細められた彼の右目は琥珀色に、閉じられたままの左目には、古い傷痕が残っていた。


「……朝から、焼いたのか。豪勢だな」

「バターの香りが漂っていたら、起きたくなるかと思いまして」


 とうに声変わりを終えたローリエの声は、乾いた喉で掠れていた。四十三歳の中年にとって、五時間きりの睡眠は、さほど癒しをもたらさない。かといって、このまま夕暮れまで眠れば、明日にも支障が出るだろう。薄手の毛布をまくり上げ上半身を起こした彼は、まだ重たげな目で少女を見た。


「おはよう。アスター」

「おはようございます、おじさまっ」


 ミートパイのレシピと同じ癖のある走り書きが、机の上に散らばっている。オーブンの中で橙色の光に照らされている主食は、彼女ではなく彼の好物である。まばゆいばかりの純な好意に晒されて、惰眠から離れざるを得なかったローリエを、アスターはいかにも嬉しげに見る。高く飛んだ小鳥の影が、少女と彼の合間へとカーテン越しに姿を描いた。

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