虚仮威し(一)(二)

時刻は六時半を前にして、全員がダイニングルームに集まった。


「お集まり頂き感謝します」


俊典は一人一人の顔を見回しながら、厳粛な声色で感謝を述べる。ダイニングテーブルの中央に据えられた長テーブルの、一番奥の一人席。昨夜は父親が座っていた席に、彼は座っていた。その左隣、長辺の上手に位置する席には真紀が座っており、美香は、テーブルの角に置かれた子供椅子に、両親に守られるように座っている。使用人三人は俊典の背後に、緊張した面持ちで屹立する。


現主人は、今朝の朝食の場での父親のように故人に黙祷を捧げると、夕食の開始を告げた。


夕食の調理に当たっては、鴨川、多田、小川の三人体制でお互いに不審な動作がないか確認していただけでなく、俊典が常にキッチンで目を光らせていたという。


初めは誰も料理に手をつけようとしなかったが、俊典を皮切りに箸を動かし始めた。


目の前の料理よりも他人の一挙手一投足に意識を向けているような状況で、当然誰も世間話を切り出すこともない。胡乱な眼差しが卓上で交差していた食卓には、カトラリーと咀嚼の音だけが響く。


しかし、不穏なことは何も起きることなく、美香を含む全員が二十分で食事を終えた。


それを確認した俊典は一度時計を見上げると、重苦しい空気を払拭すべく切り出した。


父親にも劣らない重厚な声が、ダイニングルーム全体に響き渡る。時刻はまだ七時前だった。


「今朝、父を襲った悲劇。そして、豪雪による警察の到着遅延。様々な不幸に見舞われ、皆さんもさぞ混乱していることでしょう。ですが……」


そこで俊典は意図的に間を置き、冥冥の顔を見遣る。


「口に出すのも心苦しいですが、ここに集まった人の中に、父を殺害した犯人がいるのは間違いありません」


各々は何も発することなく、互いの顔をチラチラと伺う。


「犯人の更なる犯行を防ぐためにも、警察がここに到着するまでの間、皆さんにはこの部屋でお過ごし願いたい」


「は?どういうこと」


疑問を呈したのは、俊典の右側に座る弟だった。


兄の説得で、自室に篭っていた彼を何とか夕食の場まで連れてくることができたようだが、今の彼は両隣に誰も座らせず、常に胡乱な眼差しを他人に向けている。


「俺は拒否する。大体、兄貴は馬鹿なのか。この中に犯人がいるって分かってんのに、そいつと一緒に警察を待てってか。部屋に戻らせてもらうわ」


隆平は硬く腕を組みながら、睨むように兄を見上げた。


「おい待て、隆平。ここなら皆の目がある以上、犯人は何も動くことができないんだよ。それに、お前だけ部屋に戻すことはできない。お前だって容疑者の一人なんだから」


席を立ち、歩き始めようとしていた隆平の背に向かって俊典は云った。


「は?」


隆平は苛立ちを全開に、俊典の方へと向き直る。


「俺が犯人なわけねぇだろ。なんで俺が親父を殺すんだよ。母さんも殺されてんのに、俺を疑うのかい、兄貴は。そういう兄貴が犯人だから、こうして皆を集めて何か企んでるんじゃないのか」


隆平の挑発的な態度に、何とか冷静を保とうとしていた俊典の顔にも怒りの色が見える。


それに気づいた隆平はニヤリと口角を上げ、


「ほら、何か疾しいことがあるんだろ。どうせあれだろ?スタジオ経営に行き詰まって親父に金を強請ったけど、貸してくれなかったから殺したんだろ」


もはや正気を失った様子で、隆平は不気味に嘲笑した。


「んだと」


俊典は勢いよく立ち上がると、弟に向かって足早に近づいて行く。


隆平が歩き始めた先は俊典とは反対。兄から逃げるようにテーブルの周りを早歩きで歩いていく。休み時間に教室で鬼ごっこをする小学生のような光景だった。


泣き出す美香。それを宥める真希。唖然とした表情で兄弟を眺める小山内。


鴨川は今にも逃げ出さんばかりの怯え具合で立ち尽くしており、その横の小川は黙殺している。


三宅はどうすべきか考えあぐね、隣に座る岸辺の方を横目で見る。腕を硬く組んだまま、何も云うことなく二人の諍いを眺めているだけだった。


「近づかないでよ。俺も殺すつもり?」


隆平は、鬼気迫る表情で追ってくる兄をさらに挑発する。


「隆平さん、やめてください」


小山内が強い口調で呼び止めた。


「こういう時だからこそ、落ち着いて話しましょうよ。兄弟喧嘩をしている場合ではありません」


小山内の発言は嘆願するような口調だったが、却って隆平は逆上し、


「は?喧嘩じゃないですよ。こっちは両親殺されてるんすわ、この中の誰かに。落ち着いていられる訳ないじゃん」


何かを思い出したように顔を上げると、隆平は矛先を小山内に代えた。


「あ、分かった。親父を殺したのは小山内さんでしょ」


開いた口が塞がらないといった様子で、小山内は否定する。


「そんな訳ないじゃないですか。私だって二年前にここで、姉を失くしているんですよ」


「だからですよ。小山内さん、随分親父と親しげにしていましたよね。それに、記念日以外にも頻繁にこの島に来ていたそうじゃないですか。もしかして、実の姉から夫を奪おうとしていたんじゃないんですか?」


小山内は完全に呆れ返った様子で溜息を吐いたが、隆平は得意げな表情で推理を続ける。


「だから、親父の不在中に母さんを殺した。そうして親父に近づこうとしたら拒絶され、その腹いせに今度は親父まで殺したんだ」


そう云うと、隆平は使用人の方へ顔を向けて、


「——親父とやけに仲良さそうだったよね?」


と確認したが、三人とも視線を床に落としたまま答えようとはしない。


「言語道断、迷惑千万です。定期的に島に来ていたのは、私が二人の専属医だったから。確かに兼光さんとは仲良くさせていただいていましたけど、友人以上の感情を抱いたことなど一度もありませんし、ましてやそのために、姉を殺すなんてあり得ません。言葉に出す前にもう少し頭を使って考えた方がよろしいのではないですか?ただの予想をあたかも事実のように話されるのはひどく不愉快です」


呆れ返った様子で両の掌で顔を覆い隠したまま、小山内は反論した。


その言葉に余計に隆平は機嫌を損ね、また何かを云い返そうとしたところで、


「もういい、隆平。頼むから、もう黙ってくれ」


俊典の声は怒りで打ち震えている。


「従ってくれ。警察が到着すればじきに犯人も分かるんだから、それまでここで見張りあっていればいいんだよ」


訴えかけるように云ったが、隆平は依然聞き耳を立てない。


「だからさぁ」


隆平は呆れたように溜息を吐くと、


「親父を殺した奴が間違いなくいるんだよ、この中に。何食わぬ顔して座ってんの。それなのに、いつ襲ってくるかも分からない犯人と同じ部屋に居ろって。本気で云ってんの?見張りあっていれば、何も動くことはできないっていうのもよくわかんないし。もし、犯人の最終目的が俺の殺害で、正体が割れることも厭わずに強硬手段に出たらどうすんのさ。犯人が分かったところで、俺が殺されたら意味ないんだよ」


隆平の反撃に俊典は怯み、反論の言葉は出ないようだった。


「考えてみなよ。犯人の目的は全員の殺害かもしれない」


隆平は得意げにそう云うと、岸辺と三宅の方に視線を向けて、


「彼ら二人だって、ここにいる以上口封じに殺されるかもしれない。そうして犯人は、警察の到着までにこの島から脱出して、捜査を掻い潜るつもりかもしれない」


「脱出って」


小山内は一人げに呟く。


「この島を離れる方法なんて、船しかないじゃないですか。ただでさえ、積雪でこの館から出ることもできないのに、ここから港まで歩いていくなんて不可能です。目算でも、膝上の高さまで積もっていますよ」


三宅は視線を俊典の背後に立つ多田に向けた。この中で唯一船を操縦できるのは彼一人のはずだ。しかし、この館から港まで凡そ二キロ。仮にこの館から出られたとしても、この猛雪の中を歩いていくことは到底不可能である。


小山内の反論に、隆平は何か云い返そうと口を開いが、適当な言葉が見つからないらしい。


「そうだ。あなたはどう考えてんの?必ず、犯人を見つけると云っていたでしょ」


隆平は己に集まる胡乱な眼差しに耐えかねたのか、ずっと静観していた岸辺に水を向けた。


岸辺は依然腕を組みながら、黙々と煙草を吹かす。


「事件の大枠は掴めていますが、まだ完全な形にはなっていません。それを、犯人もいるこの場で披露するのは得策とは云えませんね」


隆平は期待して損したという具合に、大きく溜息を吐く。


「なぁんだ。本物の探偵が居てくれたらよかったのになぁ」


隆平は皮肉混じりに独りごちた。


「ただ、一つ云えることがあります」


岸辺は変わらぬ調子でそう云うと、人差し指を立てた。


「二年前の事件も今回の事件も、同一犯による犯行とみて間違いないでしょう」


隆平はポカンと口を開いていた。使用人達の顔にも驚きの表情が浮かんでいる。


「どういうことですか?」と小山内。


「二年前の事件は、黒田さんがやったことじゃないの?」


隆平は再び、拍子抜けしたように肩を竦める。


———と、そこで。


ダイニングルームの奥。キッチンの方から、チンっと軽快な音がした。







「—レンジの音、でしょうか」


鴨川が恐る恐る呟くと、小川の方に視線を向けた。小川と多田も無言で首を振る。


誰も予想だにしなかった怪音に、ダイニングルームに充満していた熱気が一瞬で失せた。静寂が再来し、異様な雰囲気に一瞬誰もが口を噤んだ。


鴨川は一層表情を強ばらせると、


「……今の音は多分、古い方の音でした。私達、あのレンジは使用していないのですが」


俊典は神妙な面持ちを上げる。


「誰です?レンジを使用したのは誰ですか」


各々の顔を順番に見渡しながら尋ねたが、誰も答えるものはいない。


「どういうこと?誰か確認しに行ってくれよ」


隆平は不機嫌そうに吐き捨てる。


それぞれがしきりに首を振っているだけで、誰もキッチンに近づこうとはとしない。


鴨川は怯えた様子でキッチンの奥を眺めている。照明が消されて薄暗いキッチンの片隅。この部屋から差し込んだ光さえ届かない位置に、紅色の電光が見えた。


「———私が行きますよ」


三宅は徐に立ち上がると、


「おいおい」


岸辺に腕を掴まれた。


「この疑心暗鬼な状況で、誰も名乗り出ようとしないなんておかしいだろ」


「偶然レンジのボタンに何かが当たってしまっただけかもしれませんよ」


「それはないですね」


そこで小川が口を開いた。あいも変わらずに無表情だったが、その両目は泳いでいた。


「確かにボタンを押す際に音はしませんので、身体が当たるなどして気づかずにボタンが押されてしまうことはあるかもしれません。ですが、先程の音は加熱の完了を報せる音でした。加熱を開始するには少なくとも三回、———ワットと加熱時間の選択、そして加熱開始のボタンを押さなければなりません」


「人為的でなければ有り得ないと」


岸辺はゆっくりと立ち上がって、


「僕が確認してきます」


全員に聞こえるように云った。


「申し訳ない。お願いします」


俊典はぎこちなく頷く。


「いいですよ。私が行きますから。もし、先生に何かあったら大変です」


キッチンへと向かう岸辺と並行して三宅も歩き出す。


「いやいい。それより君は、全員の注意がキッチンに向いている間に、誰かが不審な行動をとらないか見張っていてくれ」


他の人には聞こえないように耳許で囁いた。


「でも・・・」


そう云いかけたところで、岸辺は無言で頭を振った。


三宅は、電気のつけられたキッチンの奥まで歩いていく岸辺の背から視線を外し、仕方なく席に戻る。多田も意を決したのか、岸辺を追うように恐る恐るキッチンへと入って行った。真希は席についたまま、美香を守るように抱擁していたが、それ以外の者は皆席を立ち上り、封鎖された事件現場に集る野次馬のように一定の距離を保った上で、キッチンの奥の二人を見守っていた。


三宅は全員が視界に入る後方に回り込み、それぞれの様子を伺ったが、テーブルに残っている真希母子含めて、誰も不審な素振りをすることはない。誰も言葉を発することなく、固唾を呑んでキッチンを覗きこむ。先程まで喧騒に包まれていたダイニングルームは今や完全な静寂に包まれ、キッチンの換気扇が回る音が響く。


途端に緊張感が生まれ、先程までは考えつかなかった悪い予感が脳裏に浮かび上がる。


一定の距離を保ちながら、キッチンの方を一心に眺める彼ら。この中に犯人がいる可能性は十分にある。


レンジの起動が犯人による犯行だとすれば、その目的は何なのか。あのレンジの中には、—爆弾?そんな突飛な発想が浮かび上がり、三宅は無意識に頭を振った。犯人によるものだとすれば、もしかすると。先生は大丈夫なのだろうか。


レンジが開かれる音がした。三宅の額に脂汗が浮かぶ。


「安心してください」


岸辺の声が聞こえてきた。


三宅の邪推に反して、幸いにも何事もなかったようだ。各々から安堵の吐息が漏れる。


三宅は視線を奥のキッチンの方に移し、目を細めて凝視した。レンジの二メートル程前に立つ多田の右手には、長い棒状のものが握られていた。


あれは、火搔き棒だろうか。あれを用いることで、できるだけ距離を保ちながらレンジを開けようとしたのだろう。多田の隣に居る岸辺もまた何かを持っていた。あれがレンジの中に入っていたものなのだろうか。


岸辺は右手に嵌めていた料理用手袋を外すと、多田と共にダイニングに戻ってきた。


「特に、危険なものではありませんでした」


俊典や真希から安堵の声が漏れた。恐らく、二人も自分と同じように、レンジの中のものについて邪推していたのだろう。


「それで、何があったんです?早く教えてよ」


隆平の急かす言葉に岸辺は、


「皆さん、一度着席していただいてもよろしいですか」


「一体どうして」


隆平は怒りと困惑の混じった声で呟く。


「どうか、お願いします」


各々は合点がいかない様子で席につき、使用人三人は再び俊典の後方に並立した。


「折角ですから、御三方も着席願いたい」


岸辺は使用人に向かって、手振りで着席を促した。しかし、肝心の岸辺は席に着くことなく、テーブルから少し離れた位置に立ったままだ。三人は空席に落ち着くと、自然と全員の視線が岸辺に集まった。それは、教壇に立った教師の話を懸命に聞く生徒のような構図だった。


岸辺は改まった調子で咳払いをすると、懐から何かを取り出し、


「レンジの中に入っていたのは、こちらでした」


全員の顔を見渡しながら云った。


「何それ、VHS?」


隆平が訝しげに呟く。アッと声を出す人もいれば、首を傾げる人もいる。


「『大江戸惨殺譚』のVHSですよ。これがレンジの中に。加熱されてはいなかったようですね」


岸辺はVHSケースの中のソフトを見せ終えると、再び懐に仕舞った。


「ちなみに、皆さんの中にこれを棚から取ったという方は?」


再度確認を取ったが、やはり手を上げる人はいなかった。


「でも、なんでそんなものがレンジの中に?先生、そのVHSを探してたみたいだけど、犯人になんか関係あんの?」


隆平は不服そうに腕を組んだ。


「今朝の犯行の際にスクリーンに『大江戸惨殺譚』が上映されていたことから、何か犯人の動向を掴めないかと思ってこのVHSを観てみようと思ったのですが、ご主人の部屋の棚から無くなっていたんですよ。ですが昨日の時点で、これが棚に収納されていたことを僕達は確認しています。犯人は恐らく、犯行に通ずる何かしらの情報を隠すために、ご主人の書斎から盗み出したのはないかと考えました。念の為、皆さんにもVHSの所在を伺ったのですが、誰もVHSを取っていないと。畢竟、このVHSを盗った人間が名乗り出ようとしないのは、兼光氏殺しの犯人であるからでしょう」


「でも、結局犯人はこうして僕らに見つけさせたじゃない。こんな意味の分からない方法で、だけど」


「ええ、そうですね。これまで隠していたのに、わざわざ全員の目を惹く方法で返したというのは不可解です。書斎の棚に返すのであれば難なく行えるはずなのに。その点に関しては、僕も頭を悩ませています」


「分かっていないのかい」


隆平は失望したとでも云いたげに、溜息を漏らす。


「申し訳ない」


岸辺はゆっくりと自分の席に戻ると、腰を下ろす。


「このような回りくどい方法で返した理由については依然不明ですが、誰がVHSをレンジに入れたのか、入れることができたのかについては解明できるかもしれません。先程キッチンに入った時に、鴨川さんが云っていた通りレンジが二つあることが確認できました。比較的年式の新しいものと古いもの、その内VHSが入れられていた旧式は、調理台から離れた端に、殆ど捨てられたように置かれていました。もしかして、旧式はもう使用していなかったのではないですか」


小川は神妙に頷く。


「ええ、あれは半年程前に故障しております。電源はつくのですが、他の機能はまるで使えず、最近は新しく買った方を使用していましたね。はやく捨ててしまいたかったのですが、なんでもご主人にとって思い入れのある品らしく、コンセントを抜いてあそこに置いていました」


「つまり、あのレンジは加熱機能のない、ただのタイマーのような状態だったと。あのレンジにはオーブン機能もありましたね。恐らく、VHSを入れた犯人は、その機能を利用したのでしょう」


岸辺はそう呟くと、顔を上げた。


「何分で設定されていたのか分かれば、犯人がVHSを入れた時間を逆算できるかもしれません。—あのレンジのオーブン機能は最大何分まで設定できますか?」


「ええと・・・」


その質問に小川は首を傾げた。


「説明書があるかもしれないので確認してきます」


小川は立ち上がってキッチンの方へ向かった。


「念の為、一人で行くのは避けた方が良いかもしれませんね」


岸辺の目配せを受け、多田は立ち上がって小川と共にキッチンへと入っていった。


「何にせよ、犯人がこの計画を思い付いたのは、夕食を全員で摂るという俊典さんの提案を知ってからで間違いないでしょう。だからこそ、僕達全員が集まる前に、予めタイマーを設定したレンジの中に、このVHSを入れておいた」


そこで、キッチンから小川と多田が戻ってきた。


「稼働時間は最大で一時間でしたが、タイマーが何分で設定されていたのかは分かりません」


小川はそう云うと、岸辺は考え込むように腕を組み、


「仮に最大の一時間で設定したとしましょう。先程レンジの音が鳴った時点から一時間前に、レンジの加熱開始ボタンが押されたことになりますね」


岸辺は時計を見上げる。七時十四分だった。


「先程レンジが鳴ったのが・・・大体七時前でしょうか。であれば、六時頃にレンジを起動したことになる」


今度は使用人の方に顔を向けた。


「当然、その時間にキッチンにいた人が怪しいでしょ」


隆平は俊典とその後方の三人に胡乱な目を向ける。


鴨川が弁解するように口を開いた。


「夕食の用意のために私達三人がダイニングルームに集まったのが六時頃だったと思いますが・・・」


「六時半の夕食までに、三十分で用意できたとは」


岸辺は特に疑うようでもなくそう云った。


「ええ」


「三人でキッチンまで来たんですか?」


「いえ。私が来た時点で多田がおりました。私のすぐ後に小川が来て、俊典様がいらっしゃいました。そこで俊典様から、疑っているわけではないが、念の為調理工程を見せてもらうと云われ、調理を開始しました」


岸辺は、成程、と返事をすると、


「多田さんはいつキッチンに来たのです?」


「鴨川の直前です。私のすぐ後に鴨川が来たので。その時確か、丁度六時だったと記憶しておりますが」


「キッチンは廊下とは繋がっておらず、このダイニングルームからしか入れませんよね」


これは俊典に向けて質問した。


「まさか。隠し通路なんてものはこの館にはありませんよ」


兄の否定の言葉を掻き消す程の勢いで、隆平は指摘する。


「じゃあ多田さんなんじゃないの?時刻も大体一致するし、唯一他の人に見られることなくVHSを入れることができたんだし。大体犯人は、レンジが壊れていることを知っていた人間なんだから、君達三人に絞れちゃうんだよな」


多田は大袈裟に右手を振り、


「信じてください。私はそのようなことはしておりませんよ」


俊典も容疑者に猜疑心を向けていた。


岸辺は吸い途中の煙草を摘んだ手を広げながら、肩を竦める。


「どうせ、犯人が名乗り出ることはないでしょう。ただ、多田さん達が来る直前に、誰かがキッチンに忍び込んで、VHSを入れたレンジを起動させた可能性もあります。生憎、あのレンジはタイマー以外の機能を失っていますから、加熱できないのは勿論のこと、加熱する際の音も殆ど出ず、熱でレンジの中が明るくなることもない。さらには、旧式のレンジが置かれていた場所は、キッチンに立つ人間にとって死角になっていますし、外で振り続ける猛雪と冷気が入り込んで、排気口からかなりの音がしていました。三人が調理を開始する前に、VHSが入れられたとしても、調理中の三人は気づくことができなかったでしょう」


「あなたは犯人を庇うのですか?」


俊典の不機嫌そうな視線が岸辺に移る。


「いえ、そういうわけでは。そもそも、タイマーは一時間で設定されたのかも定かではないのですから、他の誰かが調理中の三人の目を盗んでVHSを入れた可能性もあります」


「成程、それは面白い。犯人は僕ですか」


俊典は不快感を露わにした。


「では、そのVHSを見てみましょうよ」


重苦しい空気を払うように、小山内が提案した。


「犯人は意図して、私達にあのVHSを見つけさせたんですよね。であればあれには、犯人からのメッセージが隠れているのかもしれませんよ」


俊典は神妙に頷いたが、その後眉を顰め、


「でも、それでは犯人の思う壺なのでは?自分の正体に繋がる情報をわざわざ僕等に渡すなんて有り得ないでしょう。犯人はまた何か企んでいるに違いない」


「ただのVHSですから」


小山内はこの状況にも比較的楽観的な様子だったが、彼女の云うように、ただ映像を観る分には危険もないように思える。


俊典も少し考えた末、仕方がないとでも云うように、


「・・・では、確認しましょうか」


と首を縦に振ると、背後の多田と鴨川に指示を出した。


それと同時に二人は動き出し、俊典の席の正面にあたる壁の両端でそれぞれ立ち止まった。その両端には、上から垂れ下がった紐状のものが結ばれており、二人がその結びを緩めると、紐が上に引っ張られると同時に、天井の端に空いた隙間から、スクリーンが少しずつ垂れ下がり始めた。


「この部屋にもスクリーンがあったんですね」


三宅は思わずに興奮気味に呟いた。


すぐ隣にシアタールームがあるのに、この部屋にもあったとは。


「ええ。父は向こうを使うのが好きだったので、こちらは滅多に使っていませんでしたけどね」


俊典は少し自慢げに答えた。彼の後方の天井の角からは、いつの間にか小さなカメラのようなものが表れていた。どうやらこれが、正面のスクリーンに映像を映すプロジェクターらしい。やがて、地面から数十センチの高さまでスクリーンは下降を終え、先程まで見えていた壁面一体を覆い隠してしまった。


作業を終えた多田は、岸辺に近づいてVHSケースを受け取ると、俊典の背後に周った。かなりの重作業なのか、額には汗が浮かんでいる。不安げな面持ちの鴨川は、何かを探しているらしく、カーテンのように垂れ下がったスクリーンの裏側に入り込んだ。


VHSの挿入を終えた多田は、ハンカチで汗を拭きながら定位置に戻ったが、鴨川は依然スクリーンの裏に隠れたまま、姿を表さない。


ややあって彼女が顔を出すと、


「俊典様、リモコンが見つかりません」


今にも泣き出しそうな表情で、俊典に向かって叫んだ。


鴨川は必死に訴えかけるように続ける。


「いつも、ここにあったのですが」


俊典は僅かに顔を顰めた。


「最後に使ったのは?」


「恐らく、二ヶ月ほど前かと」


俊典は多田と小川にも確認を取ったが、二人も首を横に振った。


「ったく。一体何なんだろうね。無くなったり見つかったり。これも犯人の仕業ですか」


隆平は嘲るように皮肉った。


「探してみましょうか。兼光さんがどこかへ移動していたのかも」


小山内はそう云って立ち上がると、部屋の隅に置かれた丸テーブルの方へ向かった。


三宅と岸辺もそれに続く。俊典と真希は美香の両隣に残った。


とは云ってもこのダイニングルームは、部屋の中央に置かれている長テーブル以外には殆ど家具という家具もなく、壁面に趣味の悪い絵画が等間隔に並べられているくらいだ。


「一応、キッチンも見てみます?」


三宅は岸辺に尋ねた。岸辺は殆どリモコン探しをしておらず、他の人の様子を監視しているだけだった。席に座ったままの隆平も胡乱な目を各方面に向けている。


「ああ、見てみようか」


岸辺はそう云ったが、ダイニングルーム全体を見渡したまま一向にキッチンに入ってこない。三宅は仕方なく向きなおると、キッチンでリモコン探しを開始した。

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