【屠殺風車】

志乃原七海

第1話【行方不明】

プラスチックトレーに整然と並んだ、血の気の引いたようなピンク色の肉片。今日の夕食はそれを炒め、簡単な肉料理にした。焦げ付き防止加工のフライパンで、肉から滲み出た脂が小さく跳ねる。何の変哲もない、当たり前の日常の光景だ。


スーパーに並ぶ肉は、いつも同じように綺麗で、同じように無臭に近い。鮮度を示す日付だけが、その肉が遠いどこかで「生きていた」というかすかな痕跡だ。ハンバーグ、ステーキ、焼き肉。肉は安価で、手軽で、美味かった。俺――宗太は、それを食べることに、特別な感情を持っていなかった。


いや、正確には、考える必要がなかった。食卓に並ぶ肉が、どこから来て、どうやってここにあるのか。そんなことを深く知ろうとする機会も、情報も、なかったのだから。


日常に亀裂が入ったのは、いつもの安酒場で、見知らぬ初老の男と隣り合わせた時だった。男は顔色が悪く、どこか落ち着かない様子だった。話題が何気なく「肉」になった時、男は妙な問いかけをしてきた。


「なあおい」と、男は酒を煽った。「肉ってどうなってるか、知ってるか?」


宗太はグラスを置き、男を見た。「は? 知らねーなよ。パックになって売ってる以外、特別知ることもねえだろ」


男は薄く笑った。その笑みには、自嘲と諦めが混じっているように見えた。「そりゃそうだろうな。知らねえのが普通だ」


そして、ひっそりと囁くように続けた。


「死んだ牛や豚の肉を使うんじゃなくて……元気な奴を、始末するだろ?」


宗太は一瞬、男の言葉の意味が掴めなかった。死んだ肉ではない? 元気な奴を?


「…当たり前だろ。病気や老衰で死んだ肉ではまずいし、足りないもんな?」


宗太がそう返すと、男は小さく頷いた。


「そうさ。まずいし、足りない。だから、そうする」


男は視線を宙に彷徨わせた。まるで、言葉にするのを躊躇っているかのように。「当然、屠殺場? ……業主があるだよな。あそこで、どんどん…」


その言葉を聞いた瞬間、宗太の中に、漠然とした違和感が生まれた。屠殺場。それは日常とは切り離された、遠い場所の話だと思っていた。それが、今自分が食べている肉とどう繋がるのか?


「…あんた、何を知ってるんだ?」


宗太の問いに、男は恐れるように顔を上げた。「知らなきゃよかったこと、だよ。でもな…」


男は宗太の目をじっと見つめた。


「なんか、覗いてみたくないか? その、裏側を」


その言葉は、宗太の中に燻っていた、この無菌で無味乾燥な「肉」の日常への疑問に火をつけた。この裏側には、一体何があるのか? なぜ、元気な命が「始末」されなければならないのか?


その夜、眠れぬままに宗太は考え続けた。頭の中に、巨大な歯車がゆっくりと回転する、不気味なイメージが浮かんだ。それは風車のように見えた。ただ風を受けて回るのではなく、何かを、生命を、無慈悲に刈り取るための巨大な風車。


屠殺風車。


その言葉が、宗太の心に深く刻まれた。そして、男の問いが脳裏で反響する。「覗いてみたくないか? その、裏側を」


ネット検索では、屠殺場の表層的な情報しか得られなかった。公式サイトの衛生管理基準、業界団体の紹介。宗太が知りたいのは、そんな体裁の良い表面ではなかった。もっと、内側を知っている人間だ。


宗太は、昔の伝手を頼った。裏情報に強い知人、源さんだ。薄暗い喫茶店で、宗太は源さんに屠殺場への興味を伝えた。源さんは煙草の煙を吐き出し、冷ややかに言った。


「屠殺場、ねぇ… まともな人間が、そんなところに興味持つなんて珍しい」


しばらくの沈黙の後、源さんは声を潜めて語り始めた。


「あんたがネットで見るのは表向きの顔だ。問題は、もっと…厄介な話の方だ」


宗太は唾を飲み込んだ。源さんがこれから話すことが、安酒場の男が示唆した「裏側」の核心に触れる予感がした。


「あくまで『噂』だぜ? 信じるか信じないかはあんた次第だが… 屠殺場ってのは、基本的に外部と遮断されてる。そこで何が行われてても、外には分からねぇんだ」


源さんの声は、妙なリアリティを帯びていた。


「で、だよ。聞いた話だと…そこで『始末』されるのは、動物だけじゃないらしい」


宗太の心臓がドクンと跳ねた。


「…どういうことだ?」


「まあ、『いなくなった』人間とか、厄介払いしたい人間とか…そういうのを、そこに『持ち込む』連中がいるとかいないとか」


宗太は目を見開いた。まさか。


「…嘘だろ?」


源さんは肩をすくめた。「だから、噂だって言っただろう。でもな、もしそれが本当だったら…」


源さんの視線が、遠くを見やるような目になった。


「…誰かを始末し、冷凍し、切り刻み…」


宗太の耳に、源さんの言葉が凍てつくように響いた。


「…で、それを…魚の餌にまぜているとか、いないとか…」


その瞬間、あまりにも突飛で猟奇的な噂に、宗太は思わず吹き出しそうになった。


「…お前、冗談やめろよな(笑)」


無理に作った笑みは、しかしすぐに消え失せた。源さんの顔には、全く笑いがなかったからだ。


「冗談だといいんだがな」源さんは真顔で言った。「ただ、そういう話が、一部の筋ではまことしやかに囁かれてるんだよ。あそこには、文字通り『何でも消せる』場所があるってな」


源さんは続けた。


「考えてみろよ。病気や老衰で死んだ肉じゃ足りない、って話だっただろ? 元気な奴を始末する。それは動物だけか? システムが、もっと効率的に、もっと大量に『素材』を必要とするようになったら…どこまで行くと思う?」


宗太の笑いは完全に消え失せた。源さんの言葉は、荒唐無稽な噂話のようでいて、どこかぞっとするような説得力があった。屠殺風車。巨大な歯車が、無慈悲に生命を巻き込み、粉砕していくイメージ。そして、「素材」が動物から人間へと変わっていく可能性。


源さんは煙草を消し、立ち上がった。


「これ以上の情報は、あんたがどこまで本気かによるな。それに、危険な話だぜ? あんた、マジでそこを覗くつもりなのか?」


宗太は無言で、ただ目の前のテーブルを見つめていた。彼の心は、恐怖と、抗いがたい好奇心、そしてこの悍ましいシステムの正体を知りたいという衝動で満たされていた。噂を聞いて、さらに知りたいと思った。


覗くつもりなのか?


答えは、もう決まっていた。


「…ああ」


宗太は顔を上げ、源さんを見た。その目には、迷いを捨てた決意が宿っていた。


「覗いてやるさ。その、屠殺場の…本当の裏側を」


源さんは宗太の目を見て、わずかに口角を上げた。これから始まる危険な旅を予感させる、冷たい笑みだった。宗太はまだ知らなかった。その先に待っているのが、単なる「裏側」ではなく、人間の業と絶望が渦巻く、巨大な闇であることを。そして、一度足を踏み入れたら、二度と元には戻れないことを。


(続く)

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