【短編】飛ぶ鳥を落として解体する

和泉歌夜(いづみかや)

前編

「なんで呼ばれたか、わかるかな?」


 五年二組の担任トリマサ先生はそう言って優しく微笑んだ。私──小春こはるは小さく頷いた。


「テストの……点が悪かったからですよね」

「そうだよ。さすが僕の生徒だ」


 トリマサ先生は両腕を組んで何度も頷いた。そこそこ鍛えられたら腕の筋肉を見ると少しだけゾッとした。


「じゃあ、これから先生が何をするのか。わかってるよね?」

「……はい。『お仕置き』ですよね」

「そうだ」


 私が『お仕置き』と言うと、トリマサ先生の瞳の奥が怪しく光り、口角が引きつるように上がっていた。一瞬だけ狼のように見えた。


「じゃあ、誰か来る前に……始めようか」

「……はい」


 トリマサ先生は暑苦しそうにネクタイを緩め、ズボンのベルトを外した。


 私は震える手でシャツのボタンを外した。



 雨宮小学校に通う私は担任のトリマサ先生に日常的に『お仕置き』されていた。


 『お仕置き』を初めてされた時は戸惑った。家族以外の人の前で裸になるのははじめてだった。


 痛かった。とにかく痛かった。むせるほどの汗と口から出る給食の残り香が苦しかった。


 先生は幸せそうだった。『お仕置き』をするのが好きなのだろうか。そう聞こうと思ったけど、変なことを聞いた罰だとかでまたされるのが怖くて答えられなかった。


 今日も夕焼けチャイムが鳴る前まで『お仕置き』された私は先生にさよならを言って校門を出た。


 ランドセルが妙に重たかった。両脚が少しズキズキしてうまく歩けない。


 最近、トリマサ先生の『お仕置き』の回数が増えている気がする。私のテストの点だけではなく、昨日はハンカチを忘れたとかでされたっけ。


 夕焼けチャイムが遠く聞こえてくる。ふと公園で下級生が元気な声で友達と別れていくのが見えた。


 私は何をしているのだろう。でも、私が悪い子だから仕方ないよね。



「ただいま」


 私が帰ると、母が走るように迎えてきた。


「おかえり。今日も遅かったね」

「うん。トリマサ先生に勉強教えてもらってたの」


 『お仕置き』されているなんて言える訳がない。もし言ったら、お母さんとお父さんが悲しむ。


 でも、母は少し不安そうな顔をしていた。


「小春……何かあった?」

「え? うぅん、なんでもないよ。ただ……その……勉強しすぎて疲れただけ」


 私は無理やり笑顔をつくった。母は「そっか」と頬を緩ませた。


「じゃあ、先にお風呂に入っちゃって。今日は小春の好きなからあげだよ」

「ほんと?!」


 からあげは私の食べ物の中で一番好きなものだ。特に母のからあげは絶品だ。


「からあげ~♪ からあげ~♪」


 鼻歌をうたいながらランドセルを置いて、着替えを持って行って浴室に向かった。そして、中に入って身体を洗おうとした瞬間──手が止まった。


「あ」


 私の身体には無数の引っ掻いたような傷跡があった。たぶんトリマサ先生に『お仕置き』された時に出来たものだろう。


 これを見た瞬間、私は再びトリマサ先生に『お仕置き』されていた時の光景を思い出していた。


 なぜか瞳から涙が溢れ出てきた。私が悪いのに。私のせいなのに。どうして、どうして、こんなに辛い気持ちになるのだろう。


 そういえば友達に今度の休みにプールに行こうって誘われてたっけ。でも、断っちゃった。だって、こんな傷だらけじゃあ、友達に変な目で見られてしまう。


 海にも行けないなぁ。塩水だからしみると思うし。


 保健室の先生に相談してみようかな。でも、トリマサ先生に知られたら、また『お仕置き』されるかもしれない。


 私はゆっくりと湯船に浸かった。新しくできた傷はやっぱりしみて痛かった。私の心も針が刺されたようにズキンとした。


 明日は『お仕置き』されないように真面目に勉強しようと心に誓いながらお風呂から出た。



「遠くの学校から転校してきました。猟太(りょうた)です」


 黒髪のショートヘアで青い瞳の男の子が礼儀正しく挨拶した。ニコッと微笑むと、八重歯が見えた。


「ねぇ、猟太くん、かっこいいね」

「なんか優しそうだし頭もよさそう」


 さっそくクラスの女子たちが騒いでいた。男子達も新しい転校生に胸を踊らせていた。


「はいはい、静かに~!」


 トリマサ先生が優しい笑みでクラスをなだめる。『お仕置き』されている時とは全然違う学校でも1、2を争う人気者の先生の顔だった。


 だから、みんなハーイと元気よく言って静かになった。私もちゃんと返事をした。聞こえたかな。


「では……小春ちゃんの隣に座ってください」

「はい」


 猟太くんは背筋を伸ばしてスタスタと歩いた。その姿も女子達がヒソヒソと盛り上がっていた。


「えっと……名前は?」

「こ、こきゃ……小春です」


 私は緊張のあまり噛んでしまった。猟太くんはクスッと大人っぽく笑った。


「よかったら、友達にならない?」

「え? あ? う、うん。いいよ……」


 まさかいきなり友達になれるなんて思わなかった。ほんの少しだけ女子達から嫉妬の視線を感じるけど……まぁ、いっか。



 トリマサ先生が図形の角度の授業をしている時、猟太くんに話しかけられた。


「小春ちゃんはどんな食べ物が好き?」

「え?」


 私は授業中の私語はよくないと思っているので返そうか迷った。でも、無視して嫌われるのもイヤだし……。


 私が答える前に猟太くんが先に答えた。


「僕はからあげが好きなんだー!」

「え? そうなの? 私もそう」

「へー! そうなんだ! ちなみにどんなからあげが好き?」

「どんなからあげって?」

「たとえば……肉はトリの胸肉がいいのか、ももの部分がいいのか……とか」

「うーん、お肉の部位は別にこだわりはないかな」

「じゃあ、お店は?」

「駅前のが一番おいしいかも」

「へー! 行ったことないなぁ……今度一緒に食べようよ!」


 パンパンっ!!


 教壇の方で叩く音がした。私は心が凍りつきそうになった。恐る恐る見ると、トリマサ先生が少し強張ったような顔をしていた。


「猟太くん、小春ちゃん。授業中にお喋りはよくないぞ」

「はい。すみませーん」


 猟太くんは少し不機嫌そうに返事をした。私は「ごめんなさい」としっかり謝った。


 トリマサ先生は「うん。では、問題の続きだが……」と授業を続けた。


 私は震えが止まらなかった。先生を怒らせてしまった。一体どんな『お仕置き』が待っているのかと思うと、放課後が来るのがたまらなく嫌だった。


「小春ちゃん?」


 すると、猟太くんが心配そうに声をかけてくれた。私はこれ以上先生を怒らせないように黙っていた。


 けれど、猟太くんはさらに穏やかに話しかけてくれていた。


「すごく震えているけど……もしかして寒い?」

「……」

「そういえば小春ちゃん、夏なのに長袖着てるけど……もしかして寒がりなの?」

「……」

「……そっか」


 猟太くんは立ち上がって「先生ー!」と手を上げた。トリマサ先生は「なんだ。猟太くん」と若干声を強めて言った。


「少し冷房の温度を高くしてくださいませんかー? 小春ちゃんが寒くて震えてますよー?」

「猟太くん?!」


 まずい。またトリマサ先生に迷惑をかけてしまった。先生の方を見てみると、少しだけ眉間にシワを寄せていた。


 が、急に両目を見開いてブルブルッと大袈裟に震えだした。


「た、確かに……寒いな」


 先生は足早に冷房のスイッチの調節をしてくれた。クラスの男子達はブーイングしていたが、先生は「この教室はお前たちのものだけじゃないんだぞー! 他の人も考えなさい」と返して授業を続けた。


「もう寒くない?」


 猟太くんが穏やかに聞いてきた。私はウンと頷いた後、「ありがとう」と小声でお礼を言った。


「何か困ったことがあったらいつでも言って。僕達はもう友達なんだから」


 猟太くんが八重歯を見えて笑った。思わずキュンとしてしまった。


 この笑顔を見ると、なぜか嫌なことが忘れられた。


 そういえば、先生のあの顔……初めて見た。まるでお化けを見た時みたいな顔をしていた。


 なんでだろう?



 放課後が近づくに連れて、私の不安は募るばかりだった。そのせいか、今日の給食もほとんど残してしまった。


 そして、迎えた放課後。帰りの会が終わって宿題をランドセルに入れていると、猟太くんが話しかけてきた。


「小春ちゃん、今日の放課後、駅前のからあげのお店に食べに行かない?」

「え?」


 私は『お仕置き』の事が頭を過ったが、なぜか平気だと思った。


「うん。いいよ」

「ほんと?!  やったー!」


 猟太くんが嬉しそうに八重歯を見せて笑っていた。その笑顔を見ると私まで顔がほころんだ。


「小春ちゃん」


 しかし、背後からトリマサ先生の声が聞こえた瞬間、一気に『お仕置き』の文字が浮かんだ。


 振り返ると、トリマサ先生がいつも以上に穏やかに「ちょっといいかな」と聞いてきた。私の答えはもちろん「はい」だった。


「猟太くん、ごめんね。今日は先生と大事な話があるから……また明日ね」

「えー?!」


 猟太くんは残念そうに私と先生の顔を見た。


「分かった。じゃあ、終わるまで校門で待ってるね! それじゃあ!」

「え? あっ! ちょっと! 猟太くん?!」


 行っちゃった。猟太くん、夕焼けチャイムが鳴るまで待っているつもりかな。


「小春ちゃん、行こうか」


 トリマサ先生の声にまたしてもビクッとなってしまった。あぁ、そうだった。これから私は先生に……。


「分かりました」


 私は小股で先生の後を付いていった。



 使われていない資料室が私とトリマサ先生の二者面談をする所だった。


「今日はずいぶん悪い子だったね」


 声は穏やかだが、目は笑っていなかった。私は今にも消えそうな声で「ごめんなさい」と謝った。


「別にいいよ。君に友達ができることは先生として嬉しい。ただね……授業中に私語はよくないね」

「ごめんなさい。その……『お仕置き』だけは……」

「駄目だよ」


 私の両肩にトリマサ先生の手が乗っかってきた。まるで重りのようにズシッとした。


「『お仕置き』は絶対しないと。約束したでしょ? 悪いことしたら『お仕置き』するって……」


 先生の瞳の奥が怪しく光った。それを見ていると、何だかメデューサみたいに石にされそうな心地だった。


 先生の息が荒くなった。


「さぁ、早くしよう。いつまでもグダグダ喋っていると先生怒るよ? 先生を怒らせたらどうなるか分かってるよね?」


 あぁ、今日は夕焼けチャイムを過ぎてしまいそうだ。ごめんなさい、猟太くん。


ガラッ


 しかし、突然ドアが開いた。私も先生も同じ方を見た。


「あー! こんな所にいたー!」


 猟太くんが八重歯を見せて駆け寄ってきた。


「小春ちゃん! 大変だよ! 小春ちゃんのママが倒れたって!」

「え? お母さんが?!」

「うんっ! 今、リビングで休んでいるって君のお母さんから電話が来たんだ! 早く行ってあげて!」

「え? あ? う、うん……」


 私の身体が急に軽くなった。トリマサ先生が離してくれたみたいだ。


 私はお母さんの様態が心配で急いで家に向かった。


「お母さん!」


 私はリビングに駆け込むと、テレビ見ながら大笑いしてソファでくつろいでいる母だった。


「おかえりー! 今日は早かったんだね」

「お母さん? 体調は大丈夫なの?」

「え? なんのこと?」


 母はポカンとしていた。この瞬間、私は猟太くんが嘘を吐いて先生から逃がしてくれたのだと直感した。


 でも、どうして分かったのだろう。


 私、一切話してないのに……。


 

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