第14話

   (十四)

 いつもの正月は、滋賀県の大津に住んでいる兄夫婦と母親に年始の挨拶に行くのだが、今年は用事があるからと電話で済ませた。

「パパさん、ごめんなさい。折角のお休みなのに」

 新幹線で並んで座ると、仁美が申し訳なさそうに言う。

「いいや、一人でいても何もすることがない」

「佳織さんと会うこともできたのに」

「それはまた帰ってきてからでもいいし、今月末に金沢へ行くことになっているから」

「そうなんですか」

「ああ、佳織さんの父上も一緒にね。例の石川工業の社長に招かれている。それよりもご実家の方は?訪ねるって連絡したんだろう」

「はい。おばあちゃんにそう言うと、とっても喜んでくれました。久しぶりですから。お母さんは、ごめんねって泣くばかりで・・・」

「そうか。仁美が元気な姿を見せることが一番の薬になるかもしれないな」

「だといいんですけど」

 岡山で乗り換えて、電車が鳥取県に入る頃から雪模様となる。大阪から瀬戸内の間は、晴れていたのに、随分景色が変わるものだ。

 四時前にホテルに着いた。どんよりとした空模様のせいもあって薄暗く、時折雪も舞っていた。

「場所は分かってるの?」

 ツインルームで、コートをかけてソファに向かい合って座る。

「一畑電車で大寺っていう駅からすぐなんです。迷うほど家がありませんから」

「生まれ育った自然に包まれて、お母さんと一緒なら、きっと心も落ち着くだろう」

「そう思ってお願いしたんです」

「父上のことはともかく、仁美のことは心配しているだろうな」

「きっと」

「春からはどうするつもり?何か考えているのか」

「以前、一度だけハローワークに行ってみました。大阪なら事務職でも工場でもそれなりに求人はあるみたいですから、何とかなるのかなあって」

「どんな仕事が希望なんだ」

「わかりません。佳織さんのようにキャリアウーマンていう柄でもありませんし、何がやりたいっていうものもありませんから、どこかこんな仁美を雇ってくれるところがあれば」

「お母さんの心配しているところかもしれないな。大変な思いをしながら大学へ行かせてくれたのも、仁美には苦労させたくないという気持ちがあったはずだ」

「そうですね。もっと早くパパさんと出会ってたら、いい就職先がみつけられたのに」

「どうだろうね。しかし、合わない仕事を続けていくのは大変だから、少し具体的に考えてみなさい。私もできる限り当たってみよう」

「ううん、そんなことまでパパさんに甘えるわけには」

「そうはいかない。仁美が独り立ちできなければ、私はいつまでも仁美を手離せないような気がしている。それに、最初はそのための半年間だった」

「いいんです。半年過ぎてから、真面目に考えてもいいのかもしれません。パパさんからいただいたお金でしばらくは十分生きていけますから」

 仁美が、一度は崩れてしまった自分自身を取り戻すことには一応目途がついたような気がする。あるがままの自分を認められるようになったことは、大きな前進である。仁美と結ばれてしまったことが、図らずもその最後の仕上げになったようだ。その面では、女性としての先輩たちの言葉が正しかったことを認めないわけにはいかない。

 ただそれは、東山との狭い世界の中で自分の姿をみつけただけで、まだまだ現実の世界に正面から向き合っていく強さはなさそうに見える。

 これからは一つずつ現実に向き合い、仁美の世界を広げていかなくてはならない。それが春までに間に合うのかどうか東山にも自信はない。

 翌日、朝からやはり重い空の中、出雲大社へ行き、二人で手を合わせる。そして、一旦社殿から離れたところで仁美を待たせて、東山はもう一度参りに行く。

「何かお願い事をするのを忘れたのですか」

「内緒だ」

「ええ、意地悪」

「実は佳織さんから釘を刺されていてね。仁美との縁ばかりが深くなると困りますって。だから、二度目は佳織さんのことをお願いした」

「あは、仁美はちゃんと両方をお願いしました」

「偉いな」

「辛くても、佳織さんも仁美の恩人です」

 仁美は大寺の一瀬家へ行き、東山は少し離れた安来市にある足立美術館へ足を運んでみることにする。

「良ければ一晩泊ってくればいい」

「いいえ、友達と一緒だと言ってありますから。それに、ずっと一緒にいると、お母さんには、いろいろ見抜かれそうで」

「そうか、まあ、一度訪ねておけば、その気になればすぐに来ることができる」

「そうですね、すごく遠いところだと思っていましたけど、四時間なんですね」

「実際の距離よりも心の中の距離の方が遠かったんだろうね。じゃあ、遅くなってもいいから、向こうを出るときに連絡をしなさい」

「わかりました」

 東山は一つ手前の川跡という駅で電車を乗り換える。

 仁美の母親の状態は気になる。東山が会ってしばらく話をすれば、おおよその見立てもできるのだろうが、こればかりは思うに任せない。

 できることならば、この近くで仕事が見つかれば、母親と一緒に暮らすことも可能かもしれない。それができなくても、休みの度に顔を見にいくことは可能だ。電車の窓から見える松江の町を見ると、それなりの地方都市で、仕事も見つけられそうな気がする。

 もっとも、会社の数からいえば大阪の方が圧倒的に多く、就職先を探すことに関しては比べ物にはならないだろう。

 また、母親にとってはここが故郷であり心の安らぎがあっても、仁美にとっては見知らぬ土地である。大阪で就職をしても、月に一度程度は会いに帰ることはできる。いずれ避けて通ることのできない親離れ子離れという意味では、その程度の距離の方が長い目で見ればいいのかもしれない。

 そんなことを考えていると安来駅に着いた。美術館へのシャトルバスは出ているようだが、しばらく待ち時間がありそうなので、そのままタクシーに乗る。

 足立美術館は絵画や陶芸品も素晴らしいが、日本一と言われる枯山水の庭にやはり心を奪われた。所どころに雪が残り、松の深い緑、黒い岩肌とのコントラストが一層映える。今は芝生も色を失っているが、春から夏にかけて緑の萌える季節や躑躅の咲く季節には、また全く違う趣であろう。

 一階の喫茶でゆっくりとしたひと時を過ごしていると、他の客たちも皆その眺めの前では一様に言葉は少ない。一人であれば何時間でもこうして時間を過ごしていただろう。

 ただ、今はどうしても仁美のことが優先である。状況によっては、居づらくなって早目に一瀬を出ることになるかもしれない。先にホテルへ帰って待っていてやろうと思う。

 出雲市へ戻って電車を降りると、ちょうど仁美から電話があり、これから電車に乗ると言う。大寺からだと十五分ほどで出雲市に着く。

 一畑電鉄の改札前で待っていると、出雲大社への初詣からの帰りであろう、着飾った客たちが数多く降りてくる。その中に白のセーターにダウンと学生らしい姿の仁美を見つける。昨日は黒のワンピースにネイビーブルーのシンプルなコートという随分お洒落な出で立ちだったのだが、今日は母親に会うからと飾らないスタイルなのだ。

「パパさん、待っていてくれたのですか」

「なに、私も電話をもらった時にちょうど電車を降りたところだったから」

「寒いのにごめんなさい」

 ホテルまでは十五分ほど歩くことになる。

「で、どうだった?お母さんの様子」

「相変わらず泣いてばかりでしたけど、そうして素直に泣けるようになっただけでも安心しました。以前は表情が無くなっていましたから」

「なるほど。それは正解だな」

「しばらくは大阪へ帰ると言いだしたり、やっぱり生きていられないと言ってみたりで、ずっとおばあちゃんが一緒に寝起きしてたって」

 そう言って、仁美は少し泣きそうな顔になる。

「仁美の顔を見て安心できたのじゃないか」

「髪を切ったことには驚いていました。でも以前より元気そうで良かったと。今、どうして生活しているのかと聞かれて、ちょっと嘘をつきました」

「そうか、奨学金とアルバイトじゃ生きていくのが大変だってことは分かるだろうからね」

「卒業までの間、住み込みでお手伝いさんをしていると。小さな会社の社長さんのお宅で、奥様は大手の会社の秘書さん。二人とも忙しいからと」

「はは、信じてくれた?」

「多分。仁美に家事ができるのかって言われましたけど、元々の家政婦さんが体調を悪くして、半年間だけの代役だって言うと納得していました」

「栄子さんを病気にしたか。まあ、そうでもしないと苦しい嘘になるな」

「卒業後の就職についても聞かれて、今探しているところって。そちらの方は、あまりよく分かっていないので大丈夫でした」

「そう。で、仁美の考えは何か変わった?」

「よくわかりません。こっちで仕事を探しても、お母さんだけじゃなくて仁美までお世話になるわけにはいかないし」

「なるほど。まあ、ゆっくり考えればいい」

 これからのことについては少々悩むことにはなったが、母親の状況が悪くなかったことで、少し重荷を降ろせるような気がする。

 ところが、ホテルの部屋に帰ると、仁美はダウンを脱いで東山に抱き付いてきた。

「どうした?また甘えたくなったのか」

 東山はそんな仁美を抱きとめる。

 一年半ぶりに母親に会うことで、緊張もしていただろうし、その症状に不安もあっただろう。それが一気に緩んでしまったのかもしれない。

「はい。それもあります」

「それも?」

「上手く言えませんが、お母さんと向き合うことが怖くて。ううん、どんな自分でいればいいのか分からなくて」

 これまでは、東山の世界の中で自分一人だけを見つめていればよかった。

 しかし、一歩ずつ現実の世界に戻るということは、これまで心の外へ押しやっていたいくつもの現実と向き合うことになる。その第一歩が母親だった。そして会うことはないかもしれないが父親の記憶とも向き合わなくてはならない。仕事や生活、将来といった人生も取り戻していかなければならない。すると、同時にそれらと向き合う自分も見つめていかなければならないのだ。

「怖い、か」

「はい。おかしいですね、お母さんなのに」

「いや、分かるよ。だが、焦る必要はない。それに、私はそんな仁美が勇気を持って自分と向き合うのを助けるためにここにいる」

「パパさん」

「それが私の本職だし、最初からの約束だろう。これから、仁美は少しずつ現実に向き合っていくことになる」

「現実ですか」

「ああ。その中では今日と同じように、どんな自分でいればいいのか分からなくなることも多くなる。辛いことも怖くなることもある。最初に言ったように、甘えながら、自分を甘やかしながら、少しずつ仁美の世界を広げて行けばいい。私はいつでも仁美の味方だし、どんな仁美でも受け止めてやりたい」

「カウンセリング代、ちゃんと払わなきゃいけませんね」

 仁美は涙目で東山を見上げながら、無理をして微笑む。

 五日に大阪に帰り、六日がキャリアワークの仕事始めだった。ただ、クライアントもそれぞれに松の内は忙しく、カウンセリングの予約もほとんどない。仕事始めとはいえ、十時頃にメンバーが出勤し、年始の挨拶をした後は、しばらくそれぞれに世間話をして解散となる。遠藤さん、仁科さん、カウンセラーの樋口さんの女性三人が、申し合わせて和服で出勤していて、艶やかな仕事始めとなった。

 翌週からはいつもの仕事が始まる。

 去年高杉さんから紹介された長野君がアルバイトで実習に加わった。二十五歳の若さで、仁科さんとは同学年である。こうして若い人たちが活躍してくれれば、キャリアワークも少しずつ成長できるだろう。

 事務所を少し広げることも考えてみる。急にクライアントの数が増えるわけではなく、信用できるカウンセラーを増やすことも難しい。今以上にメンバーに負担をかけてまで利益を出していく気はない。あくまで地道にやっていきたいのだ。ただ、メンバーにはゆっくりと仕事のできるスペースを与えてやりたいと思う。今のように、面談室をやりくりしてクライアントの予約を調整するようではいけないと思うのだ。

 社長室などというものを置くつもりはない。その代り、仁科さんの他にも事務だけでなく営業的な仕事を任せて行くスタッフを増やし、そのためのスペースも確保したい。

 すると当面は、家賃や新しいスタッフのコストは東山の報酬から消えて行くことになる。しかし、その程度で賄えるならば、それでいいと思うのだ。

 仁美の自動車学校も何とか順調に進んでいて、そろそろ仮免許の試験があるようだ。家でも時間があれば教本を開いて勉強している。

 石川工業の取締役会は二十四日の月曜日で、日曜日の昼から藤田教授と待ち合わせて金沢へ向かうことになっていた。

 木曜日に家に帰ると、仁美がいつものように東山の着替えを手伝いながら、相談があると言う。

「何だ、あらたまって相談だなんて。何か欲しいものがあるのか」

 ガウンに着かえてダイニングへ行くと、もう夕食の準備はできている。

「いいえ、そんなことでは。実は、自動車学校で困ったことが起きて」

「あまり上達しなくて試験を受けさせてくれないとか」

「もう、そっちはそれなりに頑張っています。学科の方も自信はあります」

「じゃあ何かな」

「同じころに入学した男の人に告白されて」

「なに?いや、それで」

 東山に条件反射のような嫉妬心が湧いてくる。

「仁美にはその気がありませんってお断りをしたのです。でも、諦めてくれなくて、彼氏がいるのかとか聞かれて・・・どうしたらいいんでしょう」

「仁美にその気がなければ、放っておけばいいじゃないか」

「放っておくって」

「その気がないことに理由は必要ない。ないものはない。それ以上の答えもない。向こうが勝手に告白しただけなんだろう」

「はい。お話した記憶もないのに」

「まあ、それだけの魅力が仁美にあると思っていればいい」

 感情的に許さないと言ってしまいそうになるのをこらえる。

「もう、ひと事だと思って」

「まさか。仁美にその気がないと聞いて、ほっとしている。それを嫉妬するのも大人げないだろう」

「本当にそう思ってくれますか」

「当たり前だ」

「よかった。でも、顔合わせるの、いやだなあ」

 どうやら、その男がどうこうよりも、そういう対象として見られたことに戸惑っているようだ。

 仁美が自分の世界を広げて行こうとすると、やがては避けられないことになる。それが普通の若者の世界なのだが、まだそうした他人からの視線や気持ちをうまく扱えないのだろう。とはいえ、いつまでも逃げてばかりいられるものでもない。

 ところが翌日、帰る時間が遅くなったわけでもないのに、いつも玄関まで迎えに出てくる仁美が現れない。どうしたのかと思いながらリビングへ行くと、明かりを点けることもなく薄暗い中で、床に座り込んでいる。

 東山を見上げる顔は、半ば放心しているようにも見える。

 教習所の教本の入ったバッグはテーブルに投げ出したままだ。何かよほどショックを受ける出来事があったに違いない。

「どうしたんだ、何かあったのか」

 東山は明かりを点けて、仁美の顔を覗き込む。

「先生」

「先生?」

「はい。仁美、ここでいられなくなってしまいました」

「いられないって、どうかしたの」

 優しくそう言ってみても、仁美は黙って俯いているばかりで、言葉にならない。

「どんなことがあっても、私は仁美の味方だよ。それとも、仁美は私と一緒にいることが嫌になったの?」

 仁美は、俯いたまま首を振る。

「そんなところに座ってないで」

 両腕を支えるように立たせて、ソファに掛けさせる。それには従いながら、やはり視線を上げることができない。悩みを抱えてカウンセリングを受けに来たクライアントのようである。

「言いにくいことのようだね。では、私はこれからカウンセラーになろう」

 今さら本当のカウンセリングができるわけではないが、立場を変えてやることで少しでも話しやすくしてやろうと思ったのだ。

「仁美さん、何か辛いことがあったのですか。あなたの話しやすいことからで結構ですから、心の中にあるものを話して下さい」

 芝居がかってはいるが、いつものカウンセリングを始める時の言葉をかける。そうして心の持ち方を変えると、すっとカウンセラーの姿勢と顔になる。そして心の距離も、ほんの少し遠ざけて、仁美が自由度を感じられるものにする。

 東山も仁美への親しさを横へ置いて、心の中を空にする。そして向かい合ったクライアントとして理解するための関心を向けていく。長い間こなしてきた仕事である。そのことに苦労はない。

 仁美はそれまでの東山との距離が急に変わってしまって戸惑う。しかし、すぐに東山が作り出した距離感と沈黙に操られるように話し始めた。

 今日も自動車学校の帰りに、告白された男に付きまとわれた。電車の駅までは同じ道なので、付きまとわれたというのも言い過ぎかもしれない。彼の気持ちに応える気がないだけで、気嫌いする理由もないという程度しか知らない人である。

 放っておけばいいと、何かを話しかけられても最低限の返事しか返さない。話しかけないで下さいと、はっきり言えばよかったのかもしれない。

 近づいてくると、仁美の方から距離を取るので、つかず離れずの距離で歩いて行く。しばらくは昨日と同じで、あれこれと質問をしていたが、仁美が相手にしないものだから黙るしかない。

 ようやく、諦めてくれたのかなと思っていると、今までよりも強く、ちょっと待ってと言われて、振り向いてしまう。

 その瞬間に、仁美は肩を引き寄せられて、唇を奪われてしまった。

 いやっ、と反射的に顔を背け、両手で彼を追い払おうとした拍子に、教則本の入ったバッグが彼の顔を直撃した。おかげでそれ以上近づかれることはなかったが、少しムッとした表情で、こんなに真剣に口説いているのに何だよと言う。

 何が、何だよなの。自分勝手に付きまとってきて、不意打ちのようにキスをするなんてひどすぎる。はっきりとその男が嫌いになった。拒否もしなければならないが、これ以上の暴挙を止めて身を守らなくてはならない。

 咄嗟に私には夫がいます。これ以上付きまとって来たら、無事じゃすみませんよと厳しく告げた。

 夫がいると言う言葉にひるんだようで、苦虫をかみつぶしたように顔をゆがめる。そして、負け惜しみなのだろうが、何だ傷ものかよと言い残して離れて行った。

 仁美は、口惜しさで涙が流れ、すぐには歩けなかった。

 その後、どうやって家までたどり着いたのかよく憶えていない。涙は止まったが、今度は傷ものという言葉が耳から離れない。逆に、ほんの一瞬のキスで自分が汚され、傷ものにされてしまったような気がするのだ。そんな気は毛頭なかったとはいえ、東山を裏切ったことになるのではないか。これまでのように無条件で愛されている資格がなくなってしまったのではないかと思うのだ。

 そう言って、仁美はまた涙を流した。

 東山はカウンセラーになりきっていたことで救われた。カウンセラーはクライアントの心を映す鏡であり、その感情に流されず、事実を積み重ねてクライアントを理解するだけである。でなければ、とても冷静ではいられなかっただろう。今の仁美にとってそれがどれだけショックなことであったかは、尋ねてみるまでもない。

「それで仁美さんは、もう自分は愛される資格がなくなったと思っているんですね」

 気を緩めると東山も自分の怒りに負けてしまいそうだった。

「はい。自分にその気がなかったとはいえ、油断していたのは事実ですから、言い訳にはなりません」

「仁美さんの大切な人はどう思うでしょうか。許してもらえそうにありませんか」

「わかりません。でも、買ってもらったのは、真っ白で曇りのなかった私ですから、傷ものにされたような私には、もうその価値がなくなったのではと思っています」

「曇りのなかった仁美さんですか。仁美さんの心は曇りましたか」

 東山の言葉にじっと考え込む。

「いいえ。むしろ今日のことで、その人がどれだけ私を大切に扱ってくれていたか、私にとってその人がどれだけ大切な人かがよく分かりました」

「あなたの価値は誰が決めるのですか」

 ようやく見知らぬ男への怒りよりも仁美への愛情が大きくなった。

 もうカウンセラーの真似事を続ける必要もなく、いつもの東山に戻って仁美を元気づけてやらなければならない。

 その言葉と同時に、東山の笑顔を見つけた仁美もいつもの距離感に戻る。

「それはパパさんです」

「そんなことで仁美の価値は変わらない」

「本当に?」

「もちろんだ。ほんの少しも。さあ、こっちへおいで」

 仁美は身を預けるように東山の膝に座り抱き付いてくる。

 そして消え入るような声でごめんなさいと言って、また少し泣いた。

「でも」

 ようやくそれも落ち着いて、安心を取り戻せたようだ。

「なんだ」

「パパさんとの経験がなかったら、もっと動揺していたと思います」

「そう。少しは強くなっていた」

「強く、っていうのじゃなくて、ちっちゃな自信みたいなものかな。自分でもよく分かりませんが」

 これから食事の準備をすると言うので、それをやめさせて外食にした。それもいくらか気分転換にはなったようだ。

「パパさん、明日、教習所まで仁美を迎えに来ていただけませんか」

「構わんよ。しかし、どうしてまた」

「仁美の言葉を本当にしておく必要があります」

「なるほど。迎えに行くのは喜んで行くが、しかしそれで亭主に見えるかな。かえって父親だと思われてしまうんじゃないか」

「パパさんに若作りしてもらって、仁美はうんと甘えて見せます」

「甘えるのは何とかなっても、私がいくら若作りをしても限界がありそうだが」

「そうですか?でも、年の離れたご夫婦もいますし、私が後妻であれば、成り立たないこともありません。それらしく振る舞っていただければ」

「それらしくか。あまり演技力に自信はないが、仁美のためだ。やってみよう」

 食事を終えて家に戻り、リビングで夕刊を眺めていると、仁美が鼻歌交じりにコーヒーを淹れている。

 年甲斐もなく怒りや嫉妬心に我を忘れかけたことが自分でもおかしく思える。ひょっとすると、一般的な父親が、娘の恋愛を受け入れられない気持ちと同じかもしれないとも思う。

「その男はいい奴なのか」

 仁美は、揃いのカップでコーヒーを運んでくる。

「どういうことですか」

「いや、こうして一緒にいてくれることは本心から嬉しい。しかし、だからといって仁美を縛り付ける権利があるのか、とね」

「仁美はパパさんが好きでここにいます。その人がどんな人かなんて、仁美には関心のないことなんです。だから、今は精一杯好きでいさせて下さい」

「わかった。仁美を迎えに行って、その男を睨みつけてやる」

「ううん。優しい旦那さまでいて下さい」

 そう言って、仁美は東山の隣へ座って腕にしがみついてくる。

 ふと、その仕草にほんの少し不自然さを感じてしまう。それは、出雲へ行き母親に会った時に、その中の自分と向き合うことが怖いと言った感覚と同じなのかもしれない。

 また一つ新しい自分と向き合って行かなければならないことが起こってしまった。

 東山との世界から一歩踏み出すと、そうしたことがいくらでも起こってくる。そう思うと、今だけでも仁美の存在を単純なものでいさせてやりたいとも思う。

 その夜、初めて仁美が東山を求めてきた。

 ひととき甘えていさせてやることも必要なのかもしれない。

 約束通り翌日、教習の終わる四時半に迎えに行き、仁美を車の前で待ってやる。

 今日は仁美も正月に出雲へ来ていった大人っぽい服装である。仁美に言い寄っている男が見ているのかどうかは定かではないが、少しの間立ったまま、顔を寄せて今日の教習の成果を聞いて笑い合い、大きく頷いて見せる。

 その間に、教習所での顔見知りが通ると、さよならとお互いに手を振っている。中には東山をちらりと見て、小さく頭を下げて行く者もある。東山もそれに応える。ふと、その中の一人の女性に見覚えがあるような気がした。仁美と同じくらいの年頃である。

 大学の教え子が、この近くに住んでいても不思議ではない。ただ、向こうはそんな素振りも見せず、友達と話しながら離れて行った。

 仁美の着ていたコートを取ってやり、助手席のドアを開けてやる。父親であれば、まずそんなことはしないだろう。

 その男も表現の仕方は許せないが、純粋な恋心で仁美を見ていたのかもしれない。状況が違っていれば結果も違ったかもしれない。そう思うと申し訳ない気もするが、今は仁美の気持ちを大事にしてやりたいのだ。

 そして日曜日にも仁美を迎えに行く。

 同じように仁美と話していると、昨日、見覚えがあると思った娘さんがにこにこしながら近づいてきた。

「やっぱり社長さん。昨日お見かけしてもしかしてとは思いましたんですけど。いやあ、仁美さんが仔猫ちゃんどしたか」

 モリのエリだった。

「絵梨ちゃんパパさんと知り合いだったの」

 仁美の方が驚いた。

「新地のお店のお馴染みさんどす」

「これは奇遇ですね。こんなところで」

 仁美とエリも同じころに入学していたらしい。

 年は仁美が一つ上だが、何度も顔を合わせているうちに仲良くなったようだ。とはいえ、お互いに全てを打ち明けているわけではなく、仁美は普通の大学生、エリはアルバイトで大阪の飲食店で勤めていているということになっていた。

 ところが、東山と出会ってしまって、お互いの素顔が隠せなくなってしまった。

 一緒にコーヒーでもと誘ったが、これからエリは出勤で、新地の近くまで送ってやることにする。その間に、黙っていてごめんねとあらためて自己紹介が始まった。偶然からではあるが、仁美にとっては、素顔でいられる初めての友達ができた。

 それきり、その男から声をかけられることもなくなったらしい。

 金曜日になって、加奈子から電話が入った。

 また夫婦喧嘩をしたのかとからかうと、まだ今のところ大丈夫だと笑う。

 野口の勤め先であるM電機は全国に工場や営業所を持ち、関係会社や協力会社もある。東山から仁美の母親が出雲にいることを聞いていた加奈子は、そんな話を野口にしたらしい。すると、野口は東山への恩返しだと、近くの協力会社で経営もしっかりしている会社を探してくれた。

 先日東山が美術館を訪れた安来市にある会社で、M電機にとっては山陰での最大の協力会社だった。採用状況を尋ねてみると、やはり地域柄、地元に残る学生やUターンする学生は少なく、毎年苦労をしても計画通りにはいかないらしい。総合職でも一般事務職でも新人は必要であるようだ。

 一般的な採用シーズンからは外れていて、これから紹介するのでどうなるかは全く分からないという前提で尋ねてみてくれた。すると、もちろん筆記試験や面接試験も行った上でとはなるが、いい人材なら是非とも紹介してほしいと逆に頼まれることになったと言う。

「それで、仁美さんにどうかなって。そんな状況だから、気が向かなければ断っても一向に差支えないから」

「わざわざ済まないな。恩に着るよ。彼女もすぐには決められないかもしれないが、いつまでに返事をすればいい」

「元々なかった話だから、期限はないんじゃないかな。でも、その気があれば早い方がいいとは思う。今からだったら、三月末の入社式に間に合うって」

「そうだね。早速話してみる」

「お母様と近いことがいいのかどうかは私にも分からないけど。本人の希望をちゃんと聞いてあげてね」

「それが僕の本業だよ」

 ありがたい話が舞い込んできた。

 どうしても見つからなければ、脇田社長に頼んでみることも考えていた。ただ、それは藤田教授の手前、できれば避けたい。紹介する以上、仁美と東山の関係を説明する必要がある。本当のことなど言えるはずもなく、嘘をつくのは更に嫌だった。

 どう反応するのかは分からないが、加奈子からの話をしてみる。

 すると、就職先の事よりも加奈子の心遣いが嬉しいと言う。

 ただ、やはり結論は少しだけ待って下さいと言う。いくらか自信の芽が生まれてきているとは思うものの、どう考えて行けばいいのかは見当がつかない。いつかは独り立ちしていかなければならないと、漠然とは考えていても、こうして眼の前に示されると戸惑ってしまうのだろう。

「そうか。無理をする必要ない」

「偶然なんでしょうけど、急にいろんなことが動き始めて、怖くて仕方ないんです」

「そうだな。立て続けにいろんなことがありすぎた」

「はい。それに・・・」

「ん?」

「それに、就職することになると、パパさんとお別れすることになります。いつかそうなることは覚悟してても、今は、今はまだ考えたくなくて」

「わかった。しばらく待ってもらえばいい」

「パパさん、仁美、まだ弱虫です」

「いいんだ。しばらくは全て忘れて、私だけの仁美に戻っていようか」

「いいですか?」

「もちろんだ。甘えながら、そして自分を甘やかしながら、だ」


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