第38話 雨が降る日、元カノの濡れた唇と急患の夜
雨音が診療所の屋根を叩く、しっとりと湿った夜。
古い文献に目を落としていると、扉をそっとノックする柔らかな音が響いた。
「どうぞ」
現れたのはエリシア。
手には湯気をまとったハーブティーのカップ。
甘く誘うような柑橘の香りが、そっと鼻腔をくすぐる。
彼女の指がカップを握る仕草は、まるで誘うように優雅で、薄いローブの裾が揺れるたびに心がざわめいた。
「これは……レモンバーム、カモミール、そして……ブルーマロウ? 随分と凝ってるな」
「ふふ、当たり。相変わらず鋭いんだから」
エリシアの唇が弧を描き、微笑むその顔に、かつて恋人だった頃の熱い記憶が重なる。彼女の声は低く、まるで心の奥にそっと滑り込むようだった。
「魔族と暮らすのに慣れた? 大変じゃないか?」
「意外とね、慣れてきたの。みんな優しくて……ラナは何かと気遣ってくれるし、ヴェレムは細やかな気づかいが上手い。アスリナだって、ぶっきらぼうだけど、実は誰より頼れるのよ」
「そうか……よかった」
「この前、あなたがいない時に来た魔族の子も診たわ」
「へえ」
「……少し、わかった気がした。あなたがどうしてこの診療所をやっているのか。魔族も人間も、患者は患者。そういうことよね?」
その率直な言葉が、胸の奥を静かに揺さぶる。
彼女の声には、かつて共に理想を追いかけた日々の響きがあった。
エリシアはふと動きを止め、長い睫毛が作り出す影が頬に揺れる。
彼女の瞳は、夜の湖のように深く、静かな光を宿してこちらを見つめる。
その瞳から目が離せず、視線が絡まりあった。
距離がわずかに縮まり、彼女の吐息が頬をかすめるほど近く、甘いハーブの香りが漂う。
その瞬間、胸の奥に懐かしさがこみ上げた。
かつての彼女——夜通し語り合い、患者を救う夢を分かち合ったあの頃のエリシアが、目の前にいる。
彼女の柔らかな微笑みに、愛おしさが抑えきれず、心が熱くなる。
——その瞬間、心臓が強く脈打つ。
指先が彼女の頬を滑り、温かく柔らかな感触に触れると、彼女の唇から小さく「ん♡」と甘い声が漏れる。
彼女の体がわずかに震えた。
その声は、甘く掠れた響きで、俺の胸を鋭く突き刺す。
まるで過去の親密な夜が一瞬で蘇るかのように、懐かしさと熱い愛おしさが波のように押し寄せる。
心の奥で抑えていた想いが溢れそうになり、彼女の震えとその小さな声が、俺の理性を揺さぶった。
指先が彼女の肌に留まる一瞬、時間が止まったような錯覚に陥る。
——この感覚、なんなんだ。
手を伸ばしたまま、心の奥に一抹の疑問がよぎる。
(……なぜ、あの時、手を離した)
(ギルドの制服を纏った背中。遠ざかる足音)
(それでも——この香りは変わらない)
どうせまたうまくはいかないのではと思う。それでも、衝動は止まらない。
吐息が触れ合い、濡れた艶が至近距離で揺れる——その瞬間。
バンッ! 重い木の扉が震えた。
「急患だ! 先生達、往診これるか!?」
エリシアと目を見合わせ、瞬時に立ち上がる。机の端に置かれたカップから、なおもハーブの甘い香りが漂う。
「行くか」
「ええ」
救急箱を手に、俺たちは雨の夜へと駆け出した。
彼女の背中を追いながら、心のどこかでまだあの懐かしさと愛おしさの余韻が、静かに響いていた。
***
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https://kakuyomu.jp/works/16818792435685695540
現在、第4回「G’sこえけん」音声化短編コンテストに応募するため、スピンオフとしてヒロイン達のASMR回想録を制作しています。
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