第21話 夢魔に問われて惑う俺 ~先生、それは心と体、どちらの契約破棄ですか?~

飛竜レオナルトの背に乗って、魔王軍の砦へと向かう。

夜の風は冷たく、月は静かに空を照らしていた。


俺の中で渦巻くものは、怒りでも、悲しみでもない。

もやもやとした感情が、ただ静かに胸を占めている。


──それに、少しだけ嫌な予感がしていた。


塔の屋上に降り立つと、待っていたようにヴェレムが姿を現した。


「夜分にどうしました、先生」

「聞きたいことがある」


口から出た声は、思ったよりも低く、固かった。


「……本当に、俺を軍医長にするつもりだったのか?」


ヴェレムは少し目を細めて、わずかに肩をすくめる。


「当たり前でしょう。私が冗談を言うように見えますか?」

「だったら、答えてくれ」


俺は一歩、踏み出す。


「お前は、『医療行為の延長』と言った。

 だが、俺が治療した蒼爪属……そいつが村の子供を襲ったと聞いた」


ヴェレムの表情に、わずかな陰りが走った。


「……蒼爪属。そんなはずはないのですが」

「聞く。俺が治療した患者は、人を襲うのか?」

「そうだとしたら、どうします? 契約を破棄しますか?」


その言葉を聞いたとき、俺の中で、首に巻き付いた細い指と、

かつて感じた命の危険が、鮮明に蘇った。


魔王軍は、平然と人を殺す──そう思っていた。


目の前の美女の顔を見て、冷たい汗が背を伝う。

目線の高さは同じだが、その瞳に見下ろされるような錯覚があった。


生唾を飲み込んで、それでも。


「……破棄する」


俺はその言葉を口に出した。

ヴェレムの瞳が細められた。 微笑が浮かぶ。


「……強いですね、先生は」

「正しさを貫けるほど、強くはない。

 ただ、俺の手で治した奴が、子供を襲うのは──耐えられない」


ふと、間が空く。


「……我々、魔王軍でも、意見は分かれています。

 人間と争いたい者、争いたくない者。

 誰もが同じ方向を見ているわけではない」

「お前らは?」

「我々は、人間と争いたいとは思っていません」


俺はわずかに目を細め、もう一歩だけ踏み込む。


「魔王は? 人間と争いたいのか?」


ヴェレムの表情が、ふっと静かに翳る。


「……まだ、話すときではありません」

「だったら、はっきりさせよう」


俺は息を吸い、真っ直ぐに彼を見据える。


「治療を受ける者は、人間を襲わない──その契約を交わしてくれ」


ヴェレムは一拍、黙って俺を見つめた。


「……私の一存では」

「妥当な提案だとは思う」

「善処します。お約束はできません」


俺は少しだけ目を伏せる。

そのやり取りを終えたときだった。

風が吹き抜ける音の中、すっとヴェレムの姿が俺の間合いに入った。


そして突然、ヴェレムの手が俺の頬に触れた。


「っ……なにして──」

「……先生……。破棄すると言われて、私はどう感じたと思います?」


淡い声。それでいて、芯のある問いだった。


「本当はとても傷ついたのですよ?

 私にとって先生は、思っている以上に大事な存在なんです」


その言葉に、思わず息を呑む。

その距離、わずか十数センチ。


見つめ合う俺たちの目線は、同じ高さにあって。

なぜか、彼女の瞳から目を逸らせなかった。


「先生って、ほんと、察しが悪いんですね……。

でも、そういうところ、嫌いじゃありません」


その声には、いつもの冷静さに混じって、かすかな照れと棘があった。

気づけば、胸の奥に小さな痛みが生まれていた。


「……ふざけんな」


俺は手を払う。

呪縛が解けた。


「……もう一つ、頼みがある」

「はい」


俺は息を整え、言葉を継ぐ。


「俺が治療した蒼爪属。名前は『ガロス・ジン』。

彼が本当に村の子供を襲ったのか調べてほしい」


ヴェレムは目を伏せ、わずかに頷いた。


「わかりました。調べてみましょう」


彼女の声は、いつものように冷静だった。

それが逆に、俺の中の怒りを冷ましていく。


「……それだけ伝えに来た。じゃあな」


背を向けたとき、ヴェレムの声が背中越しに届く。


「先生。……必要とされる場所に居てください」


振り向かなかった。


飛竜の背に乗り、夜空へと舞い戻る。

塔が遠ざかる。


「……急いでくれるか?」


飛竜レオナルトに声をかける。


なぜだろう、胸の奥に、ざわつくものがあった。

言葉にはならない。だが、妙に胸騒ぎがする。

冷たい夜風が、背筋をなぞるように吹き抜けた。


***


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