第6話 キスの手前で、心が堕ちる

「これ、報酬です」


ヴェレムが差し出してきたのは、ずっしりと重い革袋だった。

手に取った瞬間、ずっしりとした重み。中身は金貨。


……これ、家賃払えるな。薬草も補充できる。

あと、あの絶版本の古医術書——


……いや、違う。金のためじゃない。

でも、本は、ちょっと……別だ。


「あと……契約書です」


目の前に置かれた紙束を見た瞬間、背筋に冷たい感覚が走った。


その時だった。

俺の戸惑いを見抜いたように。


ヴェレムは、音も立てずに机に手をついた。

身を乗り出す。


金色の目が、ほんの数十センチの距離で、真っ直ぐ俺を見つめている。

瞬きもせず、目を逸らさぬまま、

冷たい指先だけが――視界の端で、契約書の紙面を這っていた。


「先生の医術は、魔王軍……いいえ、私にとっても貴重なものです」


(いや、なんで今、こんなに鼓動が早いんだよ……)

(俺の医術が“貴重”って。こいつが言うと、なんかズルいな)


囁かれた言葉が、耳に残ったまま動けなかった。

気が付くと、ヴェレムの唇が、俺の顔のすぐ近くまで来ていた。


ほんのわずか——吐息が唇に触れるほどの距離。

そのままキスされてもおかしくない距離感。


(……やば、なんだこれ)

(キス、されそうになって……いや、俺が……したくなった?)


そんなはずない、と頭では否定しても、胸の奥が妙に熱い。


(……これ、近すぎるだろ……)


肩に置かれた指先が、白衣ごしにじわりと重みを伝えてくる。

その感触は、まるで、逃げ場のない力だった。


「ご安心ください、先生。これはあくまで、医療行為の延長です」


その言葉が、まるで耳元に囁かれたみたいに響いて——


「人間社会には、いっさい害は及びません」


それは、優しい嘘かもしれないし、心からの慰めかもしれない。

……どっちにしても、もう逃げられないってことだ。


「これ……逃げられないやつだよな?」

「ええ、もちろん。あなたは、もう逃げられませんよ。……セレン」


ヴェレムの手が、ふいに俺の首筋へ伸びた。


表情は変わらない。

けれど——意図は明白だった。


“命は私が握っている”


また、瞳孔が蛇のように縦長に形を変える。

署名する以外の選択肢はなかった。


こうして俺は、魔王軍の非公式診療所で働くことになった。


……どうすんだよ、俺。

たぶんもう、後戻りはできない。


***


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https://kakuyomu.jp/works/16818792435685695540


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