帝国退魔鬼譚 ~我が宿敵に口付けを~
裃左右
第1話 捕食(前半)
月さえ畏れ。分厚い雲に、その貌隠す夜だった。
潮風に嬲られ、赤さびた鉄骨が骸のように下がる廃工場。
割れた窓から吹きこむ風。剥がれかけたトタン屋根が一部、カラカラ虚しい音を立てる。
鼻に突くのは、潮とカビ……油。そして、死の匂いだ。
「――チッ、しぶとい野郎だ」
こびりつく湿気絵、額に張付く前髪が鬱陶しい。鍛え上げられた逞しい胸板が、荒い息遣いに合わせて激しく上下。流れる汗は、顎を伝い、僅かに開いた襟元へと吸い込まれた。
「卜部流退魔術・破魔二式――『
ピリ、と空気が裂けた。
壱武が結ぶ印に、鋭い気合。退魔刀に蒼白い光が迸る。
対峙するは、非業の死を遂げた者たちの寄り集まり。怨念が形を成した怪異。
――『
光輝に照らされた一太刀ッ!
だが、金切り上げて、二つに裂かれた『澱』たちは分裂。倍の数となって、今度は四方八方から襲いくる。
「クッ、分裂するとはな。このままじゃジリ貧だっつの!」
多勢に無勢。
いくら“卜部の神童”と謳われる一武でも、無限のほどに増殖する悪意には分が悪い。
左腕を鋭い怨念の爪に浅く切り裂かれ、じわりと血が滲んだ。瘴気が傷口から浸食しようとするのを、咄嗟に霊力で押し留める。
「はぁ、はぁ……っ! 一人で来るべきじゃ、なかったかもな」
我ながら、驕ったか。過ぎるは後悔。
先ほどからこの繰り返し、一体一体は取るに足らぬ小物。だが、数が多すぎる。
袖が破れ、肌に赤い線が走るたび、怪異どもの飢えを煽った。
そんな攻防が、血が尽き果てるまで続くか――思ったその時。
「――ほう。雑魚相手に、随分と手間取っておるではないか、卜部の小童」
嘲りが、突如として頭上から降り注いだ。
どんな喧騒の中にあっても聞き逃しようのない、人心を絡めとるような、抗いがたい響き。
――背筋をぞくりとさせる抗い難い余韻。
闇の中に淡い栗色の髪と、白い着物の裾だけが、ぼんやりと浮かび上がっている。
「なっ……! お前、なんでここにっ!? 来るなと、あれほど…!」
「我がどこで何を眺めようと、我の勝手よ。それより、ほれ。余所見をするでない……死ぬぞ」
「チッ、“そっち”のお前かよッ!」
真横から迫る怨念の塊を、壱武は反射的に屈んでかわす。空を切った爪は、黒髪を数本、ハラリと刈り取った。
「クソがッ、破魔三式――『
懐から、数枚の呪符を宙に解き放つ。
さすれば呪符は、紫電を纏いながら結界を展開。迫っていた怪異たちが、バチバチと弾け飛び、焦げ臭い異臭を残して霧散。
だが、それも焼け石に水。後から後から、床のシミが蠢くように、新たな個体が湧いて出てくる。
「おかわりなんて頼んでねえよ!」
体力も、霊力も、徐々に限界へと近づいていた。顎の先から汗が滴り落ちる。結界も、長くは保たない。
梁の上の影が、くつくつと喉の奥で嗤った。
「見苦しいのう、卜部の末裔ともあろう者が。まさか、その程度か?」
「だ、まれッ! 手を、出すなッ! これは俺の……ッ!」
これは俺の“仕事”だ。虚勢は息切れに変わり、途切れる。
霊力の刃を振るい、怪異を散らす。だが、その動きも明らかに鈍り、やけに多く集まった怪異の群れに呑み込まれつつあった。
やがて、一体の怪異が、ついに結界を破りて。黒腕を壱武へと伸ばす。
(――まずいっ!)
避けきれない。そう覚悟した。が、何の衝撃も到達しない。
梁の上の存在が、ふわり、眼前に降り立ったのだ。白い着物が舞いゆれると、真っ白な肢体がちらりと露わになる。
「まあ、よし。……ここで貴様に死なれては、つまらぬが故な」
その貌は、壱武がこの世で誰よりも守りたいと願うそれ。
だが、瞳に宿る妖しさは――魔である。
蝶が舞うように。“それ”が優雅に指先を振るう。指の先から出でるは、漆黒の焔がゆらりと灯り昇るのだ。
「滅せよ、塵芥ども」
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