初春 〜コーヒー紅茶にミルクを添えて〜
淺琲 凜李子(あさひ りいこ)
日笠 裕二(ひかさ ゆうじ)
休日の昼前、体のリフレッシュのために軽い散歩をした後、近所のカフェへ行きランチを嗜む。これが俺、
…なんてカッコよく言えたらどれだけいいことか。実際は持ち帰った仕事やたまの家族サービスでてんてこ舞いのことが多い。普段通りなら、今日も疲れて寝不足な体に愛娘のダイブを決められて昼過ぎに起きるはずだった。
そう、普段なら。ここ最近はありがたいことに仕事が落ち着いていて、定時退社ができているため夜はぐっすり眠れている。さらに、お彼岸が近いということで妻と子供達は昨日から長野県にある義実家へ行っている。毎年そうなのだ。妻はお義母さんの作るおはぎが大好物で、お彼岸には必ず神奈川にある我が家から三時間ほどかけて車で帰省している。そのおかげか中学生の息子と五歳の娘もおはぎが好物になりつつあり、娘に至ってはサンタクロースにもおはぎをお願いする有様だ。幸せそうにおはぎとクリスマスケーキを頬張る姿がそれはもう可愛くて…と、話が逸れてしまった。そんなわけで、今俺には珍しく平和な休日が訪れている。
だからなのか無性にいつもと違う一日を過ごしてみたくなった。特別な休日を俺なりに満喫するためにはどうしたらいいか。考えついたのが『カフェで優雅なランチ』だった。思い立ってしまうと
いつも昼過ぎに起きて食パンを齧るだけだった朝食(という名の昼食)があら不思議。レタス、ベーコン、チーズが挟まったトーストサンドに早替わり。傍らには優しく湯気の立ったブレンドコーヒーが添えられて受け取りカウンターに並べられている。
「お待たせいたしました」
笑顔の女性店員さんによってランチセットが木製のトレイに乗せられる。俺はそれを受け取って「どうも」と返し、座席を探し始めた。
こういう時、俺は座る席が大体決まっている。店の一番奥、窓際、カウンター席なら更にいい。そう思いながら辺りを見回すと、なんということだろう、俺が思い浮かべたのとそっくりそのままの席が太陽に照らされて輝いている。まるで「あなたのために温めておきました」と言わんばかりの輝きに吸い寄せられるまま俺はトレイをテーブル上に置いた。
カタン、とトレイを置く音が自分の他にもう一つ聞こえて視線だけを右に向ける。どうやら同じタイミングで入店してきた女性もカウンター席を選んだようで、俺の二つ右隣の席に腰を下ろした。店内はそれなりに人がいるとはいえ席にはゆとりがある。わざわざ俺の近くに座らなくてもと少し違和感を抱いたものの、もしかしたらこの人にも席のこだわりがあるのかもしれないと自分に言い聞かせ、それ以上は考えないことにした。
それよりも目の前のランチセットだ。焼きたてのトーストサンドに緩やかな湯気をたてるコーヒー。冷ましてしまっては失礼極まりないというもの。早速コーヒーカップに手を伸ばし、一口目をいただこうとした時…
ブー、ブー、ブー
テーブルに置いておいたスマホが震える。画面を見ると『お義母さん』の文字。義実家で何かあったのだろうか?とすぐに通話ボタンを押し、スマホを右耳に押し付ける。
「もしもし?」
『ああ、
ゆったり喋るお義母さんの声がスマホ越しに聞こえてくる。どうやら緊急事態というわけではないようだ。安堵のため息と共に、それなら本題は一体何なのだろうという疑問が浮かぶ。
目の前の美味しい誘惑に抗いながら未だ電話をかけた経緯について話し続けるお義母さんの言葉を遮らせてもらう。
「電話ありがとうございます。今日は少し早く目が覚めたので早めの昼食を摂っていたんですよ。もしかして
最近電話越しの声が聞き取りにくいと言っていたお義母さんに合わせて少しゆっくりめに話す。声が漏れないよう左手を口元に当て、電話が長くなるようなら一旦外に出ようかなどと考えながら妻と子供達について尋ねてみるが、どうやら本題はその三人のことではないらしい。若干のラグの後に少し上擦ったお義母さんの声が聞こえてくる。
『そうそう!今回のお彼岸で作るおはぎなんだけどね、いつもと変えてみようかなと思って。でも作った後あの子が持って帰るのを裕二さんも食べるじゃない?それなら裕二さんにも聞いてから作らなきゃと思ったんだけど、
電話の向こうで少し不満気な声を出し話し続けるお義母さんに適当な相槌で応えていると、肘を乗せているカウンターテーブルが突然揺れた。何事かと右隣を見ると、二つ隣に座る先ほどの女性がテーブルに手をついて立ち上がり、誰かと電話している様子が伺えた。あの人も誰かに愚痴を言っているのだろうかと一瞬考えてすぐに自分の右耳に意識を戻す。
『それでね
いつの間にか話題がおはぎから孫へと変わっていることに驚きつつも、話が
「いやぁ、そのお気持ちは僕も十分わかりますよ。それで、今回のおはぎを変えるっていうのはどういう…」
少し冗談っぽく言った後に声を落とす。いつも義実家で作られたおはぎを妻が持って帰ってきて俺にも食べさせてくれるのだが、これが本当に美味しくて。実のところ、義実家のおはぎは俺の好物でもあったりするのだ。それを変えるとは、一体何をどのようにと先ほどから気になってしょうがない。
『ああ!そうよね、何のために電話したんだかわからないわ』
ふふふ、と上品な笑い声を立ててお義母さんはやっと本題に入った。
『今回のおはぎなんだけどね、“
「み、皆殺し、ですか?」
朗らかな声に似つかわしくない単語が聞こえ、思わず聞き返した後にしまったと辺りを見回す。幸いにも二つ隣の女性は電話に夢中。他のお客さんも聞こえなかったのかこちらを伺うような視線は感じられない。
「おはぎの話ですよね?」
『そうそう。いつもは“
「そうだったんですね。なるほど」
ちなみに、お義母さんの言う“半殺し”“皆殺し”というのはおはぎのもち米の潰し方のことで、断じて犯罪に関する話ではない。米粒が半分くらい残るものを“半殺し”、残らないほど潰したものを“皆殺し”という。
なんとも物騒な方言だ。
『それでどっちを作るか迷っているんだけど、
『ちょっとお母さん!子供の前ではやめてって言ってるでしょ!』
お義母さんの声に被せるようにもう一人の声が電話の向こうで響く。
『そんなに気にしんでも大丈夫よ』
『いいから気をつけて!』
『おお怖』
そんな母娘の会話が聞こえてくる。心なしかどちらも俺と話す時より訛りが強くなっている気がする。
『自分だって小さい頃からそう言っていたのにおかしな子よね』
「
お義母さんのまた愚痴っぽくなった声が聞こえる。正直俺も子供達にはできるだけそう言った言葉を使って欲しくないので、ここは
「僕は慣れましたけど、こちらのお友達に使っちゃうと怖がらせちゃうかもしれないのでそう言ってるんだと思います。なので聞こえないように少し小声で話しますか」
だいぶ声量を落としてそう言うとお義母さんも仕方がないと言うように声を落とした。声量を落としたことで聞こえているか心配だったけれど、どうやら杞憂のようだ。
それから数分ほどおはぎや世間話などをして電話を終えた。テーブル上のランチセットはすでに冷めてしまっていたけれど、これで口の中を火傷することがなくなったと思えばいいか、とコーヒーを一口飲む。
芳ばしい香りが口内に広がったところで少し硬くなったトーストサンドを手に取る。同時に空腹を思い出したように腹がグゥーと鳴った。今すぐ満たしてやるからなと勢いよくトーストサンドにかぶりついたところで、遠くの方から近づくサイレンの音に気がついた。休日なのに大変だなあと咀嚼を続けていたのも束の間、サイレンは驚くことに俺の目の前で止まったのだった。
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