第2話:王都からの隔離と希望の剥奪

 森の中は静かだった。

 それなのに、ハルトの耳には、まだあの少女の嗚咽が残っていた。


『……やっぱ、ダメ……ごめん……』


 ルネがそう言って姿を消してから、もう三日が経つ。


 風にそよぐ木々の音。鳥の鳴き声。小さな虫の羽音。

 世界はこんなにも生きているのに、なぜか彼の存在だけが、そこに馴染んでいなかった。


 火を起こす。パンをかじる。水を飲む。

 最低限の生存はしている。でも、それだけだった。


「自由、ね……」


 ハルトは草むらに腰を下ろし、ぽつりとつぶやいた。

 王都から放り出された自由は、ただの放逐だった。

 どこに行っても、誰かに拒まれる。

 あの力が、彼に選択肢を与えなかった。


 口臭スキル《毒息》。

 それは、殺意のない人間をも無差別に傷つける、まるで呪いだった。


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 森の奥で、彼は「家」のような場所を作った。

 拾った枝を組んで屋根を作り、石と泥で囲って風を防ぐ。

 獣道で動物の気配を感じたときは、深呼吸すれば大抵逃げてくれた。


 幸か不幸か、彼の悪臭は、動物ですら本能的に避ける。

 それが、安全の証だった。


 だけど、何日経っても眠りは浅かった。

 夜、夢を見るのだ。

 誰もいない教室。

 後ろの席から、嘲笑が聞こえる。


『くせーんだよ、お前』

『なんか病気持ってんじゃね?』

『こっちくんなって』


 ──違う。俺は、悪くない。

 ──俺は、ただ、普通に生きたかっただけなのに。


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 その日、森に異変が起きた。


 獣の叫び。

 地面を揺らす重低音。

 空に舞う黒い羽。


 ハルトが木陰からのぞくと、そこには──人ではない、何かが立っていた。


 肌は灰色、目は深紅。角を持つ異形の姿。

 周囲にいた狼や熊たちが、皆うずくまり、痙攣していた。


「……毒の匂いだ。まるで……あいつと同じ」


 その異形の者は、ハルトの臭いを追ってきたのだ。


「こちらにいるな。ハルト=キサラギ」


 そう、確かに名前を呼んだ。

 それは、女の声だった。低く、澄んでいる。だが、冷たさと理性に満ちていた。


「出てこい。我々は敵ではない。……少なくとも、今はな」


 ハルトは警戒しながら、ゆっくりと姿を見せた。


 距離はあった。だが、例の悪臭はすでに届いているはずだった。

 ──それでも、その女は眉一つ動かさなかった。


「君の名は如月ハルト。異界から来た勇者候補。

 王国より捨てられし厄災」


「……誰だ、お前」


「リシェル・バロル。魔王軍参謀」


 ハルトの足が止まる。


 「魔王軍」──つまり、この世界で最も危険とされる敵勢力。

 彼らがなぜ、こんな場所に?

 なぜ、俺の名前を知っている?


「君の力を見に来た。いや、正確には“匂い”を」


 彼女は手をかざすと、黒い霧のようなものを操り、周囲の空気をかき混ぜた。

 霧の中に含まれる微粒子を、魔法で視覚化しているようだった。


「……なるほど。空気中に分解されない有機腐敗因子。

 毒素としての分類はAランク……いや、これは兵器レベルだな」


「分析しに来ただけか?」


「いや。君を迎えに来た」


「……は?」


「君の力は、王国では忌み嫌われる。だが、我ら魔族にとっては戦力だ。

 君の存在が、均衡を崩す鍵になる」


 ハルトは絶句した。

 あの王国で、誰にも触れられず、拒まれ続けたこの力を“欲しい”と言われたのは、これが初めてだった。


「お前ら……本気か?」


「もちろん。だが、強制はしない。

 我々の元に来るか、この森で野垂れ死ぬか、それは君が決めろ」


 リシェルは最後まで、表情を崩さなかった。

 その理性的な冷たさが、むしろ信用に足るように思えた。


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 その夜、ハルトは火の前に座って考え続けた。


 人間として生まれ、拒絶され、異世界に来ても、また拒絶された。

 力があるのに、居場所がない。

 ならば……この力を、誰かに必要とされる場所で使いたい。

 自分の存在を、証明したい。

 だから──




「連れてってくれ」


 翌朝、リシェルの元にそう言ったとき、彼女は一瞬、黙った。


「後悔するかもしれない」


「……もう十分した」


「なら、ついてこい。これより君は、魔王軍特別戦力黒息の候補だ」


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 そのときはまだ、知らなかった。


 自分の選択が、この世界の均衡を、そして信じた希望さえも、じわじわと蝕むことになるということを。


 だが今、彼の足は確かに前を向いていた。

 世界に背を向けられ続けた少年が、ようやく自分の居場所を見つけた気がしていた。


 ──それが、ほんの僅かでも救いに見えたのなら、この物語の始まりとして、それはきっと正しかった。

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