CASE 3 気まぐれな空気、わたしのかたち

 そのカフェは、路地裏にひっそりと佇んでいた。

 古びた木枠のドア、ガラス越しに見える観葉植物、テーブルごとに異なる椅子。店主の趣味が詰め込まれたような、ちょっとだけ気取った空間だった。

 昼下がり、BGMは控えめなジャズ。氷の溶ける音、ページをめくる音、そしてときどき、カップを置く音。

 亀井絵里はその音の隙間を縫うように、静かに動いていた。

「ご注文、お決まりでしたら……」

 そっと差し出したメニューに、客が顔を上げる。そのまなざしの奥に、ふと小さな苛立ちが滲んでいるのを見た。

(……さっき電話してた相手かな)

 相手の表情は笑っていた。でも、絵里には“怒ってる”ことがわかった。

 言葉じゃない。“空気”が伝えてくる。

 空気が、感情の輪郭を連れてくる。

 自分が何もしていなくても、誰かの気分がこの空間に染み込んで、少しずつ伝染していくのがわかる。

(まただ)

 ため息は、飲み込んだ。かわりに、笑顔を浮かべてペンを走らせる。

「アイスコーヒー、ひとつ。かしこまりました」

 注文を聞いて席を離れると、背後で空気が少しだけ緩んだ気がした。

 (誰かの気分が、まわりに波のように広がる。それを敏感に感じてしまう……)

 絵里には昔から、そんな感覚があった。

 楽しい空間にいれば、自分も楽しくなる。誰かが不機嫌なら、自分もなぜか息が詰まってくる。

 そして──それだけじゃなかった。

 彼女の“気分”もまた、空間に染み出していくのだ。

 今日みたいに、自分が落ち着いているときは、店内の空気も穏やかになる。

 逆に、不安や焦りを抱えているときは、些細なことで客が苛立ちを見せる。

 (あたし……なんか、変なのかな)

 理由はわからなかった。ただ、昔からそうだった。

 誰にも話したことはない。

 誰かに話して、「気のせいだよ」と言われるのが怖かった。

 カップを拭きながら、ふと、そんな自分を遠くから見ているような気がした。

 (あたしは……どうしたいんだろ)

 ただ目立たず、波風を立てず、誰の記憶にも強く残らずに日々をやり過ごしていた。

 でも、それでよかったのか。

 ほんとうは、何かを求めていたのではないか。

 そんな問いが、いつからか胸の奥に残るようになっていた。


 バイトを終えて帰宅すると、部屋は薄暗かった。

 午後五時過ぎ。西日がカーテンの隙間から斜めに差し込んでいる。

 靴を脱ぎ、カバンを置き、冷蔵庫からペットボトルの水を取り出す。

 その一連の動作のどれにも、感情はほとんど乗っていない。

 (疲れた……ってほどじゃないけど……)

 今日は空気の波も穏やかだった。特別なことはなかった。だからこそ、絵里はどこか、言い知れぬ虚しさを感じていた。

 ソファに沈み、リモコンでテレビをつける。誰の声かも分からないナレーションが、ひどく遠く感じた。

 (……“この感じ”、なんなんだろ)

 ふと、胸のあたりがざわついた。

 “静かすぎる”。

 そう感じた。

 街の喧騒も、テレビの音も、なぜか遠のいていく気がした。

 まるで世界が、自分を中心に“黙っていく”。

 次の瞬間──

 部屋の隅、観葉植物の影が、すうっと“揺れた”。

 風はない。窓も閉めたまま。

 けれど確かに、その影は意志を持って動いたように見えた。

「……だれ?」

 声に出してみたが、返事はない。だが、気配は確かにあった。

 不安? 恐怖? ──違う。

 (これは……“見られてる”)

 誰かが、じっとこちらを観察している。そんな視線のような感覚。

 ……そして、その“視線”に、自身の感情がざわざわと反応するのを、絵里は感じた。

 (いや……“感情”じゃない……“空気”が……動いてる)

 思わず立ち上がった瞬間、部屋の気温がほんの少し下がった気がした。

 その中心には、“何か”がいる。

 でも──姿は、見えない。“存在”だけが、確かにある。

 そのとき、空気の波が揺れた。

 まるで、感情の水面に石が落ちたように。

 心の奥底に、波紋が走った。

 それに呼応するように──“影”の姿が、ようやく見えた。

 光と空気の中間のような、朧げな人型。

 薄く、静かに揺れるその影は、やがてゆっくりと形を結んでいった。

 スモーキーな半透明の装甲、繊細な曲線で構成されたしなやかな肢体。関節部には微細な結晶が浮かび、動くたびに光が反射する。

 顔は仮面のように無表情で、口はなく、目の位置にだけ薄くオレンジ色の光が灯っていた。

 背中には、風紋のような流線形の紋様。

 その紋様が、絵里の心の波とリンクするように、淡く脈打っていた。

「あなた……わたしから、でたの……?」

 その瞬間、空気がふわりと変わった。

 部屋の“気分”が、自身の内側と完全に一致するような感覚だった。

 まるで空気に色を塗っていくような──

 それは、幼い頃に好きだった塗り絵に似ていた。

 染まった空気にあてられた蛍光灯が、ふわふわと色を変える。

 淡い橙色に青色が混ざり、黄色い輪郭がそれを覆っている。期待と不安。予感と好奇心。今の自分の気分を現していた──

「やっぱり間違ってなかった」

 絵里は悟った。

 自分からでたこの“存在”が、自身の感情に共鳴し、その場の空気そのものを“操っている”ことを。

 今まで心の何処かで、そんなことがあるわけがないと言い聞かせようとしていた。普通でいなきゃいけない、と。

 でも、違った。本当は知ってほしかった。だから、意図して自分の気分を場に反映させていた。

「わたしが、空気を変えちゃってるんだよね」

 そう言ったとしたら、きっと笑われたに違いない。変な目で見られていたに違いない。

 でも今なら言える。

 わたしには、不思議な“力”が確かにある。

「……名前は、気まぐれプリンセス……」

 不意に、そう呟いた。

 名付けたというより、“思い出した”感覚だった。

 その瞬間、“彼女”の背にある紋様が、嬉しそうに形を変えてきらめいた。

 室内の空気が入れかわるような感じがした。──まるで、富士山の日の出を見ている様な気分だ。

 先程まで無感で捉えていたものに色がついたような──、普段ならドキリとするスマホの着信音でさえ愉快に思えて、自然と身体がリズムを刻む。

 彼女は、小気味良く体を揺らしながら電話にでた。店長からだった。向こうからかかってくるのは珍しい。

「もしもし」

「もしもし絵里ちゃん、目覚めたんだね」

「さっき家についたばかりですよ。寝てなんてないでーす」

「あはは、そうきたか。でも、僕には視えているよ。君のスタンドがね」

「──スタンド、ですか?」

 絵里は気まぐれプリンセスに目を向ける。

「どうやって視ているか気になるかい?」

「え、っと、なんのことだかさっぱり。あの、用事を思い出したんで失礼します」

 そう言って彼女は通話を切った。

 それから直ぐに部屋を漁った。どこかに監視カメラがあるのかもしれない。

 しかし、テレビの裏、ベッドの下、タンスの隙間、どこを探しても見つからない。

 すると、次第に怒りがこみ上げてきた。

 女の子の部屋を監視しているだなんて、変態じゃない。親でもないのに、なんの権限? いい人だと思っていたのに──

「なんなのよ!」

 絵里の感情の昂りに合わせて、気まぐれプリンセスの目の光が濃くなっていく。

 そうして、突如、部屋の隅にある観葉植物の根元からボウッと小さな火の粉があがった。

 同時に、そこから「ぎゃっ」と、小さな悲鳴が聞こえた。

 彼女はハッとしたように声の方へ行き、観葉植物をまじまじと見た。

 火は消えている。でも、なにかが燃えたのは確かだ──

「あれ」

 絵里は思わず呟いた。

 根元の土に、焦げた虫が仰向けで転がっている。見たことのない虫……。いや、よく見るとテントウ虫のような丸い胴体から、人間のような細い手足が生えている。

 そういえば、観葉植物をすすめてくれたのは店長だった──『葉が垂れ下がっているタイプが可愛くておすすめだよ』

 彼女はまさかと思い葉っぱを捲る。

「きゃあっ!」 思わず尻もちをついた。

 葉の裏に、びっしりと“テントウ虫”が張り付いていた。

 しかも、数十匹はいるであろうその“テントウ虫”は、彼女に見つかった瞬間、一斉に葉から飛び立ち、纏まってホバリングをしたまま、彼女の前へ躍り出た。

「見つかってしまったようだね。これが僕のスタンド<ひょっこりひょうたん島>だ。ヘンテコな名前だが、なかなか便利でね」

「な、なんですか!? 店長──!?」

 目の前にいる虫の塊が、店長の声で喋っている。亀井は気を失いそうだった。

「君もスタンドを使うんだ、そんなに驚くことはないだろう? あ、もしかして虫が苦手なのかい?」

「む、虫もだし、店長もだし、スタンドとかいう意味のわからないものも全部嫌いです!」

「あいたた。そうか……一応、聞いておくけど、暗黒教に入らないかい?」

「なんだかわからないけど絶対に嫌です!」

「そうか……残念だな。一応、断られたら殺せって言われていてね」

「殺す……って……」

 絵里の心臓の鼓動が一段と速くなった。殺されるなんて絶対に嫌。この状況も、店長も、何もかも──嫌。

「僕のスタンドは非力だから、苦しむことになるかもしれない。可哀想だけど、許してくれよ」

 虫の大群が大きく広がる。

 絵里は、それを見てキレた。

「ふざけんなよ!」

 その言葉に呼応するように、これまでただ佇んでいるだけだった<気まぐれプリンセス>が、素早く動き、虫の大群に蹴りをいれる。

「やるなぁ。でも僕のスタンドは群体型。点や線の攻撃はあまり意味がない」

「じゃあ──」

 と、彼女の視線が一瞬、観葉植物を向く。

 最初に虫の一匹を焼いた火は、きっと自分の気分がこの場に伝染した結果だ。あのとき抱いた怒り、それを思い出せ──店長が“ムカつく”──

 <気まぐれプリンセス>の目がオレンジ色に輝いた。

 次の瞬間──ボッ! と虫の大群が燃え上がる。

「ぎゃあああああああ」

 虫──店長が叫び声をあげ、窓ガラスを割って外へ逃げていく。

 絵里は窓を空けて外を見た。“店長”の姿はすでになかった。

 安堵と共にどっと疲れが押し寄せ、彼女はその場にへたり込むように膝をついた。

「なんなのよもう……。……スタンドって……あなたもスタンドなの?」

 <気まぐれプリンセス>が部屋の中央でゆらゆらと佇んでいる。答えは返ってこない。でも、わかる。だって、彼女は──

「助けてくれたかと思ったら無視とか、気まぐれすぎ……本当の私にそっくり」

 絵里は小さく微笑んだ。

 すると、<気まぐれプリンセス>は蜃気楼のように薄くなっていき、消えていった。

 居なくなったわけではない。胸に手を当てると、“彼女”の存在を感じる。

「ていうか、新しいアルバイト探さなきゃ……」

 とにかく今は何もしたくない。そう思い、床に大の字で寝そべる。

 とりあえずこのまま寝よう。シャワーは明日の朝でいいや──

 目を瞑った瞬間だった。部屋の呼び鈴が鳴った。

 こんな状況で、次はなに……。そう思いながら重い身体を起こし、玄関へ行く。

 もう一回、呼び鈴が鳴る。

「あー、待ってください、いまでまーす」

 絵里が慌ててドアを空けると、そこには小じゃれたスーツをきた茶髪の男性が立っていた。

「亀井絵里やな?」

「えーと、はい。どちらさまでしょうか?」

「つんく♂っちゅうもんやけど」

「まさか、店長の仲間ですか?」

 これに、つんく♂と名乗った男は一瞬きょとんとした。

「ちゃうよ。むしろ敵対してる側や。んで、君をスカウトしに来た」

「のります!」

「は?」

「だって虫の大群──っていうかスタンド? ってのに襲われるし、しかも、それがバイト先の店長の仕業。ていうか、思わずやっつけちゃったせいで無職になっちゃったし。もうどうにでもなれって感じなんで」

「お、おう、そうか。まあスタンドの事とか色々教えたるよ。バイトは知らんけど」

「それじゃ、とりあえず部屋にあがります?」

「なんかノリの軽いやっちゃな。俺も君のこと監視してたんやけど」

「え!? あなたも!?」

「あ、いや、まあ、そのへんも話すさかい」

「もう! 全部はなしてくださいよ!」

 そう言って絵里はつんく♂を部屋に招き入れた。

 なんだか一気にとんでもないことになった気がする。

 ただ、これまでよりも思ったことを素直に言える自分になれた気がして、悪い気分じゃなかった。  


[つんく♂レポート]

・スタンド名:ひょっこりひょうたん島

・タイプ:群体型

・波紋共鳴:複眼

・スタンド詳細:テントウシムのような丸い胴体に人間のような細い手足が生えている。一匹当たり1ミリほどで数十からなる群体として存在する。

見た目通り、低空ではあるが飛行やホバリングが可能であり、本体ORスタンドが視界に捉えてる植物から植物へ瞬間移動することができる。

破壊力:D スピード:C 射程:A 持続:B 精密動作性:D 成長性:E

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