第五章 藤咲 茜の物語

第一話 薄明の資料室

藤咲茜は、新しい学校の教室で、窓の外を眺めていた。

蝉の声が、降り注ぐ夏の光の中で、耳元で鳴り響く。

隣の席では、クラスメイトたちが楽しそうに話している。

笑い声が、教室いっぱいに広がる。

けれど、その賑やかさが、茜の心には遠かった。

三ヶ月前、突然の転校。

全てが、新しい環境。

新しい制服。新しい顔ぶれ。

前の学校では、すぐに友達ができ、

いつも誰かと一緒に笑っていた。

だが、ここでは、まだ馴染めずにいる。

自分だけが、ガラスの壁に隔てられているようだ。

孤独感が、肌に張り付く。

息苦しさが、胸を満たす。

どこにも行き場のない感情が、茜の心を締め付ける。

この苦しみを、誰かに伝えたい。


茜の胸の奥には、ぽっかりと空いた穴があった。

それは、新しい環境への不安だけが原因ではない。

見慣れない教室の風景。

戸惑う心。

誰にも本音を言えない孤独。

居場所がないような感覚。

そんな中で、ふと、

茜の心に、小さな光が灯った。

それは、同じクラスの男の子、タケルだ。

タケルは、いつも静かで、目立つタイプではない。

けれど、授業中に真剣な顔でノートを取っている姿。

放課後、時々、図書室で難しい本を熱心に読んでいる姿を見かける。

決して派手ではないけれど、

彼の横顔には、どこか惹きつけられるものがあった。

茜が一人でいる時に、さりげなく教科書を貸してくれたり、

困っていると、助けてくれたりする。

彼の優しい笑顔に触れるたび、

胸が、キュンと音を立てる。

この感情は、淡い恋なのだろうか。

新しい場所での戸惑いの中で、

タケルの存在だけが、茜にとっての小さな救いだった。

彼に、もっと近づきたい。

彼の優しい世界に、触れたい。

でも、この転校生である自分が、

どうやって彼に話しかければいいのか、分からない。

この新しい環境で、自分の居場所もまだ見つからないのに。

伝えたいのに、伝えられない。

この孤独な心と、彼への想いを、どうすればいいのか。

茜は、いつも一人で悩んでいた。

彼の姿を遠くから見つめることしかできない。

彼の優しい声を聞くだけで、心が満たされるような気がする。

それは、茜にとって、ささやかな希望だった。


茜は、「ココロノオト」というサイトの存在を、以前から知ってはいた。

転校してすぐ、偶然目にした広告で、

自分の秘めた想いを歌に乗せ、匿名で投稿できる、と。

その時は、ただの流行りものだと思っていた。

だが今、この満たされない気持ちと、

タケルへの淡い恋心を抱え、

もしかしたら、このサイトが、

私の新しい居場所になるかもしれない、と感じ始めていた。

まるで、薄暗い資料室の片隅で、

ひっそりと古いファイルを整理するように、

茜は自分の感情を、歌に変換し始めることを考えた。

まだ、実際に投稿したことはない。

けれど、このサイトが、

自分の心を、わずかに解放してくれる場所になるかもしれない。

ノイズが混じりつつも、確かにそこに、

茜の心が息づく、新しい音源ファイルが生まれようとしていた。


放課後。

今日も、教室の片隅で、一人スマホを覗き込む。

タケルへの想いを歌にすること。

新しい曲の制作に取り掛かることを、真剣に考え始めていた。

窓の外からは、運動部の掛け声が聞こえる。

その喧騒が、茜の孤独を際立たせる。

胸の戸惑いは消えない。

割り切れない感情が、メロディとなって溢れ出す。

この歌が、タケルに届いたら。

いや、届かなくてもいい。

ただ、この感情を、どこかに形として残したい。

それが、茜にとっての、ささやかな救いになるかもしれない。

クラスメイトたちは、楽しそうに笑い合っている。

新しい友達を作りたい。

この環境に馴染みたい。

そう思うのに、体が動かない。

心の中に、見えない壁がある。

その壁の向こう側には、まだ戸惑う自分がいる。

見えない糸で、縛り付けられているようだ。


昼休み。

食堂で一人、パンをかじっていると、

近くの席の女子生徒たちが、楽しそうに話しているのが聞こえた。

「最近、『ココロノオト』のQRコードラブレターがすごい流行ってるよね!」

「あー、私も送ってみようかな。あの先輩にさ!」

「でも、あれって、匿名でしょ?誰からの歌か分かんないじゃん」

「それがさ、コメント機能で送り主だけ分かるようにできるらしいよ!

特定の相手にだけ秘密のメッセージを送れるんだって」

「えー!それ、超ドキドキするじゃん!試してみよっかなー!」


茜は、その会話に、ピクリと反応した。

QRコードラブレター。

ココロノオトを、自分の心を吐露する場所として、

本格的に使う時が来たのかもしれない。

「特定の相手にだけ分かる」コメント機能。

もし、この機能を使って、タケルに、

私の秘めた想いを、もう一度、彼に送ることができたら。

彼の心に、届かせることができたら。

胸の奥で、失われたはずの希望が、

小さな火花のように、チリチリと音を立てて燃え上がる。

新しい場所での、新しい恋。

転校してから、止まったままだった心が、

わずかに、しかし確かに動き始めたようだった。


家に帰り、自室のベッドに飛び込む。

窓の外は、もう薄明の時間。

オレンジと紫が混じり合う空が、茜の顔を淡く照らす。

今日の会話が、頭の中を駆け巡る。

新しい環境。

淡い恋心を抱いたタケル。

そして、「ココロノオト」の新たな機能。

もしかしたら、もう一度、タケルに、

私の本当の気持ちを届けられるかもしれない。

それが、新しい環境で一歩踏み出す、小さな勇気になるかもしれない。

茜は、漠然とした期待と、それでも拭いきれない不安の中で、

ただ、薄明の空を見つめていた。

心の奥底で、小さな、でも確かな決意が芽生え始めていた。

この歌に、私の全てを込めて。

新しい自分を見つけるために。

タケルへ、この歌を届けたい。

その想いが、茜の背中をそっと押すようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る