第2話 能力というもの

 湖はいつも、きめ細かい、波紋を表していた。

 それは、風がないことを示していて、その細かい破門は、それこそ、流れているにも関わらず、その先がさらに繊細になっていることで、光が乱反射して、まともに、湖畔を見るのが難しいくらいだった。

 ただ、

「森はいつも緑の枝が揺れているような気がする」

 ということで錯覚を覚えるのであった、

 ただ、それも冷静に考えれば、

「大きすぎる森の状態が、迫ってくるような錯覚を感じさせ、それが、枝が揺れているように思えセルのだった」

 しかも、

「枝のすべてが、まったく同じ動きをしているかのように見える」

 のだった。

 そのおかげで、

「時間帯によって、森と湖の広さが微妙に違っているように感じさせ。暗くなればなるほど、森が迫ってくる」

 と感じさせるのだ。

 それだけ森が深い緑であり、それが、暗闇とシンクロすることで、余計に、

「闇が迫ってくる」

 という風に思わせるのであろう

 だから、

「この湖畔が一番広く感じさせるのは、夜が明けてくるにしたがって」

 という時間帯であり、完全に夜が明けてしまうと、そこから先は、

「これ以上広くは感じさせない」

 ということであった。

 今度は、夕方近くになり、西日の影響がどんどんなくなってくると、闇が襲ってくるようになり、

「まるで魔物と逢うと言われる、逢魔が時を思わせる」

 ということでの夕凪の時間。

「この時間だけ、風を感じることができる」

 ということから、湖畔には、それまで判で押したような規則的な波紋ができていたのに、この時間だけは、

「どのような波紋ができるのか分からない」

 ということで、これはかなり後の時代になってからのことだが、いわゆる、

「パワースポット」

 と言われるようになり、一時期話題になったことがあった。

 時期的には、

「幽霊が出る場所」

 というものがブームになった時で、むしろ、

「パワースポット」

 という言葉が出てくるのはさらに後のことだった。

 だから、

「怖いところ」

 ということで、注目されてもよかったのだが、なぜか、ここは本や雑誌で紹介されるということもなく、それこそ本当に、

「隠れた心霊スポット」

 といってもいいところだったのだ。

 その頃は、建物はあったが、まだペンションとして使われていたなかった。

 実際には、

「数年間」

 くらいのもので、だから、この時の

「心霊スポットブーム」

 というのは、

「それこそ伝説といわれるほどのあっという間のことだった」

 といってもいいだろう、

 だから、この時期に、

「心霊ブームがあった」

 ということを知っている人も少ない。

 実際には、

「そんなブームがあったなどということは、そんなに知られているわけではない」

 といえることだろう。

 だから、その頃、時代的にいえば、

「高度成長時代」

 というものが、そろそろ迫ってきた頃であり、都心部での住宅事情も充実してきて、その目が都心部に集まってきたということで、

「いよいよ田舎と都会の発展の差が激しくなってきた」

 といってもいいだろう。

 それだけ、

「田舎が忘れ去られた」

 ということであり、

「ある種のウラの組織」

 からすれば、

「やっと訪れた俺たちの時代」

 といってもいいだろう。

  だから、田舎をターゲットにする、

「秘密結社」

 などが増えてきて、彼等の目的がどこにあるのかは、その組織の方針によるということであるが、少なくとも、

「反政府組織」

 ということであるは、分かり切った事だったといってもいいだろう。

 だからこそ、

「占領軍から押し付けられた民主主義」

 つまり、

「押し付けの自由」

 というものを逆手に取る組織ということであり、

「そんな組織がどのように暗躍するか?」

 ということは、その団体によってバラバラだったが、それが、

「かぶる」

 ということになるわけではなく、うまく影響しあわないようにしていたというのは、

「闇の組織」

 としての、能力のようなものだといってもいいだろう。

 それが、都心部での、

「もはや戦後ではない」

 と言われた時代であり、その言葉をもたらしたのが、

「そんな裏組織の力であった」

 ということを知っている人は少ないだろう。

 実は、その頃の暗躍していた組織は、

「旧日本軍」

 と言われる人たちで、最終目的としては、

「日本の再軍備だった」

 と言われる。

 そもそも、

「日本軍の運用が、天皇直轄で、政府は別枠だった」

 という、

「いい悪い」

 という問題は度返しにして、特徴として、それを生かすことができるはずということでの、暗躍だったのだ。

 ただ、暗躍の結果がどうなったのか、結局、

「表に出ることもなく、消滅した」

 といってもいいくらいになったのだ。

 それを思えば、

「自衛隊の存在自体、奇跡のようなものではないか?」

 と考える人がいるというのは、無理もないことに思えるのだ。

 詳しいことは分からないが、暗躍組織が消えてなくなったのは事実であり、その存在が今や伝説としても残っていないということで、逆に、

「近年の歴史において、不思議に思うことを、不思議だと感じることがないのは、その伝説を知らない」

 ということからであろう。

 組織の暗躍というものが、まったく消え去ってから、しばらくして、どこから湧いてきたのか、

「暗躍のウワサ」

 というのが出てきた。

「何か、どこかで暗躍をしている組織があるらしいぞ」

 ということで、

「出所も、実際の事実関係も、一切が事実無根」

 と言わんばかりである。

 つまり、

「根拠のないウワサが、実際に根拠のないもの」

 ということで、まことしやかにささやかれているということになるわけだが、逆に、

「まったく根拠がないものを、ウソかも知れない」

 と流すことは、まるで、

「マイナスにマイナスを掛け合わせるかのような、まったく正反対のことを、相乗効果にする」

 ということで、これこそ暗躍といってもいいだろう

 実際に、マイナスにマイナスを掛け合わせるということがどういう効果を生むというのか?」

 今回の場合は、

「その事実が、どこからも出てこなかったことから、いきなり出たウワサだと考えれば、そこに、何の根拠があるということになるのだろう」

 そのうちに、

「ウワサの出所は、あの森の中だ」

 という話が持ち上がり、一時期、

「急に客がペンションに殺到した時があった」

 その時期は、ちょうどバブルの時期だった。

 そもそも、

「そんな根も葉もないうわさが出る」

 というのは、

「なるほど、少々何かが起こっても世間的には一切、痛くもかゆくもない時期だ」

 ということで、バ

「バブルの時期だ」

 というのも当然のことだといってもいいだろう。

 実際に、

「人のやらない奇抜なことをすれば、うまくいく」

 と言われた時代だ。

 もっといえば、

「何をやっても、成功する。他の時代だったら、絶対に失敗すると思うように時期にでもである」

 ということである。

 このペンションも、最初は、

「本当に採算がとれるのか?」

 と言われていたが、二代目オーナーは、

「根拠のないことほど、うまくいくもの」

 といって、最初の頃の臆病さが、まったくなくなっていた。

 それは、あとから思えば、

「バブルという時期に踊らされていた」

 といってもいい。

 実際に、バブル景気に踊らされ、他の会社にはないような利益を叩き出した。

 ただ、そんな実績があるのに、彼を、社長である長男は迎え入れはしなかった。

 社長がいうには、

「あいつは、あそこだから輝くのさ。人には、分相応というものがあって、俺が社長尾をしているのも、あいつが、ペンションで成功しているのも、その相応な分をわきまえているからだということだ」

 といっていた。

 それは間違いのないことで、実績が証明していたといってもいいだろう。

 ペンションのオーナーは、名前を、

「白石和弘」

 という。

 彼は、本社社長の、

「飛鳥正弘」

 とは、子供の頃から一緒に育ったといってもいい。

 番頭は、そもそも、先代社長の家に一緒に住んでいた。

 それが、戦前くらいからの、

「財閥や、社長にはよくある」

 ということで、二人の子供も、一緒に育ったのだった。

 そういう意味で、

「子供としての制裁教育」

 というものは受けてきた。

 だから、子供の頃であれば、

「大人になってから、どの業界でも通用するような、帝王学」

 というものを身に着けるだけの素質は身に着けていたといってもいい。

 だから、白石は、

「他の会社で、丁稚奉公のようなことをしないでも、ペンション経営ができる」

 ということであった。

 飛鳥の場合は、そうはいかない。

 何といっても、

「いろいろな業種を手がけている大手コンツェルンといってもいいような総合商社の社長である」

 ということから、

「子供の頃の英才教育だけではダメだ」

 ということで、結局。

「帝王学の勉強が必要になるのだった」

 特に、

「二代目社長」

 というのは、どうしても、

「先代の偉大な背中に臆してしまう」

 ということがあり、

「甘え」

 というものがあるのは仕方がなく、それだけに、

「なんでもできる」

 と思いこんでいながら、結局は、

「自分の中で消化することができず、不安だけが募ってくることになる」

 その不安を自分で感じているというのは、実際には、

「変なウワサや、エゴサーチなるものを、素直に受けとめてしまう」

 ということで、

「素直に受け止める」

 というのは確かに悪いことではないのだが、

「それを受け入れるだけの力があるのであればいいが、なければ、結局は、どうにもならない」

 ということになるのだ。

 実際に、

「受け入れる」

 というのは難しいことで、それができることで、自分には何でもできると考える、それは、

「堂々巡り」

 ということであり、

「いたちごっこ」

 ということでもあるのだ。

 どこかで聞いたことのある、

「血を吐きながら続けるマラソン」

 という言葉を思い出し、まさに、その通りだと思うのは、

「子供の頃を思い出すからなのかも知れない」

 といえるだろう。

 その言葉の根拠というのは、

「昔、子供の頃に見た特撮映像」

 を思い起こさせる。

 そこには、

「三つ巴」

 であったり、

「三すくみ」

 という、

「永遠に繰り返すことではあるが、終着点が、永遠に見えてこない」

 ということを意味しているのであり、もっといえば、

「着地点は、誤差が絶対にゼロ」

 ということではなく。

「限りなくゼロに近い」

 ということで、それは、

「無限」

 ということを意味している。

 つまり、

「無限」

 であったり、

「永遠」

 という言葉には、

「その終着点が見えてこない」

 ということから。

「絶対ということはないのだ」

 ということになるのであろう。

 それを考えると、

「俺はこのペンションから、永遠に抜け出せないような気がする」

 と、白石は考えていたのだが、それは、別に嫌だとは思っていなかった。

 しかし、いつまでも消えない不安があるのは、

「抜け出せない」

 ということに対してではなく、

「永遠」

 ということにであった。

「永遠という言葉をどこまで信じるか?」

 ということを思えば、

「信じることが逆に不安の払拭になる」

 ということであれば、そもそも、

「永遠というのはありえない」

 ということであり、

「ないならないで、それでいい」

 と考える。

 いつの間にか、安全策にばかり流れている自分を感じると、

「ペンション経営がこれでいいのか?」

 と思うようになった。

 だが、そう思えば思うほど、失敗がないのだ。

 要するに、

「いまさら、他のところで心機一転」

 というほどの大それたことは考えられない。

「うまく行っているのだから、今のままでいい」

 と思えさえずれば、何の問題もないのだが、どんどん募っていく不安が払拭できないことで、

「時々、ボーっとする時間が増えてきて」

 自分でも、

「情緒不安定」

 と思う時間が増えてきたのであった。

 それまでは考えたことのない、

「夢遊病」

 のようなものを起こしているのではないか?

 と思えるほどで。

「そもそも夢遊病って何なんだ?」

 と考えるようになった。

 子供の頃は、

「あまり夢を見ない」

 と思っていた。

 夢を見たとしても、

「覚えていない」

 と後から思うのが、小学生のまだ小さかった頃だった。

 しかし、高学年くらいになってくると、

「覚えていない」

 というよりも、

「忘れていく」

 と感じるようになってきた。

「覚えていない」

 ということと、

「忘れてしまう」

 ということは、

「似て非なるもの」

 といってもいいだろう。

 どちらも、

「夢を見た」

 ということには変わりはないのだが、

「覚えていない」

 ということは、

「実際に見た夢を忘れたわけではなく、覚えていないのだ」

 それは、

「忘れてしまった」

 ということも言えるわけだが、それ以外に覚えていないという何かがあり、つまりは、

「忘れてしまう」

 ということ以外にも、他の何かが存在しているということであろう。

「その分、考える余地がある」

 ということになる。

 しかし、

「忘れてしまった」

 ということは、結局最後の結論は、

「一つしかない」

 ということで、

「見た夢の結論として、忘れてしまったわけなので、思い出すことはできないということだ」

 もし、見た夢を思い出すのだとすれば、それは覚えていないという段階から、忘れてしまうという段階を踏むまでであれば、できるということになるのだ。

 つまり、

「覚えていない」

 というプロセスがあり、結果として、最後に

「忘れてしまう」

 ということになるのだ。

 だから、

「小さい頃に見た夢を覚えていない」

 と思うのは、思い出すだけの余地があるということであり、高学年になってから、

「忘れてしまった」

 と思うのは、

「思い出すことのできる余地がない」

 ということで、逆に言えば、

「大人になるにつれて、どんどん自分が分かってくるということである」

 という当たり前のことが分かってきたということなのであろう。

 それを考えると、

「これがもっと年を取って、老人になれば、どうなんだろう?」

「覚えていない」

 ということなのか?

 それとも、

「忘れてしまった」

 ということになるのか?

 想像が許すのであれば、

「忘れてしまった」

 といえるのではないだろうか?

 というのは、

「思い出せない」

 と、今まで思っていたことは、そのほとんどを思い出すことができるということを分かっているのであり、逆に、

「忘れてしまった」

 と感じることが、どういうものなのかというのを、重ねてきた年齢が分からせてくれるということになるのだろう。

 だから、

「年は取りたくない」

 という人もいれば、

「年は重ねていくと考えれば、嫌だとは思わない」

 という人に分かれることだろう。

「年を取りたくない」

 と素直に感じる人は、

「忘れてしまった」

 ということを真剣に考える人間であり、逆に、

「年を重ねてきた」

 と思う人は、

「別に過去のことを思い出す必要もない」

 と思うことから、

「覚えていない」

 ということを、こちらは素直に受け止めるということになるのだろう。

 それを考えると、

「今まで重ねてきた年齢とこれから重ねるであろう年齢とでは、明らかに違う」

 と思うのだ。

「後ろを振り返った時に見る景色」

 と、

「未来に広がっているであろう景色」

 とでは、

「歩く感覚」

 というものによって違ってくる。

 歩いてくると、確実に、足は疲れを感じるものである。

 そして、その疲れから、経験上ということで、

「歩いてきた疲れが距離を感じさせ、そこには、錯覚はない」

 ということであるが、

「後ろを振り向く」

 ということは、明らかに、

「いつもと違うことをしている」

 ということで、無理な体制になっているということで、血管の収縮から、距離感がマヒしてきて、

「小さく見える」

 つまりは、

「遠くに見える」

 という錯覚を生むのだ。

 それが、上下で見た時に違ってみえるという、

「天橋立のまたのぞき」

 というものであったり、

「逆さ絵の錯覚」

 といってもいい、

「サッチャー錯視」

 と呼ばれるものに由来するといってもいいのではないだろうか?

 それを考えると、

「錯覚を見せるに十分な光景」

 ということでは、

「この、森に囲まれた湖畔のペンション」

 というのは、

「実にその錯覚にふさわしい場所だ」

 といえるのではないだろうか?

 ここは、昔から、

「樹海になる予定だった場所だ」

 と言われている。

 樹海というところは、

「一度入りこむと逃れることはできない」

 と言われているが、それは、

「コンパスも利かない」

 ということから、入りこんだら、

「どこにいっているのかも分からない」

 ということから、

「死体も見つからない」

 と言われている。

 だとすれば、

「よく、死亡ということが分かるというものだ」

 ということだが、それは不思議な感覚だった。

「時系列」

 ということで考えた時、

「現在からみた、過去と未来」

 ということで、考えてみれば不思議なものだ。

 というのも、

「時系列というのは、前にばかり、規則的に時を刻んでいる」

 というものだ。

 まるで、

「モグラが土をかいている」

 かのように、掘り起こした部分がスルリと後ろに抜けるように、立った今、前にあったものが、頭にかぶさって、あっという間に過去という後ろに行ってしまう。

 だから、本来であれば、

「最初は、すべてが未来だった」

 ということであれば、最初の瞬間に、未来の一部が現在となり、その次の瞬間には、それが過去になる。

 それを、一つ一つ繰り返していくことで、

「未来から、現在を通って、過去に向かう」

 ということになるのだ。

 この中で一番大切なものは、

「現在」

 というもののはずだ。

 しかし、次の瞬間には、その現在が過去になってしまうわけで、二度と現在に戻るわけはない。

 もっといえば、未来が現在になってしまうと、未来にも戻ることができないわけだ。

 そうやって、現在は、どんどん入れ替わってくるわけなので、その目の前にある現在というものが、

「本当に一つだけなのだろうか?」

 という考え方があるのだ。

 「それが、

「パラレル」

 という考え方で、

「目の前にあることが本当に正しいのか?」

 ということであり、

「無限に広がっている可能性」

 というものを、誰が分かるということか?

 という考えから、

「ロボット工学」

 における、

「フレーム問題」

 というのが問題になってくるということであった。

 確かに、目の前には、

「無限の可能性」

 というのが広がっているのは事実だ。

 だから、実際に、

「判断を間違えたりする」

 ということになるのだ。

 しかし、それは、人間にいえることで、それでも、

「判断をする」

 ということができるわけだ。

 これが、ロボットのような人口知能を人間が与えたものだということになれば、果たして、

「無限の可能性」

 というものをキチンと選択できるであろうか。

 まったく最初から判断することができるわけはないので、ロボットの性質として、

「危険というものを感じた時は、自分から動く」

 ということはできないだろうと考えられる。

 そうなると、一歩も動けず、判断がつかないまま、時間がくるまで動けずに、そのまま、

「時間に葬られる」

 という運命をたどることになるというわけだ。

 ロボットに限らず、動物も、

「判断がつかない」

 という時は、一歩も動けなくなってしまう。

 それは、

「動物であろうが、ロボットであろうが、同じことだ」

 といえるだろう。

 そして、それは人間においても同じことなのだ。

 というのも、

「人間の場合だけが、この難問を一つ先に進むことができるというもので、少なくとも、その判断が合っているか、間違っているのか?」

 ということはいざ知らず、動くことができるのであった。

 もちろん、子供であれば、そうはいかないが、大人になるにつれて、どんどん、行動範囲が広がってくるのだ。

 だが、

「考えることができない」

 と言われる動物は、ほとんどの場合において、

「人間よりも確実に、正しい行動をとることができる」

 といえるだろう。

 動物の場合は、何といっても、

「弱肉強食」

 という世界の中にいて、しかも、人間ほどの知能があるわけではないので、考えることはできないとなると、

「その行動の拠点はどこにあるというのか?」

 ということになるだろう。

 その行動を、

「本能だ」

 と解釈すれば、動物が正しい行動がとれるというのも分かるというものだ。

 つまり動物は、その行動を、

「本能」

 というもので賄えているといってもいいだろう。

 つまり、

「過去の経験を教訓として、身体が覚えている」

 ということで、これは、

「知能というものではなく、能力といえるだろう」

 もっとも、知能というのも、人間に与えられた能力の一つということで、

「知という能力のことだ」

 といってもいいだろう。

 人間にも、本能というものは存在している。

 だからこそ、反射神経のようなものがあることで、

「考えるよりも先に行動する」

 ということで、

「反射神経」

 と呼ばれるものがあるのであった。

 だが、人間の場合は、

「考える」

 ということが最優先としてある。

 だからこそ、

「他の動物にはない、知能というものを、生かそうとする」

 だから、何かあった時、

「本能よりも知能」

 が先に立とうとしようとするのではないだろうか?」

 だから、動物のように、俊敏な行動はとれない。

 しかし、知能によって、

「降りかかる危険を最小限に食い止めることができる」

 というわけで、知能によって考えたことで、人間は行動できるくらいに、

「他の動物ほどの危険性を感じることはない」

 といえるだろう。

「もし、人間が、他の動物のような危険な目に遭っていれば、まず、短い期間に、人類というのは滅亡しているに違いない」

 ということができるだろう。

 危険な目に遭わされることで、動物は身体で覚えるわけで、そうでもしないと、

「いつ天敵から食われるか分からない」

 ということになる。

 だが、人間は、人間の天敵と言われるようなものを排除できるだけの知能がある。

 相手の動物も、人間にその知能があることを分かっているから、うかつに人間を襲わない。

 それが、それぞれの自然の摂理を形成しているといってもいいだろう。


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