第10話 黒猫(後編)

 翠蓮は、推手すいしゅの如く、相手の力を受け流す構えを取る。その体勢は、まるで風に揺れる柳のようにしなやかでありながら、鋼のような堅牢さも感じさせる。重心は低く、どこからでも瞬時に動き出せるような、研ぎ澄まされた気配が漂っていた。


「琴音……!」


 琴音は戸惑いを隠せない。目の前の少女は、確かに翠蓮だ。だが、その瞳の奥に宿る冷たさや、全身から放たれる妖しい気配は、琴音が知る翠蓮とはあまりにもかけ離れている。かつては、ただ強さを追い求める純粋な武術家だったはず。その翠蓮に、本気で拳を向けることを、琴音は躊躇った。


 翠蓮の声が、夜の伊勢佐木町に不気味に響いた。次の瞬間、彼女の小柄な体が残像のように消える。琴音がハッとした時には、翠蓮はすでに懐に潜り込み、琴音の顔面に化勁かけいの掌を放つ。

 その動きは、まるで夜の闇に溶け込む影絵のようであり、琴音の動体視力さえも欺く。

「っ…!」


 琴音は咄嗟に腕でガードするが、その打撃は見た目以上の重さで、体がわずかに揺れる。翠蓮の連撃が始まる。琴音のムエタイとは異なる、重心が読めない猫のようなステップからの拳と足技が、次々と琴音を襲う。


 陽介は、プロトデバイスが検知する妖力の光に、驚きを隠せない。

(速い……! 琴音もまともに捉えきれてない!)


 琴音は、翠蓮の猛攻を捌きながら、葛藤していた。本当に、この翠蓮に本気を出していいのか。だが、翠蓮の攻撃は容赦がなく、このままでは自分が危険に晒される。


 琴音の脳裏に「翠林苑」の店主の顔が浮かんだ。


「……ッ、わかった翠蓮!」


 琴音の目に、迷いが消え去る。たとえ相手が翠蓮であっても、止めるためには全力で戦うしかない。


「望むところよ!」


 琴音の全身から、闘気が爆発するように溢れ出す。ムエタイの基本である、力強く安定した構え。


 中国拳法の翠蓮と、ムエタイの琴音。

 かつて互いに高め合った二人の少女の間で、因縁の闘いがはじまった。


 琴音と翠蓮の異種格闘技戦は、伊勢佐木町の裏路地で激しさを増していた。琴音の豪快なムエタイの打撃と、翠蓮の中国拳法に猫のような俊敏さが加わった予測不能な動きが、夜の闇を切り裂く。拳と蹴りが交錯するたびに、硬質な音が響き渡り、周囲の建物の壁にはひびが入る。


「くっ……速くなったね、翠蓮!」


 琴音は、翠蓮の小柄な体から放たれる想像以上の速度と、的確な急所狙いの攻撃に、防戦一方になりかけていた。翠蓮は、琴音の攻撃をひらりとかわし、その隙を突いては、鋭い爪を立てた手で琴音の腕や肩を掠めていく。


「琴音……まだ本気じゃないの? アーシを連れて帰るって言ったんでしょ?」


 翠蓮の声には、どこか挑発的な響きがあった。その瞳は、獲物を追い詰める捕食者のように冷たい。


 陽介は、プロトデバイスの画面に表示される翠蓮の妖力の急激な上昇に、焦りを覚えていた。

(このままじゃ、琴音が危ない……! でも、こんな場所で本格的にやりあうのは…!)


 その時だった。遠くからサイレンの音が近づいてくるのが聞こえた。一部始終を目撃していた通行人の通報により、警察が駆けつけてきたのだ。


「そこまでだ! 何をしている!」


 警察官の声が響くと、翠蓮の動きがピタリと止まった。彼女は、琴音と陽介、そして駆けつけた警察官たちを、まるで無関係なものを見るかのような冷たい目で一瞥した。


「……邪魔入ったじゃん。」


 翠蓮は、そう呟くと姿を消した。路地の奥へと、闇に溶け込むように走り去っていく。警察官たちが慌てて追いかけるが、その俊敏な動きにはついていけない。


「な、なんだ今の動きは!?」警察官が思わず叫んだ。


 琴音と陽介は、現場に残ったため、警察に事情聴取を受けることになった。

「ええと、要するに、あなたを巡って、女性二名が争った、と?」

 若い警官が陽介に問う。陽介の冴えない風貌と、そこにいたはずの翠蓮の顔写真(琴音が提示した携帯の画像)を交互に見比べ、訝しげな表情を浮かべる。

(この御仁を、取り合うの……?)

 と、その顔にははっきりと書いてあった。


           ・


 夜の港。喧騒から離れた倉庫街の一角に、翠蓮は身を潜めていた。昭和の頃から時が止まったかのような、古びた倉庫群。セキュリティも甘く、人目も少ないこの場所は、彼女が身を隠すには最適だった。


(やっぱ、あのときだよね……。)


 翠蓮は、自分の左手の甲に触れた。そこには、二つの小さな傷跡が、まだわずかに残っている。ひと月前の、あの夕暮れ時の記憶が、鮮明に蘇ってきた


           ・


 それは、いつものように慌ただしい夕暮れ時の出来事だった。横浜中華街の「翠林苑」では、店の夕食の仕込みに追われていた。翠蓮は、店の手伝いとして、中国から輸入され配達されたばかりの食材が詰まったコンテナから、冷凍庫へと運び込む作業をしていた。


 重い段ボール箱を抱え、薄暗く冷え込んだ冷凍庫の扉を開けた、その時だ。


 ゴソッ――。


 コンテナの陰から、小さな黒い影が素早く飛び出した。翠蓮がそれが何であるかを確認する間もなく、冷たい感触と激しい痛みが、彼女の左手の甲を襲った。


「ッ……!」


 思わず声を上げる。影は、翠蓮の腕を這い上がり、その肩から首筋を通り、一瞬で姿を消した。まるで幻のように。


 翠蓮は、痛みで左手の甲を見た。そこには、二つの小さな穴が開き、鮮血がじんわりと滲み出ている。チクチクとした痛みが続き、不快な感覚が広がる。


(なんだ、今の……ネズミ…?)


 普段、店でネズミを見ることはめったにない。ましてや、噛みつくなど。しかし、他に思い当たるものもなく、翠蓮は「変な虫にでも噛まれたのだろうか」と、安易に考えてしまった。


「どうした?翠蓮?」


 奥から父親の声が聞こえる。翠蓮は、血の滲んだ手を隠し、無理に笑顔を作った。


「うん、大丈夫! ちょっと段ボールで指擦っただけ!」


 冷凍庫から出た翠蓮は、急いで店の奥にある手洗い場へ向かった。血を洗い流し、消毒液をシュッと吹きかける。ツンと鼻を刺すアルコールの匂いと共に、傷口の痛みがじんわりと広がる。翠蓮は、大きな絆創膏を貼り付け、何事もなかったかのように再び店の手伝いに戻った。


 その夜から、翠蓮の体と心に、微かな、しかし決定的な変化が訪れ始めていた。


 最初は、些細なことだった。深夜、ふと目が覚めると、得体の知れない「空腹感」に襲われる。それは、食事で満たされることのない、もっと奥底から湧き上がるような、おぞましい渇望だった。街を歩く若い男性の姿を見るたび、その生気に、本能的な「魅かれる」ような感覚を覚えるようになる。


 湧き上がる渇望をおさえているとき、鏡で自分の姿をみた。その瞳が猫のように細く、変化していることに気づくようになった。手の甲の傷跡は、奇妙な形に盛り上がっている。


(おかしい……私、どうしちゃったんだろう……)


 ある日、常連の大学生が冗談めかして翠蓮の肩に触れた瞬間、強烈な衝動が走った。脈打つ血管にかぶりつきたくなる、瞳が獣のように変わる。衝動のまま肩に噛みついたが、寸前で理性を取り戻した。肩には薄く歯型が残っていた。


「ご、ごめん!ちょっと、ふざけすぎちゃった!」


 男は笑って許したが、翠蓮の心臓は激しく脈打っていた。

(今、私…何をしようとしたの?)


 自分の内に潜む、制御不能な「何か」の存在を、翠蓮ははっきりと自覚した。このままでは、いつか、知っている人を、家族を、友人を……噛んで……食べてしまうかもしれない。その想像を絶する恐怖が、翠蓮の心を支配した。


(ダメだ……このままじゃ、私が、私じゃなくなる……!)


 翠蓮は、決意した。この恐ろしい衝動から、大切な人たちを守るために。


 その夜、翠蓮は、誰にも告げることなく、慣れ親しんだ家を、中華街を、そして家族の元を離れることを決めた。夜の闇に紛れて、彼女は姿を消した。


           ・


 バイクで帰途につく。琴音はハンドルを握る陽介の背中に、悔しそうに顔を埋めた。

「どうしよう、連れて帰れなかった……。おじさんにも、顔向けできない…」

「いや、琴音のせいじゃない。それに、あの翠蓮は……。」


 陽介は、プロトデバイスに残された翠蓮の光を思い出し、言葉を選んだ。

「琴音も気づいているだろ。あの翠蓮は、何か……憑いているかもしれない。」


 琴音はハッと顔を上げた。

「憑いている。あやかしが。そうだ、あの動き、そしてあの妖気。普通の人間じゃない。それに、あの瞳…。」


 翌日。二人は新横浜地下の開発室に向かい、朽木に昨夜の出来事を報告した。陽介は、戦闘中にプロトデバイスで撮影していた翠蓮の映像を朽木に見せた。

 映像には、一瞬だけ映り込んだ翠蓮の縦長の猫のような瞳や、動きの合間に見えた二股に分かれた尾の影が捉えられていた。


 朽木は、映像を食い入るように見つめ、やがて静かに頷いた。


「……猫又、か?いや……ちょっと違う。おそらく中国の妖怪、金華猫チンホヮーマオだ。」


 朽木の言葉に、琴音は息を呑んだ。


「やっぱり、翠蓮は…!?」

「憑依されている、と見て間違いないだろう。厄介なことに、金華猫は人間の精(生気)を吸い取ることを得意とする妖怪だ。そして、その手口は非常に巧妙で、誘惑によって獲物を廃人にする。」


 朽木がネットから史料を示す。

「これが中国の古典『堅瓠集』に書かれた内容だ。」

『金華猫畜之三年後 毎于中宵蹲踞屋上 伸口対月吸其精華 久而成怪毎出魅人 逢婦女則変美男 逢男則変美女』

「……金華猫を飼って三年、毎晩屋根の上で、月の精を吸い。時を経て妖になり、女には美男に、男には美女に化けて人を魅了する……だいたいそういう意味だ」

「清の時代の『淥水亭雑識』にもある。」

『金華人家忌畜黒猫能夜蹲瓦頂盗取月光則成精為患也』

「こちらは……金華人は猫を忌んでいる。夜、屋根上で月光を盗み、精霊になり患いとなる……か……どう日本にやってきたのかは不明だが」


 朽木の言葉に、陽介は昨夜の翠蓮の妖艶な誘惑を思い出し、背筋が凍った。

(俺も、危なかったのか…!)


「そういえば……。」


 琴音は、何かを思い出したように呟いた。

「最近、伊勢佐木町で、若い男の子たちが無気力に彷徨ってるって報道……みたかも……」


 朽木は頷いた。

「ああ。警察は薬物中毒や過労と見ているようだが、その衰弱の仕方に違和感を覚えていた。まさに、精を吸い取られたかのような症状だ。」


 琴音の顔が、怒りと悲しみで歪んだ。

「翠蓮が……そんなことを!?」


 朽木は続けた。

「金華猫は、憑依した人間の肉体を強化する。特に彼女のように武術の心得がある人間であれば、その力はさらに増幅されるだろう。そして、その憑依が深まれば深まるほど、人間の意識は薄れ、妖怪の意思が前面に出てくる。」

「止めなきゃ……! これ以上、翠蓮に、金華猫に、被害を出させるわけにはいかない!」

「すぐ行こう。」

          ・


 琴音と陽介は、即座に伊勢佐木町に向かった。今度は、翠蓮を探すためではない。金華猫チンホヮーマオとなった翠蓮を誘き出し、止めるためだ。

「陽介、大丈夫? 危ないよ。」


 琴音は、心配そうに陽介を見上げた。陽介は、昨夜の翠蓮の誘惑を思い出し、まだ少し顔が引きつっていたが、決意の表情で頷いた。

「大丈夫だ。あいつの手口は体験済みだし、プロトデバイスで妖気は感知できる。それに、琴音もいるしな。」


 陽介は、翠蓮が好んで獲物を誘惑するような、少し裏寂れた、しかし人通りが皆無ではない路地を選んで歩き始めた。目的は、金華猫となった翠蓮の注意を引くこと。


 数時間、伊勢佐木町内を回ったが、翠蓮の姿はどこにもなく、途方に暮れる。


 夜の闇が深まり、満月が空に妖しく静かに輝き始める。陽介のプロトデバイスが、微弱ながらも明確な妖気を捉えた。

「……そうか、金華猫は、月の精を吸う……!」


 翠蓮が、陽介の前に姿を現した。昨日と同じ、妖艶な笑みを浮かべ、ゆっくりと陽介に近づいてくる。

「……今日もきたんだ。素直になって、ふたりで時をすごしたくなったのかしら?」


 翠蓮の甘い声が、陽介の耳元で囁かれる。魔性の誘いに理性が揺らぎそうになるのを必死に堪える。


 その時、空を流れていたはぐれ雲が、煌々と輝く満月をふと覆い隠した。


 刹那、金華猫チンホヮーマオの妖しき気配が、すうっと薄れていく。それに代わるように、翠蓮自身の意識が、表層へと浮かび上がった。先ほどまでの冷酷な光は消え失せ、彼女の瞳には、言いようのない悲しみが宿っている。


「……琴音の、カレシ?……だよね?」


 翠蓮の声は、まるで遠い記憶を探るように、か細く響いた。


(彼氏……!?)

 陽介は驚き、咄嗟に否定しようとする。

「いや、俺はまだ琴音の彼氏じゃ、その……」


 翠蓮は、自嘲するように微笑んだ。

「そっか……。琴音は、そういうのも、ちゃんとGETできるんだね。アーシは……こんなことになっちゃって。琴音には、こんなとこでも勝てないんだ……。」


 彼女の顔に、諦めと絶望の色が浮かんだ。

「もう、ムリだよ……。人の命吸わないと、生きていけないなんて。元の場所には、戻れない。生きていたくないよ……。」


 その言葉に、陽介は慌てて言葉を返した。

「そんなことない! まだ、まだ大丈夫だよ! お父さんがすごく心配してたぞ! あんたは、翠林苑の、あのおっちゃんの娘だろ! みんな、あんたが帰ってくるのを待ってる! きっと、元の場所に戻れる! 俺たちが、なんとかするから!」


 陽介の必死な言葉に、翠蓮の瞳に、かすかな光が宿った。

「……優しいね、陽介君……琴音、うらやましいな。」


 翠蓮は、ふわりと微笑んだ。その笑顔は、琴音から転送してもらった写真にあった、かつての純粋な少女のそれだった。


 刹那、夜空を覆っていたはぐれ雲が、意志を持つかのようにすうっと流れ去った。黒いベールが剥がれるように、満月が煌々と、その妖しい光を地上へと投げかける。


 陽介のプロトデバイスが、警鐘のように赤い光を激しく明滅させる。それに呼応するように、翠蓮の瞳が、再び縦長の禍々しい輝きを放ち始めた。 表情が険しく変わり、その声は低く沈む。


「…………ああ、ダメ。やっぱ、お腹、空いちゃった……」


 金華猫の、食欲旺盛な意識が、再び翠蓮の身体を支配したのだ。翠蓮の妖気が一気に膨れ上がり、周囲の空気が重く澱む。


 その変化に、物陰に隠れていた琴音が、一気に飛び出した。


「翠蓮! もう逃がさない!」


 琴音の登場に、翠蓮の表情が再び凍り付く。


「……しつけーよ、琴音。」


 翠蓮は、周囲を見回した。伊勢佐木町の裏路地とはいえ、まだ人目につく可能性はある。金華猫は、獲物を密室で確実に仕留めることを好む。


「ここじゃ、また邪魔入るじゃん。……場所変えよっか。琴音。」


 翠蓮は、そう言い放つと、一気に走り出した。向かう先は、横浜港方面。人影もまばらな、広大な倉庫街だ。


「待って! 翠蓮!」


 琴音は、陽介と共に翠蓮を追った。バイクで倉庫街へと急ぐ。


 やがて、二人が辿り着いたのは、薄暗い港の倉庫の一角だった。錆びついたシャッターが並び、潮の匂いが漂う。そこには、すでに翠蓮が待ち構えていた。


「ここなら、誰にも邪魔されないじゃん。……さあ、始めよっか、琴音。アーシを連れて帰れるもんなら、ね。」


 翠蓮の瞳は、完全に獣のそれになっていた。その口元には、鋭い牙が覗く。


「翠蓮……!」


 琴音は、悲しみを押し殺し、迎撃の構えを取った。陽介も、プロトデバイスを構え、いつでも琴音をサポートできるよう準備を整える。


          ・


 陽介のプロトデバイスから観測できる、翠蓮の想子力場は人間の放つレベルではなくなっていた。

 翠蓮自身の意志こころも徐々に薄れ、妖怪・金華猫チンホヮーマオの野生に覆われつつあった。


 倉庫内で二人が激突する。金華猫は、小柄な体格からは信じられないほどの俊敏さで琴音の攻撃をかわし、流れるような動きと、野生の予測不能な跳躍で琴音を翻弄する。時折、鋭い爪を立てた手が琴音の肌を掠め、僅かな傷を刻んでいく。

 かつての翠蓮の技が、憑いたあやかしによって非人間的なまでに加速され、洗練されたものとなっていた。


 緒戦は互角。琴音のパワーと真っ直ぐな攻撃に対し、金華猫はスピードと精密さで対抗する。しかし、金華猫にあるのは単なる肉体的な戦闘能力だけではなかった。


「琴音……まだ、本気じゃないの? 」


 金華猫が翠蓮の声で、琴音の耳元に囁く。彼女は、琴音の攻撃を避けながら、挑発するように言葉を投げかける。


「アンタは、いつもそうだった。才能あるのに、どこか本気出さないじゃん。だから、アーシ……アンタ超えたかったのに…!」


 翠蓮の声色で、琴音の心の隙間を突くように、さらに言葉を畳みかける。それは、金華猫が獲物の精神を揺さぶための心理戦だった。琴音の脳裏に、道場を辞める時の翠蓮の涙と、悔しそうな顔がフラッシュバックする。

 動揺した琴音の動きが、さらに鈍る。


 翠蓮の中の記憶を逆手に取った言葉で、琴音に小さな隙が現れる、金華猫はにやりと笑う。


 ザクッ!


 鋭い爪を立てた手が、琴音の脇腹を深く切り裂いた。

 金華猫の動きは既に、野生の獣のそれに変わっていた。


「ぐっ…!」


 琴音は血を吐き、膝をついた。

 陽介は、その光景に焦り、プロトデバイスを食い入るように見つめた。


(……ミスった、バカだった。直してさえいれば!)


 昨夕の『離為火』テスト発動で、プロトデバイスの紫外線LEDは破損していた。その修繕の為に部品を購入し、ポケットに忍ばせていた。しかし事態の収拾に追われ、精神的な動揺と、目の前の緊急事態に、修理作業のことなど頭から完全に抜け落ちていたのだ。


 制服のポケットに手を当てる。昨日買ったままのシンコー電機の袋の感触が、そこで初めて陽介の意識に上った。

 袋を取り出し引き裂く、コンクリートの路面にパーツが散らばる。

 震える指先で、彼は決死の思いでコネクタ、抵抗、そして紫外線LEDを拾い集める。時間がない。一秒でも早く。

 急ぎ3ピンのコネクタをプロトデバイスの端子につなぎ、コネクタの逆側電極にパーツのリード線を挟み込み、抵抗を介して紫外線LEDをはめ込んだ。ハンダづけもなんにもない、まさに力業の応急処置だった。



「いけるか?!」


 プロトデバイスの卦符アプリを起動。

 琴音が過去使った卦の測定記録から仕込んだスクリプトがある。テストはしていない。ぶっつけだが誤りがなければ、再生できるはず。

 新たに開発した、アプリの連続発火モードを選択。

 夜織を復活させた際の、簡易デバイスが記録した情報データをもとにした卦の発動。


 傷ついた琴音に向け、身体の『復活』と生命力『バフ』のための卦術『地雷復』『風山漸』をフルパワーを念じ、連続発動した。

「地雷復!」「風山漸!」

 大声で叫ぶ。


 バン、バン、バン、バン、バン、バン!

 プロトデバイスが咆哮する度に、陽介の視界が歪み、耳の奥で金属が軋むような高音が響いた。全身の血が逆流するような感覚に襲われる。胃の奥からこみ上げる吐き気。足元から急速に力が抜けていく。次の瞬間、膝ががくりと折れ、彼は為す術もなく地面にへたり込んだ。

 紫外線LEDのPN接合がふたたび破壊され、けたたましい発動音が唐突に途絶えた。

 ──失敗したのか。

 絶望が陽介の胸をよぎった、その刹那。 プロトデバイスの画面に、琴音の想子力場が赤く輝き、その数値が跳ね上がっていくのが表示されるのを見て取る。

「……やった……っ」

 乾いた声が、陽介の喉から辛うじて絞り出された。


 温かく、しかし強烈なエネルギーが、琴音に流れ込み、全身を駆け巡る。

 肉体の痛みも、心の迷いも、そのエネルギーによって吹き飛ばされていく。

 細胞分裂が活性化し、傷がふさがり、流血が止まる。


「……陽介…!」


 琴音の瞳に、再び強い光が戻った。彼女の全身から、先ほどとは比べ物にならないほどの、圧倒的な闘気が噴き出す。それは、金華猫の妖気を凌駕するほどの、純粋な「力」の奔流だった。

 琴音は、立ち上がった。その拳には、赤く燃えるような想子力が宿っている。

 琴音の強化された空間認識は、金華猫の攻撃をことごとく紙一重でかわし

 金華猫の回避の及ばぬ速度で攻撃を加える。

 琴音の攻撃は、金華猫を圧倒し始めた。

 ムエタイの重い打撃が、金華猫の俊敏な動きを捉え、その硬質化した肉体に鈍い衝撃を与える。

 金華猫は、琴音の猛攻に防戦一方となり、次第に追い詰められていく。


「ぎにゃああぁぁぁぁぁ……!」


 金華猫は信じられないといった表情で、野生の叫びを上げて怯える。


 大いなる迷いの中、大船の庵で聞いた、比丘尼師匠の言葉を思い出す。

「あんさんの『しばく』は、単なる暴力やない。苦しみを終わらせ、安寧をもたらすための『浄化の一撃』となるんや」


 琴音は、あの日、大船の本堂で刻んだ「䷦」の符を取り出す。安寧をもたらす『浄化』。そのために刻んだ符だった。

「……雷水解」静かに唱えた。邪を祓い、解放する卦である


 琴音の拳に、清浄な力が込もる。


 陽介は、プロトデバイスで翠蓮の妖力と、その奥にわずかに残る翠蓮自身の想子力場を解析していた。

(金華猫の核は、翠蓮の心臓の近くに…! そして、翠蓮自身の意識は、まだ完全に消えていない!)


「琴音! 心臓の少し上!そこに金華猫の核がある!」


 翠蓮の顔を見た。その瞳の奥に、一瞬だけ、かつての翠蓮の悲しげな表情が垣間見えた気がした。

 琴音は、強く、強く、拳を握りしめた。


「これで、元に戻れるよ、翠蓮」


 琴音の、感覚が圧縮された時間軸で、金華猫の胸元めがけて、浄化の拳を当てた。


 鈍い音と共に、金華猫の体が大きく弾き飛ばされる。その瞬間、黒い煙のような妖気が噴き出し、苦悶の叫びを上げながら、金華猫は、翠蓮の肉体から引き剥がされていく。それは、金色の瞳を持つ、巨大な黒猫の姿をしていた。


「キィィィィィィ……!」


 金華猫は、断末魔の叫びを上げながら、倉庫の立ち並ぶ港の夜空へと溶けて消えていった。


 金華猫が去った後、翠蓮は力なくその場に倒れ込んだ。琴音は、急いで翠蓮に駆け寄る。

 翠蓮の瞳は、元の優しい色に戻っていた。しかし、その肌は青白く、呼吸も浅い。

「翠蓮……!」


 琴音は、翠蓮の体を抱き起こした。翠蓮は、かすかに目を開け、琴音の顔を見つめた。

「……あ、琴音だ」


 翠蓮の意識が遠のく。琴音がポケットから符を出す

「地雷復。」


          ・


 数日後、横浜中華街の「翠林苑」には、再び活気が戻っていた。


 厨房からは威勢のいい声が響き、店内のテーブルは家族連れやカップルで賑わっている。そして、店の入り口近くの席には、陽介と琴音の姿があった。テーブルには、注文した麻婆豆腐や炒飯の他に、頼んでいないはずの料理が次々と並べられていく。

「おっちゃん、これ、頼んでないよ?」


 琴音が声を上げると、厨房から顔を出した店主が、満面の笑みで答えた。

「おお、琴音ちゃん、陽介君! いいんだ、いいんだ! 翠蓮が無事に戻ってきてくれたんだ。大サービスだよ、大サービス!」


 店主の顔には、これまでの疲労や心配の影は微塵もなく、ただただ娘が無事に戻ってきたことへの喜びが満ち溢れている。その隣には、控えめに笑う翠蓮の姿があった。真新しいチャイナドレスに身を包み、まさに店の看板娘といった雰囲気だ。

「ありがとう、おっちゃん!」


 琴音は、早速麻婆豆腐を口に運び「んんんーっ!やっぱこれこれ! サイコー!」と至福の表情を浮かべる。

 陽介も、熱々の小籠包を頬張り、「うまっ!これはやばいですね!」と目を輝かせた。


(よかったな、翠蓮……)


 陽介は、元気になった翠蓮の姿を見て、心からそう思った。しかし、翠蓮の動きが、以前よりもわずかにしなやかで、猫のように滑らかなことに、陽介は気づいていなかった。


 満腹になった二人は、店を後にした。夜風が心地よく、中華街のネオンがキラキラと瞬いている。

「翠林苑、やっぱ美味いなー!また来ようね、陽介くん!」


 琴音がご機嫌で陽介にほほえんだ、その時だった。


 店の前で客を見送っていた翠蓮が、こちらに近づいてくる。

 琴音が何かを感じ取り、顔色を変える。


 翠蓮は、琴音と陽介の前に立つと、静かに微笑んだ。その表情は、店での顔とは異なる、どこか妖しさを帯びていた。

「琴音。陽介君。」


 その瞬間、翠蓮の瞳がわずかに縦長に変化し、耳の先端が尖り、短い黒い毛が覆う。

 琴音もまた、翠蓮の変化に気づき、表情を引き締める。

 陽介も無意識のうちにプロトデバイスを構える、警戒の色を強めた。

「……翠蓮……」


 琴音の呼びかけに、翠蓮は構うことなく、陽介へと視線を向けた。

「陽介君。」


 翠蓮は、ゆっくりと陽介に近づくと、ふわりと抱きついた。 陽介は警戒しながらも、その密着した体に心臓が跳ね上がる。そして、翠蓮は耳元で囁く。

「ねえ、陽介君。人じゃなくなったけど、琴音に飽きたら、いつでも声かけてね、アーシと遊んで? マジ、もっと楽しいこと、教えてあげられるよ?」


 そして、温かい舌が、陽介の耳を甘く、ねっとりと舐め上げた。

 陽介は、妖しい誘惑に体が硬直する。翠蓮の言葉と吐息が、彼の理性を揺さぶる。

 その様子を目の当たりにした琴音は、怒りと焦り、そして複雑な感情がない交ぜになった表情で叫んだ。

「だめ!翠蓮!陽介くんは」

「陽介くんはぁ、琴音のぉ、なんなんだっけ?」


 翠蓮は、陽介から離れると、妖しい笑みを浮かべて琴音を見つめた。

「……琴音……。アーシ、ようやくわかったよ、琴音はあんなのと、戦おうとしてたんだね……そりゃぁ人相手じゃ足りないよね。」


 翠蓮の表情があの頃の、武を求める少女の、挑戦的なものに変わる。その眼差しには、人間だった頃の、琴音を越えようと追い求めていた輝きが、妖しさの中にわずかに宿っているようだった。

「ふふ。で、人じゃなくなったけど、アンタがもっと強くなりたいなら、ちょー最高のスパーリング相手になれるよ? 全然、いつでも来ていーからね。」


 翠蓮は、挑発するようにそう告げると、再び瞳を元の優しい形状に戻し、耳の尖りも消して、静かに店の中へと戻っていった。


(って、半妖?)


 あやかしに取り憑かれている間、その肉体はその影響を受けて少しづつ人ならざるものに変化する。その変化は不可逆なものとして、時にそこに残り人は半妖となる。

 翠蓮は、あやかしと関わることで、琴音の心根を理解した。

 負けず嫌いで、琴音に遠慮なく正面から本気で関わってくる。そんな翠蓮が帰ってきた。


 翠蓮が去った後も、耳に残る感触と妖しい誘惑の言葉に、陽介の心臓はバクバクと鳴り響いていた。


 琴音は、そんな陽介を見て、眉をひそめる。

(泥棒猫……!!)

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