第三ノ二話:相棒の嘶き

その夜、呂布は眠れずにいた。

丁原から与えられた赤い神馬は、今は特別にあてがわれた厩舎うまやで、他の馬を威圧するかのように静かに佇んでいるはずだ。その圧倒的な生命力、鋼のような肉体、そして魂を見透かすかのような双眸そうぼう。あの馬となら、どこまでも行ける。どんな強敵とも渡り合える。武人としての血は、これ以上ないほどの興奮にたぎっていた。


だが、その一方で、彼の心には一抹の寂しさが影を落としていた。


呂布は酒盃を置くと、誰にも告げずに幕舎を出て、古くからの馬が繋がれている厩舎へと向かった。わらの匂いと、馬の体温が混じり合った、慣れ親しんだ場所。その一番奥に、彼の長年の相棒はいた。


雪のように白い毛並みを持つ涼州産の駿馬、「飛雪」。


呂布が近づくと、飛雪は嬉しそうに鼻を鳴らした。だが、その姿は、以前とは明らかに違っていた。月明かりの下で見ると、その白い毛並みは艶を失い、ところどころ薄くなっている。呼吸も、心なしか浅く、弱々しい。先の匈奴との戦いで、無理をさせたせいかもしれなかった。


「…ご苦労だったな、飛雪」


呂布は、そのたくましい首筋を優しく撫でた。ごつごつとした骨の感触が、掌に伝わってくる。脳裏に、この馬と共に駆け抜けた日々が蘇った。


初めて跨った時、その荒々しい気性に振り落とされそうになったこと。

匈奴の矢の雨の中、身を挺するようにして自分を守ってくれたこと。

吹雪の夜、互いの体温で暖を取りながら、二人きりで朝を待ったこと。


「お前がいなければ、俺はとうに死んでいた」


誰に言うでもなく、呂布は呟いた。それは、彼の心の底からの偽らざる本心だった。この寡黙な相棒は、彼が「飛将」と呼ばれるようになるまでの、全ての戦いを共にしてきた、唯一無二の戦友なのだ。


その時、背後から静かな足音がした。振り返ると、そこには老将・張譲が、心配そうな顔で立っていた。

「奉先様…やはり、ここにおられましたか」

「…張譲か」

「飛雪のことでございますか。…あやつも、もう年でございます。先の戦での無理が、相当こたえた様子…」張譲の声には、同じく飛雪と共に戦ってきた者としての、いたわりの色が滲んでいた。


呂布は黙って頷いた。分かっている。戦場で生きる武人として、非情な決断を下さねばならない時があることを。このまま飛雪を戦場に連れて行けば、次の戦で間違いなく命を落とすだろう。それは、戦友に対する最大の侮辱だ。


「…ああ、分かっている」呂布は、飛雪の鼻面をもう一度撫でた。その穏やかな瞳を見ていると、ふと、遠い并州に残してきた娘たちの顔が浮かんだ。「…いつか、あの子らも、お前のように俺の手を離れていくのだろうな」。誰に言うでもない呟きが、静かな厩舎に虚しく響いた。

彼は、感傷を振り払うように首を振ると、決然と言った。「次の戦いが終わったら…いや、出発する前に、こいつには故郷で、最高の余生を送らせてやる。それが、俺にできる、最後の恩返しだ」


その決断は、彼の心の一部を切り捨てるような、痛みを伴うものだった。


彼は、しばし飛雪との別れを惜しむと、意を決したように、新しい赤い馬が待つ厩舎へと向かった。赤い馬は、呂布の姿を認めると、挑戦的な光を目に宿し、ブルルッと力強く鼻を鳴らした。その全身から、有り余るほどの力が溢れ出している。


呂布は、その馬の前に立ち、真っ直ぐにその瞳を見据えた。

「お前が、俺の新しい翼になる。ならば、飛雪の魂も背負って、共に天を駆けてもらうぞ」


それは、新たな相棒に対する、力強い誓いであった。


愛馬との、来るべき別れ。そして、新たな魂との出会い。この夜の経験は、呂布が単に強い武器や道具を手に入れたのではなく、仲間との絆、そして別れの痛みを知る「情」のある人間であることを、静かに示していた。やがて始まる漢室の動乱への旅立ちは、彼にとって、さらなる覚悟と重みを伴うものとなったのである。

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