嘆きの牢に残るは炎
水音は遠のく。高さの揃わない階段をリュカオンは降りてゆく。奥からは風が吹く。やがて視界は明るくなってゆく。
(もう少し、か……)
薄暗い階段を降りると広間に抜けた。四方の壁に立てつけた松明で照らされ中央に祭壇が。奥には先へ続く通路が見える。リュカオンは息を飲んだ。通路の上。そこに刻まれるは双剣と炎の紋章。よく見知ったものだ。これはフィロクレスの紋章。ここは宮殿へと続く地下通路なのだとリュカオンは思い当たった。
「……嗚呼、神はやはりご慈悲を下さったんだ」
リュカオンは祭壇の前へ進んだ。卓上には古びた本が開いて置かれていた。そこには見覚えのある挿絵が描かれていた。矢だ。平民であるリュカオンは教育を受けず育ってきた。文字は読めぬがミリアと別たれたあの新月の夜に放たれたものと関係があるのだと理解はできた。
「これが、あの時の……」
本を持つ手に力が入り震えた。それを破り捨てたい衝動を堪え、そっと本を閉じ鞄の中へ仕舞った。
(行こう……この先にミリアがいるんだ……)
忌々しい双剣と炎の紋章を潜りリュカオンは足を進めて行った――。
地下道に足音が響く。広間から持っていった松明の明かりだけが頼りだった。ここはフィロクレスの宮殿の敷地なのだろうか。リュカオンは分からぬ道をひたすら進んでいった。衛兵もいなければ罠の一つも見当たらない。石造りの暗い道を進む。彼に引き返すという考えはなかった。ここまで神の導きがあったのだ。神もミリアを助けよと言っているのだ。そう言い聞かせながらどこに通ずるか分からぬ道を進んで行く。もう夜は明けたのだろうか日が射さぬこの通路ではそれすら感覚が分からぬほど薄暗い。歩き続けた足は悲鳴を上げ、靴で擦れたところから血が滲む。
延々と続くかと思われた通路はやがて、大きな広間に出た。リュカオンは松明を掲げ辺りを見回した。鉄格子だ。壁一面に牢屋がびっしりと詰め込まれたここは牢獄だ――。
リュカオンは息を飲んだ。牢に人がいた。しかし、その誰もが傷つき、目は虚ろで何も映さぬ抜け殻のような人が幾人も詰め込まれているのだ。
フィロクレスの暴虐な性格は人を狂わせる――。女子供を問わず彼に目を付けられた者は地獄が温いと思うほどの拷問を受ける。それがこの有様なのだ。
(もし、ミリアを助けられなかったら……)
自分もこうなるのだろうか。最悪な結末の想像を振り払うようにリュカオンは頭を振り牢に目を向けた。もしかしたら、この中にミリアが投獄されているかもしれない――。
「……ミリア」
小さく囁いたはずの声は広間中に響いた。しかし、返事は無い。やはり、ここにはいないのだろうか。
(先へ進もう)
牢の中を探り、進めばやがて出口が見えた。戸の先に誰かがいないかリュカオンは気配を探るように扉にに耳を当てた。その時だ。
こつん――。背後で何か物音がした。リュカオンは慌てて松明を消し、身をひそめた。
こつん、こつん。物音は近づくことなくどこかで鳴る。こつんと鳴り続けるそれは一定のリズムで鳴っていた。それは段々と数が増してゆく。聞き覚えのあるリズムだった。それは、村で豊作を祈る時に奏でる太鼓のリズムだ。リュカオンは走った。牢に閉じ込められた者の目、この向こうにいるかもしれない衛兵に見つかることなど考えずに音のする方へただひたすらに。
こつん。こつん、こつん。牢の奥、出入り口とは反対のそこに一際頑丈な扉があった。扉に手を掛ければ鍵が掛かっている。
「ミリア、そこにいるの?」
物音は絶えず叩かれる。リュカオンは扉を叩いた。しかし、扉は震えるだけで開くことは無い。
「……どうすれば」
この扉の向こうへ行けるのか。リュカオンはその場に崩れ落ちた。このままでは助けられない――。
すると足元に見覚えのある光の粒が落ちていた。それはすっと増え、リュカオンの足元で泳ぐように踊る。光の粒たちが舞い、扉の隙間から向こうへ入ってゆく。やがて、光は消え扉を閉ざしていた錠前が音を立てたのだ。
(扉が、開いた……?)
リュカオンは恐る恐る扉を押した。すると先程まではびくともしなかった扉が錆びた音を出して開いたではないか。また、神が助けてくれたのだ。
「……神よ、貴方の慈悲に感謝いたします」
リュカオンは手を合わせ祈り、扉の向こうへ入った――。
部屋の中は、外にある牢よりも綺麗だった。窓の外から漏れる月明りは部屋の中にある金の装飾を照らし、中央には天蓋の付いたベッドが置かれていた。ベッドの上、そこに人影があった。よく見知った顔だ。ミリアがそこにいた。
「ミリア……! やっと会えた……!」
「リュカオン……本当に、貴方なのね……」
二人は再開に喜び互いを抱きしめた。抱きしめたミリアからじゃらりと音が鳴った。リュカオンは身体を離しミリアを見た。ミリアの両の腕と足には枷が付けられ鎖で繋がれていたのだ。フィロクレスの暴虐な振る舞いに頭に血が上った。
「なんてことを、まっておくれ。今この鎖を解くから」
リュカオンは腰に下げた短剣を引き抜き刀身を鎖に宛がった。
「……何をするの?」
ミリアは尋ねた。声が震えていた。
「この鎖を解いて逃げよう」
「逃げる……」
「そうさ、君を助けるためにここへ来たんだ」
「そう、ねえ、リュカオン……」
ミリアはリュカオンの手に触れた。その手はとても冷たい。
「私ね、貴方とは一緒にいられない」
「ミリア……?」
リュカオンは顔を上げた、目に映るミリアは泣いていた。
「私、私ね、あの方の子供を授かってしまったの……」
「あの方……フィロクレスの……?」
「……リュカオン、貴方を愛していたのに……私……」
「ミリア……?」
リュカオンの手が緩んだ。その隙を見計らったかのようにミリアは短剣を持ち自身の腹へ突き刺した。
「ミリア!」
「……ごめんなさい……貴方を愛しているわ……許してね」
涙が浮かびミリアの顔はぼやけて見える。しかし、最期に見たのは彼女の笑顔だった――。
「伝えられなかった――」
呟いた言葉は弾けて消えていった。ミリアの息はもうない。
いつまでも続いていくと思った平穏は崩された。愛する人が目の前で息絶えた。全てあの男に踏みにじられた。心に炎が渦巻く。抑えることができない。
牢の奥深く、怒号が轟いた。歩を止めてなるものか。全てを終わらせるために――。
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