第5章 忘れられた物語の採集
月曜日の午後、小楠香林は中原図書館の、高い天井から柔らかな光が降り注ぐ閲覧室にいた。周囲には、ページのめくれる音と、かすかな咳払い、そして古い紙の匂いだけが満ちている。ここは彼女にとって、世界からこぼれ落ちた、小さな物語を採集するための、静かな猟場だった。
彼女の目当ては、本そのものではない。本の中に忘れ去られた、誰かの痕跡だ。
歴史書の分厚いページに挟まっていた、押し花にされたクローバー。旅行ガイドに残された、日付の消えかかったバスの乗車券。使い古された辞書に、赤鉛筆で引かれた無数の下線。それらは、かつてその本を手に取った、名も知らぬ誰かの、息遣いの化石だった。
香林は、それらを集めては、自分だけの物語を想像する。このクローバーを挟んだ人は、どんな願い事を託したのだろう。このバスに乗った人は、窓の外に何を見たのだろう。彼女にとって、この世界の「法則」とは、力を得るためのシステムではなく、こうした、ささやかな物語に耳を澄ますための、作法のようなものだった。それは、城戸や璃子のような、世界を書き換えようとする傲慢な遊びとは、対極にある行為だった。
今日、彼女が見つけたのは、建築写真集に挟まっていた一枚のレシートだった。黒いインクで、『マキ』という店名と、いくつかのカクテルの名前が印字されている。日付は、一週間ほど前。裏には、震えるような、拙い文字で『ありがとう』とだけ書かれていた。
香林は、そのレシートを指先でそっと撫でた。どんな人が、この店で、この時間を過ごしたのだろう。この『ありがとう』は、誰に向けられた言葉なのだろう。
彼女は窓際の席に座ると、今日採集したばかりの、いくつかの「欠片」をテーブルの上に並べた。古びたバスの乗車券、四つ葉のクローバー、そして、『マキ』のレシート。
目を閉じて、物語を紡ぐ。
ひとりの人間がいた。その人は、何かを探して、あるいは何かから逃げるために、バスに乗って遠くへ行った。旅の途中で、道端に小さな幸運が落ちているのを見つける。そして、長い一日の終わりに、『マキ』という名の隠れ家のような場所で、誰かに話を聞いてもらった。その感謝のしるしとして、この言葉を書き残したのだ。
それは、何の根拠もない、彼女だけの空想だ。だが、その空想は、無機質なレシートに、温かい血を通わせる。香林は、そうやって世界に散らばる無数の孤独な欠片を拾い集め、それらを繋ぎ合わせることで、自分自身の孤独を、ほんの少しだけ癒しているのかもしれない。
ふと、視線を感じて顔を上げると、すこし離れた席に座る女性と目があった。きっちりとした身なりの、どこか神経質そうな女性――佐橋美奈子だった。彼女は本を読んでいるのではなく、ページに印刷された建物の柱の数を、小声で何度も数えているようだった。その姿は、何かに怯え、祈りを捧げているようにも見えた。
香林は、小さく会釈をした。美奈子も、はっとしたように、少しぎこちなく頭を下げた。彼女もまた、自分だけの作法で、この世界と向き合っているのだと、香林は直感的に理解した。その作法が、祈りなのか、呪いなのかは、本人にしかわからない。
香林は、集めた欠片を、大切にしているブリキの缶にしまった。缶の中には、そうやって集められた、たくさんの物語が眠っている。
図書館を出ると、西日が歩道を長く照らしていた。現実は、相変わらず退屈で、無秩序だ。けれど、香林の目には、その風景が、無数の秘密の物語を隠した、巨大な書庫のように映っていた。
彼女は、誰とも共有されることのないその美しい景色を、ただ一人、静かに胸に抱きしめながら、家路を急いだ。
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