果てに駆けろ

第1話  So it goes.

午後のチャイムが鳴って、誰もいない廊下にひとりの足音が響く。


グラウンドには行かない。

もう行けない。


フィールドを駆けられたのが遠い昔のようだ。

一瞬、膝が悲鳴をあげたような気がした。


湊は、鞄の中で折れ曲がった案内プリントを取り出しながら、図書室の引き戸をそっと開けた。


薄い陽が、静かなページの匂いに落ちている。


「入っていいわよ。うるさくしなければね。」


カウンターの向こうから声がした。

同級生よりも大人びた女の人が、書棚の裏から現れる。

白いブラウスに、深緑のカーディガン。


「文芸部の人じゃないですよね?」


湊が尋ねると、女性はちょっとだけ笑ってから首を振った。


「違うわ。文芸部の顧問。国語の柊です。あなたは?」


「……早川です。湊。プリントもらって。詩葉に。文芸部の浅野に。ラグビー部だったんですけど、怪我して。」


「そう。」


彼女は湊の顔をまっすぐに見る。

その視線が、まっすぐすぎて、ウソが通じなそうな目だった。


「……じゃあ、書くの?」


「……グラウンドには、もう行けなくて。」


柊は静かに頷いた。

何も言わず、カウンターの下から文庫本を取り出して、湊に差し出す。


「読んでみて。『スローターハウス5』。カート・ヴォネガットって人の本。あなたみたいな人には、ちょうどいいかもしれない。」


「俺みたいな?」


「世界が全部ふざけてる気がするような人向け。よくいるのよ、図書室に。わたしも、そうだったけれど。」


湊は文庫を受け取る。


見たこともない名前。

見たこともないタイトル。


でも、そのとき、自分に向かって誰かが『水』を渡してくれたような気がした。


「…ありがとうございます。気が向いたらきます。」


「もしも読むなら、感想文を三行でいいから書いて持ってきて。返却条件。貸し出しはしない。ここで読むこと。」


「え、なんでですか?」


「本は、痛いとこ突くから。」


その言い方が妙に冷たくて、でも、どこか優しかった。


湊は本を開く。

最初のページに、奇妙な一文があった。


So it goes.


本当の意味はわからなかった。

でも、進めって言ってる気がした。

…いや、違う。進むしかないんだ、って思った。

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