妖怪画家と雇われ妻、そして狸

平本りこ

第一話 その面影を忘れぬように、妖怪画家は彼女を描く

1 五月雨と子狸

 空は、滂沱の涙を流す。


 五月雨降りしきる夕、そろそろ日が沈む時刻だが、分厚い雲に覆われた空は昼も夜もなく鈍色に渦巻いている。


 山はその雄大な腕に、数多の命を抱えている。慈しむ者、安らぐ者、そして怒れる者も。


 山の神に庇護されているはずのそれらの中に、三百年の眠りを阻まれて、煮えたぎるような激情を露わに地中から低く憤怒の唸りを上げる者がいる。


 だから、空はいっこうに泣き止まない。


 そんな曇天の下、冷たい礫を浴びながら、着流し姿の男が一人、心許ない足取りで山道を進んでいる。


 ゆらりゆらりと左右に大きく揺れて、虚ろな目は、まるで魂が抜けてしまったかのように、ただ一点を凝視している。もしや泥酔でもしているのかと心配になるほどだ。


 ゆらり、ゆらり。


 宵闇の中で見たならばきっと幽鬼と見紛うだろう男の歩みは、泥水が流れる軽い坂道の真ん中で、ぴたりと止まる。男の足先には、雨粒を弾く鼠色の布の塊がある。


 男は、まるで見えない手で背中でも押されたかのようにがくりと膝を突き、鼠色に手をかけて己の方へと軽く引く。


 ずれた布の隙間から、青白い女の顔が覗いた。鼠色の塊と見えたものは古びた絣の着物であり、それを纏っているのは、とうに冷たくなった若い女であった。


 男は呻く。路傍に転がる岩のような身体に縋りつき、雨とも涙ともつかない雫を頬からしたたらせる。


「すまない、すまない」

「……ふ……」


 呆然と繰り返される懺悔の波間に、ふと、誰かの小さな声が折り重なった。男は動きを止めて、耳をそばだてる。


「……ふ、あ……」


 女の亡骸が、腹の下から持ち上げられるようにして揺れた。緩い斜面を流れる茶色く濁った雨水をぺちゃりと打って、鼓動を失い硬直した女の下から濡れそぼった黒い手が飛び出した。


 人のそれとは異なる、体毛にびっしりと覆われた短い手。いいや、前足というべきか。続いて現れたのは、濡れた黒豆のような鼻先と、やや淡い茶褐色の顔面、そして、四肢の力みに合わせて細まる真っ黒な瞳。


 それは、ふん、と四肢を踏ん張って、自分に覆い被さっていた冷たい身体から這い出ると、ぶるりと全身を震わせた。その拍子に水の礫が男に襲いかかったが、彼は呆然とその生き物を見下ろしながら、泥水を浴びるがままになっている。


 体毛にずっしり染みこんだ水をせっかく弾いたにもかかわらず、大粒の雨に襲われてすぐにずぶ濡れになるのが不快と見えて、それはもう一度身体を振って、水気を弾き飛ばした。そして。


「だあれ?」


 小さいながらも鋭利な牙が並ぶ鼻面から発せられたのは、舌足らずな声。つぶらな目で男を見上げ、人間の幼子のように瞬きを繰り返すのは、紛れもなく。


「子狸」


 しかしただの狸ではないだろう。獣にしては瞳に知性が宿り過ぎている。子狸は賢そうな目をただぱちくりとさせながら、男を見上げている。


「まさか、子がいたのか……?」


 亡骸の腹の下から這い出て来た子狸。よく見れば女のこと切れた体勢は、自らの身体を盾にして何かを守ろうとしていたかのように見える。


「すまない」


 母子に起こった悲劇の委細を察し、男の表情がぐにゃりと歪む。彼は、幼さゆえか状況の理解ができていない様子の子狸を抱き上げて、懐に入れて抱きしめる。濡れた体毛から水がしたたって、男の胸を凍りつかせるように冷やした。


「この子のことは、私が責任を持って育てるから。だから……許してくれ」


 懺悔の声は雨に溶け、鈍色の世界に降り注ぐ。

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