『火花』(おかしな噺・特別編)
橘夏影
第1話:月の裏の目
秋に触れ合わせる肌の甘さは、私の過去さえ、彼岸へと連れ去ってくれた。
夜毎、愛しい連れ合いの匂いに酔った。
彼女の、キームンのような淡く煙る茶葉に似た香りで、胸を満たす。
繰り返すと、微かに山椒を潰したときのような、舌先に残る青さがあった。
それらが彼女の冷やりとした体温と混ざって、ぬるい雨に打たれるように、シーツを濡らした。
頭の奥が痺れ、夢と現実のあわいが、曖昧になる。
そしてたぶん、彼女もそれを知っている。
そんな日々の中にあって……私はひどく、不安定になっていた。
満たされた時間を過ごしているはずだった。だがそのことが、私を責め立てた。
――耐えがたいこと。
経済面での連れ合いへの依存が、まずあった。
彼女がそのことで私のことを責めたり、不満を滲ませたことは一度もない。
彼女の経済的自立は、この閉じた村の中で彼女が体当たりで築いてきたものだ。
だからだろうか……私がそこに棲まうことに、ある種の満足感を得ているようだった。
でもだからこそ、私の焦燥はやり場がないとも言えた。
そして、生業として、趣味として――自分が書く物についての迷いが重なった。
最初、憑りつかれるように言葉を綴っていた。だが次第に、自分の中の限界のようなものが見え始めた。
そういうこと自体は、これまでもずっと繰り返してきたことだった。一朝一夕に乗り越えられないことは分かっていた。
それでも、時の重みと共に、その焦燥は水を吸った布団の如く耐えがたくなり、自分の器を突きつけられた気がした。
一度、筆を休めることにした。目を養い、修養する時間にしようと。
だがそうすることで気づいてしまった。インプットだけで、なにも生み出さない日々というのは、ひとつの地獄なのだと。
連れ合いのお陰で、言葉を綴る道を見出され、目を醒ました私の感性は、それまでより遥かに多くのものを、もたらした。
それは祝福であり、拷問だった。
――痛み。
それはナイフのような冷たく鋭利な痛みとはまったく異なった。
剥き出しの、ぬかるんだ粘膜に、
そんな心地がした。
その楔は、呼吸をする度に胸の中で擦れ、
肉を抉り、絶えず熱を伴って私を苛んだ。
これまでであれば、その痛みは筆に託して言葉として形を与えることで、鎮めることが出来ていた。
だが、行き場を失った痛みは焦がれとなり、私に普段以上に、彼女を求めさせた。
彼女は表面上、困ったような表情を浮かべながらも、悦んで私を受け入れてくれた。
そのことが、却って私に言いようのない不安を呼び込んだ。
彼女は、いつまで私を諦めないでいてくれるのだろうか、と。
私はまず、新しい仕事を探し始めた。
といっても闇雲に以前と同じような仕事をしても、自分にとって、相手にとって、持続的な発展をもたらすものでなければ意味はない。
村の現状を考えれば、地域おこし協力隊として地域アーカイブやオーラルヒストリーの収集をすることなども視野に入る。
半ボランティアとはなるだろうが、IT業界経験者の端くれとして、ICT化のお手伝いもできるかもしれない。
会社員時代の収入には到底及ばない。それでも、今よりはずっと
そんな風にして、いまの自分の心模様を考え、私は私自身のキャリアアドバイザーになり、逃げ道のない選択肢を並べてみた。
――逃げ道のない……?
嘘だ。こんなことは、私のちっぽけな自尊心を宥めているだけで、結局は彼女の経済力に頼ろうとしているんじゃないのか。
もっとシビアに考えるべきなんじゃないのか。
どこかから、そんな声が聞こえてきた。
それでも、なりたい自分と、なれる自分が違うことは、もう十分にわかっていた。
そう、分かりきったことなのに……迷いは糸のように纏わりついた。
ソファで文献に目を落としていた彼女の隣にそっと腰を下ろし、私が新しい仕事を探そうと思うと伝えた時、彼女の目元には、微かな落胆の色が滲んだように見えた。
それから私の手に、さらりとした彼女の手を重ね、風にたわむ木のように、かすかに頷いた……そんな気がした。
――あなたが、そうしたいのなら。
ただ、それだけを告げられた。
私たちは、それきり言葉もなく、そのままそこで愛し合った。
ある夜の夕餉の食卓。その日は私が銀鱈のムニエルを作った。何か少し手のかかる料理をして、頭の中を濯ぎたかった。
そしてそれは成功していた。何度も丁寧に、贅沢にバターを替え、ケイパーとエシャロットの香ばさに、胸を躍らせた。
きっと、彼女も微笑んでくれる。そんな手ごたえがあった。
皮までパリッと仕上がった極上の出来。つけ合わせに、ジャガイモとオレンジを添えた。
彼女は上機嫌だった。シャンパンだって開けた。
でもやがて、ふと前触れなく、小さく切ったジャガイモをフォークで口に運ぶ手を止めた。
後になって思えば、ずっと予兆はあった。私が、それに気づかないフリをしていただけに過ぎない。
彼女は、ぽつりと言った。
――いま、あなたが苦しんでいることって……わたしには、どうしようも、できないのね。
そう、目を伏せたまま言った。
それが私への問いだったのか、指向性をもった独り言だったのかは、わからなかった。
あるいはそれは、彼女にとっても同じに、わからないのかもしれなかった。
彼女のそんな寂しそうな気配を肌に感じたのは、初めて庭先で出会ったとき以来かもしれない。
世界が、軋みをあげていた。
いまにも、空が割れ、硝子の欠片が雨となって降り注ぎそうだった。
彼女が伏せていた目を上げた瞬間、私の震えた手から逃げたカトラリーが、大きな音を立ててテーブルから落ちた。
強く、非難するかのような音だった。
我に返った私が慌てて拾おうとするのを彼女は手で制すと、何も言わずに床を拭き、カトラリーを洗い、元のテーブルの上に戻した。
その一連を、私が、まるで叱られた子どものように見つめる間、彼女は、一度も私と目を合わせてはくれなかった。
その日、私は夕暮れ時の麦畑の前で、ぼんやりと立ち尽くしていた。
青い苗が整然と並び、黄金色の波も、さざめきもまだ遠く、静かなものだった。
ふと、誰かの気配を感じて振り返った。
亜麻色の長い髪が、風にふわりと
「……あの子かと、思った?」
その口元には淡く笑みこそ浮かんでいたが、双眸にいつものような柔らかさはなかった。
燈子さんだった。
連れ合いの古くからの友人であり、ともに村の動乱の渦中で生きてきた女性。
親友であり、戦友のようでもあり、……共に祈る者。
「……千種さんのこと、ですか?」
千種は彼女の娘であり、この麦畑の前で初めて出会った。当時はまだ〝少女〟だった。
……そう言われてみれば、たしかに私は、そんな予感にすがろうとしていたのかもしれない。
まるで甘やかな逃げ場を、私が求めているのだというように。
亡き妻の面影を感じさせる、
私は、頭を振った。
「なにか、悩んでるそうね」
連れ合いから聞いた……あるいは、察したのだろう。
燈子さんは前を向いたままだった。
「彼女……連れ合いは、何か言っていましたか……? 」
そう尋ねても、なにも返っては来なかった。
私は、懺悔を求められているような気分になった。
「……おっしゃる通りです。僕はいま、迷っている。いまのままの自分で良いのだろうか、と」
私も、燈子さんの見つめる先に目を移して、そう零した。
思えば、今回のことだけではない。近頃は、連れ合いを不安にさせてばかりだった気がする。
燈子さんから、彼女のことを託されていたにも関わらず。
無論、ただ尽くせということではないはずだ。燈子さんも、そんなことは望んでいない。
――では……なにを?
「まるで世界は自分のためにあるような言い草ね」
驚いた。
言葉の内容もそうだが、その言い方に。
薙刀の切っ先で頬を撫でつけるかのようだったからだ。
私はつい、驚いた表情のまま、隣に立った彼女を見返した。
――月が、翳っているのよ。
そう言って、こちらを見た彼女は、はっきりと、私を睨んでいた。
彼女は確かに、時折、遠く山の稜線にそんな鋭い眼差しを向けることがあった。私は、そんな彼女に対して、ぞくりとしたのを覚えている。傍らから眺めるその佇まいは、ただ美しく、艶美で、……わずかに畏れを抱かせた。
だが、いざそれを向けられた私は、息の仕方を忘れた。夜を裂く梟の眼に射抜かれた、鼠も同然に。
美しさも、艶やかさも、すべては私を締め付け、殺すために設えられているかのように見えた。
私が言葉を忘れている間に、彼女は体ごと正面から私の方に向け、言った。
「見極めさせてもらうわ」
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