41話 美しい夢の、おわり

 西園寺家を取り巻く旅が終わりを迎え、しおりが最後に辿り着いたのは――

 幼い頃の、本当の記憶だった。


――べんごしの、パパとママ。

 だいすきなふたりに、もうあえないなんてしんじられなくて。

 ずっと、ずっとないていた。

 なきながらひたすらはしりまわって、じぶんがどこにいるのか、どこにいきたいのか、わからなくなっていた。

 なきつかれて、きがつくと、しらないところにひとりでたっていた。

 そこにはたくさんのいろんなおはながさいていて、まるでおとぎばなしみたいなばしょで。

 とてもきれいなはずなのに。

 どれもさみしいいろをしていて、とてもこわかった。

「……パパ……ママ……」

 ちりん、ちりん……と、ちいさなすずのようなおとが、とおくからきこえてくる。

 それはまるで、パパとママがわたしのことをよんでくれているみたいにきこえて。

 わたしはおとのなるほうへとあるいていく。

 ちりん、ちりん……。

 すこしずつおおきくなるおとをさがしていると、おなじおはながたくさんさいているばしょをみつけた。

 まるですずのようなかたちをした、きれいなしろいおはなが、ほほえむようにさいている。

 なまえは……わからない。

 ちりん、ちりん……。

 ただ、とてもあたたかくてやさしいねいろが、そこからきこえてきた。

「……ふしぎなおはなさん。おねがい、します……」

 わたしはぎゅっとめをつむって、てをくんだ。

「わたし、ぜったい、ぜったいに、りっぱなひとになります。パパとママみたいな、りっぱなひとになるって、ちかいます」

 やさしいかみさまがいるなら、きいてほしかった。

「たくさんおべんきょうします。きらいなものも、ぜんぶたべます。せかいじゅうのみんなからすごいってほめられるような、そんなひとになります。だか、ら……ぁ」

 ないちゃだめだ。ないたらきっと、かみさまはおねがいをかなえてくれない。

 どんなにそういいきかせても、かなしいきもちはとまらなくて。

「……かみ、さま……」

 だからどうか、かみさま。

「パパとママを、かえして、ください……!! わたしの、あげられるもの、ぜんぶ、ぜんぶあげるから……!!」



――ねえ、ちっちゃい私。

 モノトーンの世界に囲まれ、かみさまに祈り続ける彼女の少し後ろで。

 しおりも大粒の涙を流していた。

――その願いはね、ひとときの美しい夢なんだよ。

 その夢の先では、両親がいることを疑わず勉強に打ち込み、飛び級を重ねて色んな人にすごいと褒めてもらえるかもしれない。

 でも、誰も自分を守ってくれる人はいない。遠くから見守ってくれているはずのパパとママがいつまでも現れない世界で、孤独のまま理不尽と戦う運命が待っている。

 戦って、戦って、傷ついて、それでもなお戦い続けて――

 そしていつか、自分の力では立ち上がれなくなる。

――最初から願わなきゃよかったんだ。

 叶うはずのない願いを口にして、大事なことをずっと忘れたまま過ごして、りっぱなひとになったと思い込んで。

 そんなのは間違ってる。悲しいことはちゃんと悲しむべきなんだ。そうしないと、悲しみを受け入れることができなくなるから。

 しおりは弱々しく背中を丸めて祈り続ける、小さな彼女にそっと近づいた。

――私がかみさまになって、やさしく抱き締めて願いを止めよう。そうすればきっと、幼い私は長い時間をかけて悲しみを受け入れてくれる。

 りっぱなひとにはなれないかもしれない。勉強の出来は普通で……あ、でも親が弁護士だからちょっと頭は良いけれど、もちろん飛び級なんてしない。学校には同い年の友達がいて放課後一緒に遊んだり、一緒の部活動で青春を味わったり、ささいなことでケンカして、すぐ仲直りして。あるいは好きな人ができて恋をしたり……そんな、平凡だけど幸せな生活を送る少女として育っていけるだろう。

――なんて、素敵な日々なんだろう。きっと楽しいだろうな。

 未来を夢想し、しおりは小さな自分に手を回そうとして――

――でも。

 手が、止まった。

――花図鑑作りも、楽しかった。

 拓人が描いた躍動感溢れる花の絵に、ひたすら圧倒された。

 彼の力になりたくて、図鑑のような体裁に仕上げたいと意気込んで編集長を任された。

 拓人や茜たちと同じ学校の中で、何でもない会話をしながら一冊の図鑑を作り上げていく時間が、とても心地よかった。

 トラウマで倒れたり、自分のことが分からなくなった時、いつも柊さんが傍にいて、優しく寄り添ってくれた。お菓子だって、一緒に作ってくれた。

 そして、何よりも。

 大好きな茜と過ごしたあの、特別な一日。

 茜がただの雪村しおりの親友として過ごしてくれて、嬉しくて泣いてもいいんだと教えてもらった。

 私の人生で間違いなく、一番楽しかった一日。

「……いやだ」

 いまここで、彼女を抱き締めてしまったら。

 今までの楽しかったことぜんぶが、すべてなかったことになってしまう。

「できるわけ、ないよ、そんなの……」

 たとえそれが、偽りの記憶の果てに得られたものだったとしても。

 決して失うことのできない、かけがえのないものなのだと。

 私は知ってしまったから。

 楽しかったんだよ。

 幸せだったんだよ。

 何もかも忘れてやり直すなんて――

 できるわけないじゃないか!!

「……? おねえちゃん、だれ……?」

 しおりの存在に気づいた幼い彼女は、祈りを止めて涙ぐんだ顔でしおりを見上げていた。

「……ぁ……」

 自分のことをなんて彼女に伝えればいいのだろうと、しおりは口を開きかけて止まる。そして再び伸ばそうとした手は、彼女に触れることへ怯えるように、動けなくなっていた。

「…………っ」

「……おねえちゃんのて、ふるえてる……。おねえちゃんも、なにかこわいことがあったの……?」

「……うん……っ」

 しおりは、彼女と同じ目線になるまで大きくしゃがんで、星のように煌めく大きな瞳を真っ直ぐに見つめた。

「……おねえちゃんもね、たくさん怖い思いをね、してきたんだ。それで逃げ出して……気がついたらここにいたんだ」

「……そうなんだ。それならわたしたち、おんなじだね」

 すると幼い彼女はしおりに近づいて、震える小さな手をしおりの頭にそっと乗せ、やさしく撫でた。

「でもわたし、おねえちゃんがきてくれたから。すこしこわいの、なくなったよ」

 へへ、と涙の跡が残る顔で、彼女は精一杯の勇気とともに微笑んだ。それはまるで母にあやされているかのようで、しおりは目を閉じて物心つく前の思い出を想像してしまう。

 ずっとこんな時間が続けばいいのにと、願いそうになる。

 しおりは目を開くと、新雪のように柔らかな彼女の頬にそっと手を伸ばして、涙の跡を拭った。

「……ありがとう。私もね、怖いって気持ち、楽になったよ」

 微笑んで、しおりは小さな彼女を包み込むように抱きしめる。

 かすかな驚きを伴いつつも、小さな手がしおりの背中に回った。永遠とも思える時間の中で、互いの温もりだけがここにあるすべてだった。

 そしてゆっくりと、しおりは彼女から離れて、問いかけた。

「……ねえ、パパとママに、会いたい……?」

 痛いほどに答えが分かっていても、聞かなきゃいけない。

「……あいたい、あいたいよ! パパとママに、あいたい!」

「うん……そうだよね、会いたいよね」

 でも、優しさだけでは決して彼女を救えない。

 抱きしめるだけでは駄目なんだ。

「……ごめんね、そのお願いだけはね。叶わないの」

 どんなに苦しくても、辛くても。前に進むためには。

 起こったことを、なかったことには出来ないんだ。

「いやだ、いやだ! かみさまは、わたしがいいこにしてたら、おねがいをきいてくれるの!」

 幼い彼女は大きく首を振って、必死に現実を否定しようとする。

「うん。だから……かみさまはね、あなたのお願いを、ちゃんと叶えたんだよ」

 たくさん戦って、傷ついて、自分の力だけでは立ち上がれなくなって。

「……え……?」

 そんな私に、この不思議な旅が教えてくれたのは。

「だって、私はね――」

 見返りを求めない、純粋で真っ直ぐな恋心かもしれない。

 自身のあり方を、自分で決めることの尊さかもしれない。

 あるいは、成熟した揺るぎない家族の愛情かもしれない。

 そして、この旅へ至るまでに――

 大切な人を傷つけずに居場所を守ろうとする、気高い強さがあるんだって教えてもらった。

 差し伸ばされた手をとって、再び立ち上がるための力をもらった。

 今度は、私が彼女を守る番なんだ!!


「――私は、あなたが望んだ美しい夢。あなたが願った夢を叶えた、私なの」


 私はもう、過去をやり直したりなんてしない。

 過去の因果も今の「私」が全て引き受けて――背負っていくんだ。

 幼い彼女は大きく瞳を開いて、しおりを隅々まで見つめ続けた。そして無垢な瞳がいちだんと煌めいて、しおりが拭った涙の跡を再び濡らしていく。

「……かみさま、ありがとう」

 彼女が零した涙が地面に落ちた、その瞬間。

 ちりん……と軽やかな音が響き渡って。

 世界に、色が灯った。

「……!」

 しおり達を取り巻いていた花々が、涙の波紋に呼応するように各々の色を取り戻していく。

 モノトーンの世界に、澄んだ瑠璃色のロベリアが、透き通る空色のワスレナグサが、鮮やかな桃色のペチュニアが悠然と屹立する。地面を吹き抜ける大きな風に運ばれて彼らは花吹雪となり、空を彩るように舞い上がっていく。

 空白のカンバスに折々の色が命を宿すその様は、世界の息遣いのはじまりだった。

「――――とう、――――」

 新たなはじまりのなかで、彼女の声が遠くなり、しおりの元に届かなくなっていく。吹き荒れる風に飲み込まれるように、小さな彼女だけが形を失い始めて、白、青、紫、ピンク――色とりどりのカンパニュラの花びらに包まれていく。しおりは何かを必死に叫んで、崩れゆく彼女に手を伸ばす。

 しかし、その手は空を切った。しおりの手が、あの柔らかな温もりに再び触れることは決してなかった。

「――――」

 彼女から迸ったまばゆい光に、しおりは思わず目を閉じる。

 それから再び目を開くと、風は止んでいた。

 幼い彼女が立っていた場所には――カンパニュラの花びらが静かに横たわっていた。

「……さようなら……」

 しおりは全てを見届けた後にゆっくりと立ち上がり、それから。

 背中を向けて、振り返ることなく歩き始めた。

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