3話 西園寺家

「雪村様」

 西園寺家の敷地に入って立ち尽くしていたしおりは、後ろから柊に声をかけられた。

わたくしは宗一郎様を呼んで参ります。その間、当家の庭園をご覧になるなどしてお待ち下さいませ」

 車から荷物を降ろし、しおりの前に立った柊は何気なく黒スーツの裾を掴むと――

 一瞬で、黒スーツから女性物の使用人の衣装に早着替えしてみせた。

「……えっ!?」

 何が起こったのかしおりには全く分からなかった。しかし、当の柊はあくまで涼しい顔をしている。

「どうかされましたか、雪村様?」

「だ、だって柊さん、さっきまで黒いスーツ着てたのに……な、なんで? というか、どうやって着替えたんですか?」

 慌てふためくしおりに対し、柊は口の端に僅かな笑みを湛えたように――しおりには見えた。

「私の特技でございます」

 それ以上語ることなく、柊は凛とした立ち姿で屋敷へと続く道を進んでいく。

「……」

 しばらくぽかんとしていたしおりだったが、自分の荷物の存在を思い出し、柊がトランクから降ろしてくれていた荷物を手に取った。

「……当家の庭園って、言ってたけど」

 それは。

 目の前から屋敷の手前まで広がる、広大な自然のことを指しているのだろうとしおりは理解し、庭園を歩き始める。

 そこには人の手によって完璧に計算されながらも、計算を遥かに超えた圧倒的なまでの生命の奔放さが広がっていた。

 正面には、堂々たる風格の大きな花壇が鎮座している。そこでは大輪の牡丹と、幾重にもその豊かな花弁を広げた芍薬が、互いの美しさを競い合うように、しかし決して互いを邪魔することなく咲き誇っている。その一つ一つの花が持つ、圧倒的なまでの存在感と気品。それは、この西園寺家そのものが持つ揺るぎない威厳を象徴しているかのようだった。

 整然とした花壇から少し小道へと視線を移すと、庭園の表情は一変する。

 小道の脇には、燃えるような赤や目の覚めるような白いツツジの生垣が折り重なり、どこまでも続いている。

 そして、ツツジの海の向こう側にはルピナスが、紫色、あるいはピンク色の槍のような花穂を天に向かって力強く突き上げていた。その姿は、まるで昇り藤の名の通り、大地から天へと駆け上がろうとする芽吹きの象徴のようであった。

「……すごい……」

 個人の庭園の規模とはとても思えない、圧倒的なスケールにしおりは飲み込まれそうになる。

 カラカラとキャリーケースを引く音だけが、この世界が現実であることを強調していた。

「あれ?」

 バーゴラ――イタリア語でブトウ棚を表すガーデンフレームの傍に、誰かがいることにしおりは気付いた。

「……」

 しおりがゆっくり近づくと、その人物は地面にカンバスを置き、そこで風景を写生していることが分かった。

 歳の頃は高校生といった風貌の男子で、座っていながらも身長はしおりより高いことが見て取れる。

 彼は上質な白いTシャツの上に、深いオリーブグリーンのリネンカーディガンを無造作に羽織っていた。袖を少しだけまくり上げているため、彼のやや細い手首が覗いている。パンツはベージュのチノ素材だが、その美しいドレープ感が仕立ての良いチノパンであることを示していた。

 全体的にゆったりとしていながらも、決してだらしなくはない。その絶妙なバランス感覚に彼の育ちの良さが滲み出ているようだった。

 もしかして、この人が……と、しおりが考えていると、彼はしおりの気配に気付いて手を止めた。

「……お客様ですか?」

「あ、ええと」

 彼のフォーマルな、しかしどこか柔らかい雰囲気に気を取られてしおりは言葉がうまく出なかった。

「初めまして、西園寺拓人です」

 ぺこりと、彼は軽く礼をした。

「ど、どうも。雪村しおりと言います……」

 西園寺と名乗ったこの彼こそ、自分の家庭教師の相手なのだとしおりは確信した。

「……あの、絵が好きなの?」

 きごちないしおりの問いに、拓人はカンバスへと視線を戻す。

「絵を描いていると落ち着くんです。この庭園なら題材にも困らないので」

 しおりが彼のカンバスを覗くと、パーゴラの梁に吊るされたハンギングバスケットから顔を出した、ペチュニアの花がスケッチされていた。まだ下書き段階だが、既に甘い香りが漂ってきそうな趣があった。

「いい趣味だね」

 しおりの言葉に、拓人はなぜか答えることはなかった。

 絵を描くことに集中したいのかもしれない、としおりが顔を上げると。

 柊と、一人の男性がこちらに向かってやってくるのが見えた。

「お待たせ致しました、雪村様」

 柊がその歩みを止めると、隣にいた男性が一歩前に出て、口を開いた。

「初めまして、雪村しおりさん。私が西園寺宗一郎だ」

 オールバックにまとめた威厳そのものの風貌は、写真で見る以上だとしおりは感じた。

 宗一郎は光の角度によって僅かに表情を変える、深いミッドナイトブルーのスーツを身に付けていた。最高級のシルクが織り込まれているのであろう、その生地は彼の動きに合わせて、まるでそれ自体が生きているかのように滑らかな光沢を放っている。

 シャツはもちろん純白。しかしその襟元は少しだけ高く、彼の長い首とシャープな顎のラインをより際立たせている。

 ネクタイを結んでいない代わりに、第一ボタンまできっちりと留められたストイックな着こなしは、彼をグループ企業のトップたらしめる、何者にも媚びない孤高の精神性を強く感じさせた。

「……ゆ、雪村しおりです。この度は、その……が、頑張ります」

 なぜ自分を家庭教師として雇ったのか……などと聞ける雰囲気ではなかった。

 宗一郎はしおりの言葉に軽く頷くと、事務的な言葉をいくつか投げかける。

「この後、夕餉の席を交えようか。雇用契約書も取り交わそう。柊、彼女に生活面の案内をしてくれ」

「承知いたしました」

 それから、宗一郎はしおりの傍にいる拓人へと視線を向ける。

「……拓人、彼女は今日からお前の家庭教師だ。覚えておくように」

 拓人の視線はカンバスの方を向いたまま、決して宗一郎と交わることはなかった。

 宗一郎は拓人の返答に期待する様子もなく、踵を返して屋敷へと戻っていく。

「拓人様」

 柊は、写生を再開しようとした拓人にそっと声を掛ける。

「もうすぐ日が暮れます。画材道具を片付けるのであれば、お手伝い致しますが」

「……ありがとう、柊。僕のことは気にしないで、その人を案内してあげて」

 拓人の言葉に柊はやや逡巡する素振りを見せたが、優雅に一礼するとしおりに向き直った。

「お待たせ致しました。これより雪村様が滞在されるお部屋までご案内致します」

 使用人という鉄仮面を崩さないまま、柊はしおりを屋敷へと案内し始める。

「……」

 黙々と写生に戻る拓人の姿が、どこか寂しげにしおりには思えて。

 屋敷へと歩きながらも、遠目に彼の姿を収めていた。

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