メイとアン

真久部 脩

第1話:プロローグ — 光と影の予感


◇図書館の月、杏奈の日常◇

***


朝の陽射しが差し込む図書館は、まだ開館前の静寂に包まれていた。


「おはようございます」


栗原くりはら杏奈あんなは誰もいない館内に向かって小さく挨拶すると、いつものように返却カウンターの整理から一日を始めた。

今日で二十四歳になった彼女にとって、この静かな時間は何よりも大切だった。


本の背表紙を撫でるように指先で確認しながら、杏奈は昨夜読んだ小説のことを思い出していた。

天照てんしょうあきらの新刊『夜明けの詩人』。

繊細な文章に心を奪われ、気がつけば夜中の三時まで読み耽っていた。


「また寝不足ね、杏奈」


振り返ると、同僚の田中さんが苦笑いを浮かべて立っていた。


「あ、おはようございます。すみません、また夢中になって……」


「天照輝でしょう?あなたの顔を見れば分かるわ。新刊が出るたびにその表情になるもの」


杏奈は頬を赤らめた。

確かに天照輝の作品には特別な思い入れがあった。

まだ若手の作家でありながら、まるで人生を見透かしたような深い洞察力。

いつか直接お会いできる日が来るだろうかと、密かに憧れを抱いている。


「今日は妹さんと二人、誕生日でしょ。ケーキでも買って早めに帰るのよ」


「でも妹は帰りが遅くなると思うから…」


「妹さん、また雑誌の表紙を飾るんでしょう?芽衣紗ちゃん、最近テレビでもよく見かけるわ」


杏奈の表情が微かに曇った。


妹の芽衣紗めいさ

同じ顔を持ちながら、まるで別世界に住んでいるような双子の妹。


杏奈は図書館という静かで穏やかな光が差し込む場所で、自分の世界を築いていた。


「ええ、そうですね」


短く答えて、杏奈は再び本の整理に向かった。


◇都会の太陽、芽衣紗の輝き◇

***


一方その頃、都心の高級マンションでは、栗原芽衣紗が慌ただしく準備に追われていた。


「芽衣紗ちゃん、車が到着してます!」


マネージャーの高木たかぎ健太けんたの声が廊下に響く。

芽衣紗は鏡の前で最後のメイクチェックを済ませると、ヒールの音を響かせながらリビングへ向かった。


「お疲れさま!今日の撮影、楽しみにしてたのよ」


芽衣紗の明るい声に、高木は安堵の表情を見せた。

彼女のこの前向きさが、多くの人を魅了する理由だった。

まるで太陽のように周囲を照らす、彼女自身の輝き。


「今日は俳優さんとの対談企画もありますから。弓月ゆみづきげんさん、知ってますよね?」


「弦?」


芽衣紗の手が、胸元のペンダントに触れた。

下弦の半月を模した小さな石が、朝の光を受けてきらりと光る。


「ええ、もちろん知ってるわ。昔からの……知り合いよ」


高木は芽衣紗の表情の微妙な変化に気づいたが、あえて深く問わなかった。

この業界では、過去の人間関係について詮索しすぎないのが暗黙のルールだった。


「それじゃあ、行きましょうか」


芽衣紗は華やかなスマイルを浮かべて立ち上がった。

しかし、その胸の奥では、幼い頃の記憶が静かに蠢いていた。


◇ペンダントに宿る影◇

***


撮影スタジオに到着した芽衣紗は、久しぶりに弓月弦と再会した。

スタジオの人工的な光は、昼間のように明るいようで、どこか影を落としているかのようだった。


「芽衣紗、久しぶりだね」


弦の声は以前と変わらず低く、優しかった。

しかし、その瞳の奥に宿る何かが、芽衣紗には少し気になった。


「弦も相変わらずね。この前のドラマも良かったわ」


「観てくれたんだ。ありがとう」


二人は自然に会話を始めたが、周囲のスタッフたちは二人の間に流れる独特の空気を感じ取っていた。

まるで、長い間封印されていた何かが、今にも表面に出てきそうな——。


「そういえば、そのペンダント、まだしてるんだね」


弦の視線が芽衣紗の胸元に向けられた。


「ええ、お母さんの形見だから」


芽衣紗は無意識に石を握りしめた。

その瞬間、弦の瞳に一瞬、鋭い光が宿ったのを彼女は見逃さなかった。


撮影は順調に進んだが、芽衣紗の心には小さなざわめきが残った。

弦の視線が、時折ペンダントに注がれていたことが気になって仕方がなかった。


◇双子の夢と運命の兆し◇

***


その夜、杏奈は図書館から帰宅すると、いつものように一人静かに夕食を済ませた。

芽衣紗は仕事で遅くなることが多く、最近は二人が顔を合わせることは珍しくなっていた。

芽衣紗の分も作っておくのは、もう昔からの癖になっている。


食後、杏奈は胸元の上弦の半月のペンダントを手に取った。

芽衣紗の下弦と合わせると、一つの満月になる。

母が亡くなる前に、二人に託した大切な形見だった。

今日はそんな母の命日、そして私たち姉妹の誕生日でもある。


「お母さん……」


母の面影を思い浮かべながら、杏奈は天照輝の小説を開いた。

しかし、今夜はなぜか文字が頭に入ってこない。心のどこかで、変化の予感を感じていた。


午後十一時過ぎ、玄関のドアが開く音がした。


「ただいま…」


芽衣紗の声はいつもより少し疲れているように聞こえた。


「お疲れさま。夕食、温めておくわね」


「ありがとう、杏奈」


リビングで二人は久しぶりに向かい合った。

同じ顔でありながら、杏奈の落ち着いた雰囲気と芽衣紗の華やかなオーラは対照的だった。

まるで明と暗、月と太陽のようにすら感じられる。


「今日ね、弦に会ったの」


芽衣紗の言葉に、杏奈の手が止まった。


「弓月弦ってあの?……」


「ええ。なんだか様子が変だったの。私のペンダントをじっと見てて」


芽衣紗は無意識に胸元に手を当てた。


「気のせいじゃない?」


杏奈はそう言ったが、心の奥で小さな不安が芽生えた。

幼い頃の記憶、演劇部での出来事。


「そうかもしれないけど」


芽衣紗は首を振ると、疲れたように微笑んだ。


「今夜は月が見えないのね」


窓の外を見上げながら、芽衣紗がぽつりと呟いた。

確かに夜空には月の姿はなく、星だけが静かに瞬いていた。


「そうね……新月」


杏奈も同じように空を見上げた。

二人のペンダントが、微かに温かくなったような気がしたのは、きっと気のせいだろう。


「もう誕生日、ほとんど過ぎちゃったね。明日もお互い早いし、二人でお母さんに挨拶だけして寝ましょう」


杏奈がそう言って母の写真の前に立ち、芽衣紗も横に並んで手を合わせてから、それぞれの部屋へと戻った。


そしてその夜、不思議なことに二人とも同じ夢を見た。

母の優しい声が聞こえる夢。

月が満ち欠けを繰り返しながら、何かを伝えようとしている夢を——。


翌朝、目覚めた時、二人はまだ自分たちに何が起こったのか気づいていなかった。

それは、運命が静かに動き始めた瞬間だった。


(第1話 終)

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